マッカーサーが日本の降伏手続きのために飛行を認めたもので、軍用機から戦闘部分を切り離して白く塗り、緑十字を印したものです。マッカーサーが「平和の白いハト」と呼んだとか。
この「ハト」は、敗戦を認めようとしない交戦派からの手痛い妨害を掻い潜り、沖縄の伊江島で米軍機に乗り換えマニラに到着。これが8月19日のこと。
佐賀の大隈重信記念館を訪ねた時、庭に長身だった重信の銅像が建っていました。その建立に際して寄付金が余りにも集まっていなかったので、早慶戦を乗り越えて寄付したと義弟が苦笑していました。(写真はネットからお借りしました)
スポーツ界のみならずいつの間にか、早と慶を世間ではライバルとみていますが、この資料館で、福沢諭吉と大隈はずっと親交があったこと、暴漢に襲われて右足を失ったことを知りました。二人の関係を知ればもっと面白いだろうな・・・と。
ちょうど妹に貸していた『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』の下巻を所望され「???」・・・。私は上巻だけしか買ってないことに気づき慌てて購入。この中に二人の関係も詳しくでていたのです。
下巻は、義務教育では無意味に暗記した年表でしたが、その重要事項の羅列を分かりやすく繋いだ内容でした。諭吉を取り巻く政財界、教育界の人脈が浮き彫りにされて、渦巻く権力は資料をもとにした小説としてはなかなか面白いものです。
大隈とは「生涯を通じてライバルになったことなどなく、肝胆相照らす盟友であり続けた」そうです。義塾経営の財政難を相談したり、大隈のもとに有能な義塾生を送り込んだり、お互いの才能と人格を認め合っていました。
諭吉は思想家、教育家としてだけでなく、企業家としても渋沢栄一と比肩されるほどです。諭吉は情報交換のために「交詢社」を立ち上げ、ここで練られた構想が明治生命、東京海上、横浜正金銀行と、産業の近代化に貢献しました。
意外性は九鬼隆一の妻と岡倉天心の「不倫」。九鬼は妻と天心の関係に気づきましたが、不思議なことに、岡倉の才能をかっていた九鬼は力を合わせて美術の振興に大いに力を注ぎました。あの岡倉天心が・・・初耳でした。
九鬼は慶応義塾出身の官僚です。自分の門下から権力の亡者がでた情けなさと、九鬼の保身のために受けた裏切りを諭吉は終生憎悪しました。
もう一つは、諭吉の次女・お房の婿養子・福沢桃介のこと。米国留学と引き替えに強制的に婿養子となった桃介には相思相愛の女性がいました。後の川上貞奴です。(その後川上音二郎と結婚。海外公演、女優として活躍します)
お房は桃介の夜遊びに泣かされ、「桃介を去勢しておきたかった。そうすれば福澤先生も安心されたろうに」といわれるほど。福澤には3人の男の子がいましたが、娘を手元に置いておきたいほど子煩悩で、そのための婿養子だったようです。
その後、音二郎も亡くなり貞奴とよりを戻した桃介は、諭吉の死後は彼女と暮すようになり、聡明な貞奴のサポートで事業もうまくいったようです。
大隈重信から、大久保利通、明治14年の政変、自由民権運動、国会開設運動、教育令、改正教育令と激動の歴史が少ないページで分かりやすく書かれていました。いきなり始まった近代は困難の中こうして夜が明けていったのです。
夫が1泊のOB会に出かけるので、ひとりで世界遺産を訪ねようと計画していたら妹夫婦が同行してくれました。電車・バスを使ってもアクセスしにくい場所にあるので車は大助かりです。
秋晴れの中を走行中に話の内容から妹夫婦が過去に行ったことを知り申し訳なく思いましたが、「2度目でも新しい発見があるから楽しみ」とさり気ない心遣いと対応に感謝です。
有明海の北岸に位置した筑後川の下流に、干満の差15メートルを利用して作られていた海軍所のドックが、広々とした野原の地中に静かに眠っていました。
「三重津海軍所跡」は遺跡を目で見ることが出来ない世界遺産なのです。それはドックの骨組みが木造のために、空気に触れたら腐るという理由で埋め戻されているからです。
そんな可視「0」を「有」にしてくれるのがVR機器「みえつSCOPE」。音声ガイダンスを聞きながらSCOPEを覗くと、160年前の三重津海軍所のパノラマが浮かび上がります。5つのポイントごとに映像が切り替わり、それぞれの施設の説明があります。
この海軍所開設の中心になった佐野常民を顕彰した「佐野常民記念館」がすぐそばにあり、当時の海軍所の様子が細かく説明されています。
海軍所のドックは独特な作りで、底には貝殻を敷き詰め、側面は土と木で作られた日本最古のものとなっています。佐賀藩が自力で近代化を目指した苦心と苦労がしのばれます。
佐野常民は本でもよく目にしていたのでずっと気になっていました。ここで大きく取り上げられてやっとその全貌を捉えました。幕末の意気高き佐賀藩の、7賢人の一人だったのです。
お昼ご飯はお気に入りのお店という高級感漂う「本庄うなぎ店」でご馳走になりました。
久しぶりの専門店でのうなぎの蒲焼きはくどさがなくふっくらとしていました。食べた後のさっぱり感までがご馳走の範囲。ごちそうさまでした!
食事の後は、北へ向って佐賀市内の「肥前さが幕末維新博覧会」へ。ここは2度目ですが見ていないところもまだあります。
大隈重信記念館と生家。180㎝の巨漢だった重信は暴徒に襲われて片足を失いますが、お気に入りの赤いガウンと共にその義足も展示されていました。
早慶戦ではなく、諭吉とも親交があったようで諭吉関係の資料も展示されていました。
大通りの25の偉人モニュメントに再会。肥前は政治家は言うまでもなく、菓子メーカーの「森永」「グリコ」の創業者、大企業へと発展した「サロンパス」や「リコー」の創業者、建築の「辰野金吾「曽禰達蔵」などを輩出し、等身大のモニュメントがなぜか身近に感じられました。
徴古館。鍋島家の伝来品が展示されており、前回から展示替えがあっていたのでここも見てきました。佐賀藩は長崎警備を命じられていた事から対外国への危機意識が強く、それが原動力となり近代化に踏み切った実践力は、同じ長崎警備の福岡藩とは全く違っていました。
玉屋デパートの1F「ながさき幕末館」を覗くと、ここは佐賀藩とかかわりの深かった長崎県からの特別出展で、狭いスペースには色々と工夫が凝らしてあります。
古写真の中にフルベッキの集合写真を見つけました。「ここに龍馬が写っている」という説を聞いていたので探していたら、「結局は色々な資料を付き合わせた結果、ここに龍馬は写っていないという結論です」とのスタッフさんの説明にちょっとがっかり。
そんな私を気遣ってか「せめて集合写真の中に入りませんか?」と、古写真と合成体験し、スマホにダウンロードしてもらいました。
維新前後の熱きエリート達の後ろに立った「賄いのおばさん」、タイムトリップして上機嫌です。(この44人は佐賀藩が長崎に設けた英学校「致遠館」の生徒たちという説もあります)
こんなに歩きづめだったのに、妹夫婦は地元のレストランで夜のライブコンサートを楽しむそうで、お互いにいつまでも元気にしていたいものです。
私は佐賀駅から高速バス。高速が混んでいたので福岡まで2時間もかかり帰り着いたのは9時前。3㎝のローヒールで歩き回ったので足の薬指が痛い・・・。
このところスポーツ界の不祥事が続出していますが、テニス、サッカーと選手たちの活躍ぶりが明るいニュースです。
3日から日経で新しい連載小説が始まりました。池澤夏樹『ワカタケル』。雄略天皇の生涯が綴られるようです。
暴君であると同時に偉大な国家建設者という雄略天皇。5世紀の『宋書』の中の「武」は雄略天皇と見られており、日本の外側からみたワカタケルの展開も期待しています。
スパッとさわやかで、野太く、猛々しくもある文体は魅力的で、この時代にはこの文体しかない・・・とは私の独りよがりかな。挿絵も内容と文体にピッタリで毎朝が楽しみです。
この時代は資料が少ないために、更にロマンの広がりがありそうでわくわくします。
池澤夏樹の本は読んだことがありませんが、福永武彦の長男ということで気になっています。
今朝、洗面台の鏡を見ながら唐突に頭に浮かんだのが「佐賀へ行こう!」。夫は終日お出かけ、天気はいい、気温も上がらない・・・。今、「肥前さが幕末維新博覧会」が開催されており、のんびり街歩きをしようと思い立ちました。
高速バスで80分で到着。県庁展望レストランで伊万里牛のランチで腹ごしらえをしてから街中に散らばる会場を訪れます。
★ 幕末維新記念館 佐賀藩の歴史全体をアニメを交えた大型スクリーンで紹介。
★ リアル弘道館 幕末維新期の佐賀の偉業と躍動の母体となった藩校「弘道館」を、見て、体験。
★ 葉隠みらい館 佐賀の風土に溶け込んだ葉隠の本質に触れます。
★ 旧古賀銀行 鍋島家の資料とカフェ
★ オランダハウス 西洋の技術を導入するきっかけとなったオランダとの交流を深めるための施設
★ 徴古館 県内初の博物館。現在は佐賀藩主・侯爵鍋島家に伝来した品々を紹介する博物館
佐賀にはゆったりとした時間が流れています。建物も威圧的でなく、押しつけがましくなく、優しさが伝わる街です。
旧古賀銀行は鍋島家の資料が展示されていますが、その一角はカフェになっています。
佐賀駅までの歩道や公園には、佐賀出身の偉人を巡るモニュメントが25像あります。
直正の教育担当・古賀穀堂、10代藩主・鍋島直正、蘭学を導入した武雄領主・鍋島茂義
枝吉神陽、赤十字社の基礎を築いた佐野常民、北海道開拓の父・島義勇
早稲田大学の創設者大隈重信、外務卿・副島種臣
司法制度の基礎を築いた初代司法卿・江藤新平、初代文部卿・大木喬任
他に東京駅の設計者・辰野金吾、近代医学の祖・伊藤玄朴、森永製菓の創業者・森永太一郎、江崎グリコの創業者・江崎利一、『次郎物語』の著者・下村湖人・・・などなど。
福岡藩と共に長崎警備に当たった佐賀藩は、相次ぐ外国船来航に危機感を覚え、反射炉の築造、大砲の製造、三重津海軍所(世界遺産)や実用蒸気船「凌風丸」を建造して強大な軍事力を備え、幕府や朝廷からは一目置かれました。
しかし幕末の政局には加わらず、戊辰戦争の勃発でやむを得ず参戦します。その後は大隈、大木、江藤、副島が政権に参加していきます。
なぜ幕末の争いに加わらなかったのか。今までは直正が「消極的」と解釈されていましたが、展示では「国内で争っている場合ではない」と最後まで戦いをのぞまなかったことが取り上げられていました。
徴古館では、直正が戦いをのぞまなかったのは、幼い時に受けた教育の為という資料が展示されていました。「一味同心」、藩主も庶民も協力して一つになれば、鍋島家も藩も続いていくという事です。
司馬遼太郎の『アームストロング砲』、『肥前の妖怪』を読んでいたので、作品の中の人物に出会えたような、体温を感じるような身近さをおぼえました。
NHK「歴史秘話ヒストリア」は、あまり知られていない歴史の空白を埋めるとても楽しい番組です。しかし、資料に基づいているので単なる娯楽番組ではありません。
「家康 大航海時代に出会う!イギリスの侍 按針の大冒険」は、私の知らない歴史の空白部分をピッタリ埋めるのに見応えのある番組でした。
按針とは「三浦按針」、英国人ウィリアム・アダムスのことです。大分に流れ着いたリーフデ号の乗組員で、家康に謁見します。
この按針役をパックンが熱演。目力のある演技力にびっくりしました。今後役者の道が開けそう。 ◎ 江戸初期の貿易に絡むスペイン・ポルトガル 対 オランダ・英国の宗教的対立の中、家康の信頼を受けた按針は初めての大型帆船を建造します。スペインは次第に遠ざけられ、出島に開かれるのはオランダ商館です。
◎佐渡金銀山にスペインの最新の精錬技術を導入したい家康を、老獪なスペインの進出から守ろうとした按針の外交戦。
◎ 按針の望郷の念が呼び寄せた英国船、ひいては貿易に発展する日英関係の端緒を開きます。
家康と漂流船のウィリアム・アダムスが出会った偶然。関ヶ原の戦いを目前にして家康は大きな幸運に恵まれました。
教科書では、漂着したウィリアム・アダムスが家康の外交顧問として取り立てられ「三浦按針」の名前をもらった、と簡単な記述でした。今の教科書でどんな内容になっているかは知りませんが、やっぱり教科書って面白くなかった・・・。
放送時間 水曜 22:25~23:10 再放送 土曜10:05~10:50
長かった大河ドラマ「官兵衛」も今日で終わりました。福岡市民は「福岡」がテレビに登場するのを今か今かと待っていましたが、実際に映った場面はたったの2,3分・・・。1年間「官兵衛」で湧いた福岡市民にとっては拍子抜け・・・o(^-^)o
今日のラストシーンで、長政には長男・萬徳(2代藩主忠之)が誕生します。そして官兵衛は最も信頼する家臣・栗山善助に形見の「銀白檀合子形兜」を与える場面が出てきます。「その兜はわしじゃ。わしの魂をお前に託す。親代わりになって長政を助けよ」と。これがその30年後に起こった「黒田騒動」の伏線になります。
(写真は銀白檀塗合子形兜 盛岡市の指定文化財 )
長政は、萬徳(忠之)は次の藩主の器ではないと廃嫡も考えていましたが、播磨時代からの功臣の家系の栗山大膳(善助の子)が思いとどまらせ、曲折を経て長政亡きあと忠之は第2代藩主になりました。しかし性格の違いもあり忠之は次第に大膳を遠ざけ、新しい側近・倉八十太夫を重用します。
倉八十太夫に命じて、幕府に届を出さずに軍艦を建造したり足軽を増強したりと勝手な行動は幕府に目を付けられます。その上、独断での旧臣の排除、湯水のごとき金遣い、無理な税の徴収、女性にもだらしない乱行は几帳面な大膳を困らせました。
大膳は「合子形兜」に込められた官兵衛の魂を心に、黒田藩を守らなければなりません。大膳はしばしば諌めますが、逆に大膳が藩主に対して謀反を企てているとして亡きものにされようとします。このままでは福岡藩は改易の憂き目にあうと考えた大膳は、豊後府内藩主の力も借りて江戸に上り、忠之に謀反の疑いありと幕府に訴え出ます。公儀の元で忠之と大膳の尋問が始まりました。
大膳が大目付からなぜ事実無根の訴えをしたのかと聞かれた時に、「忠之が諌言を聞かず勝手放題、このままでは藩は取り潰されるだろう。忠之に謀反の気持ちがないのは明白だし成敗はないだろうが、公儀の面前で悪政を申し立てられれば深く反省するだろう」と計略的だったことを白状しました。
結果は、「忠之の治世は不行き届きにつき、黒田藩の領地はいったん召上げる。しかし父・長政の戦功を鑑みて新たに旧領地をそのまま与える」というもの。つまりお咎めなしということです。
大膳には「主君を直訴した罪で盛岡に配流。150人扶持をあたえる」という恩情ある破格の決定がなされました。
テレビのラストシーンで、官兵衛は最も信頼を寄せる善助に、自分の兜に「官兵衛の魂」を込めて下賜しました。それを引き継いだ子の大膳も、官兵衛の魂を心に身を賭して黒田藩を守り通し、盛岡に配流された時にも手放すことなく持っていきました。今もそれは盛岡に大事に保管され、福岡にあるのは3代藩主光之が官兵衛を偲んで作ったものだそうです。
その後の忠之は、島原の乱、長崎警護で活躍し、街づくり、藩固めをしています。命を懸けて藩を守った栗山大膳のおかげで、黒田藩は明治維新まで続くことになります。大膳のその心は周りの人の心を動かし、預かりの身とはいえ盛岡藩で62歳で亡くなるまで大事に扱われたそうです。
黒田騒動は、伊達騒動、加賀騒動と並んで三大お家騒動とも言われていますが、この騒動は誰の血も流さなかったという事で有名です。
今日のNHKドラマ「軍師官兵衛」にちらりとこの平蜘蛛の釜のことが出てきました。
松永久秀が信長からどんなに所望されても見せることもしなかった釜。そして謀反を起こしついには信長に攻められたときに、この釜とともに自爆し果てたという代物で、このことは井上靖『平蜘蛛の釜』に書かれています。
蜘蛛が這いつくばったような形をしているので「平蜘蛛」の名がついたようですが、ドラマの中では松永久秀のぎらぎらした目の前にある平蜘蛛の釜が丸っこい形をしていたので、ちょっとイメージからずれてしまいました。
ともあれ、一国を左右するほどの茶器類。この戦国の時代に、武将たちの茶器への異常なまでの関心事、所有欲が茶道や陶器の発展を後押ししたのでしょうか・・・。
アーモンドの花数が年々増えて、花も大きくなっている気がします。これは孫がショベルを使えるようになってから、記念に一緒に植えたものです。
その種が落ちて気づかないうちに芽を出しており、今少しずつ成長しています。そんな矢先に二人目の孫が誕生。実生で頑張っているアーモンド、花がつけばいいなと楽しみにしています。
明日から退院した娘と赤ちゃんと6歳児が我が家でしばらく静養します。しばらくはブログも更新できないと思います。
熊本城本丸御殿復元がなって早5年。すぐ隣の県で、高速で2時間なのにやっと訪れました。日本建築の粋を集めた54万石の熊本城の雄姿は、さすが日本3名城のひとつと納得できます。
大天守と小天守。築城したのは加藤清正。江戸時代に改易され、その後240年間細川家の居城となりますが、西南戦争の折に焼失します。その後、二つの天守は昭和35年(1960年)に復元されています。
平成20年(2008年)春には「本丸御殿」が落成し、あっという間に目標の入場者に達したことで話題になりました。
一番見たかった「昭君乃間」。白い馬に乗っているのが王昭君。
豪華な障壁画の説明書きには、『 王昭君(紀元前1世紀)は、楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人。前漢の時代、和睦の証として女性を送る習わしがあり、元帝は匈奴へ贈る女性を、後宮の中の醜い女性の中から選ぶため似顔絵を描かせたが、似顔絵師に賄賂を贈らなかった美しい王昭君は、一番醜く描かれていたために選ばれてしまったという。 』とあります。
王昭君については今や伝説化していて、いろいろなストーリがあるようですが、井上靖 「明妃曲」が面白いと思います。昭君を悲劇のヒロインとしてとらえていないところが井上文学らしいと印象に残っています。
「若松の間」。 藩主が家臣と対面する時の18畳の間。
他にも、数寄屋造りの茶室、大御台所、廻廊、天井、杉戸絵などなど、外国人もこの木造建築の技と粋を見たらきっと度肝を抜かれることでしょう、感嘆することでしょう。
左: 「 熊本城周遊バス しろめぐりん 」 一日乗車券300円。各施設の入館料も割引になります。熊本駅から熊本城を中心に、周辺の旧跡や施設を訪ねます。
右: 「 宇土櫓 (うとやぐら)」 西南戦争にも焼けなかった唯一の多層櫓。築城時の趣を今に伝える国指定重要文化財です。
左: 巨大な楠。樹齢100年という大楠がたくさん立っているのが見事です。堅牢な石垣で、反りの角度を何種類かに変えている「武者返し」は、天下一流と名を馳せています。
右: 濠の桜は7分咲きくらい。
地理的には近いのになかなか行く機会のなかった国東にやっと行ってきました。
豊後には、大分(オオイタ)、国東(クニサキ)、安心院(アジム)、日出町(ヒジマチ)…など大和言葉とはちょっとニュアンスの違う地名があります。ハングル語の知識は全くないのですが、感覚的に音が似ていると思っています。それに福岡の方言の言い回しがハングル語のイントネーションとよく似ているのです。九州北部はまさに渡来人の地なのでしょう。
写真の豊後高田の富貴寺大堂は、九州最古の木造建築物で国宝に指定されています。住職の説明によると、宇佐八幡大神宮家の祈願所として12世紀に建てられ、神社がお寺を建てるという神仏習合の日本第一号だそうです。為政者が変わるたびに幾多の変遷を経て、こんな山の中なのに爆撃も受け、一時は子供の遊び場になっていたとか。
内部には重文・本尊阿弥陀如来坐像が安置され、ほとんど消えかかっていますが極楽浄土を描いた壁画があります。ここと、平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂が日本三阿弥陀堂だそうです。
側の銀杏の巨木が大堂の歴史を物語っていましたが、山中の朝晩の冷え込みでもまだまだ紅葉には程遠いものでした。 まだ9時だというのにバス2台の観光客が来ていました。
宿は富貴寺の側にある旅庵「蕗の薹(フキノトウ)」。ドアの取っ手にまで天然木使用のこだわりの建物は温もりがあり、いまだに木の香がただよい心を和ませてくれました。
特産物の山菜、豊後牛、手打ちそばを使ったご当地料理を堪能しました。珍しかったのはマコモ料理。以前ブログで見たことがありとても気になっていたので、納得のいく料理でとても満足しています。
宿泊棟、離れ、かけ流しの温泉があり、静かな静かな国東の山中で早い眠りにつきました。
「竜馬がゆく」の心に残る場面としては、前回のいろは丸事件と船中八策です。
1867年6月、上洛中の山内容堂公に大政奉還を進言するために、参政後藤象二郎とともに長崎から船で出港。その船中で書かれたものと言われています。(以下は司馬氏の本から抜粋)
これまでに竜馬がかかわった横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、松平春嶽、河田小竜、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、武智半平太…などから受けた影響と思想から竜馬が作り上げた集大成のようですが、読んでいる最中は竜馬の思想が具体的にどんなふうに成長してるかをつかめませんでした。
船中八策は、大政奉還の案だけでなくその方法まで書かれています。司馬氏も、1条が竜馬が「歴史に向かって書いた最大の文字」、2条で民主政体にすることを規定したと評価しています。
幕府を倒した後の政体まで考えていたことに、同船していた象二郎は驚嘆します。かつては佐幕派だった象二郎ですが、時運と若い優秀な頭脳が竜馬の考えを受け入れます。受け入れる素地があったのは自らもずっと学んでいた証拠です。のちに竜馬の功績を象二郎が横取りした…と聞くこともありますが、即座に大政奉還を理解したところは、さすがのちに土佐を背負っていくべき人物だったと思います。
船中八策がもとになって象二郎と容堂によって大政奉還建白書となり、討幕へと大きな流れができていきます。教科書では、象二郎、容堂の名は見ても、ここで竜馬の名が出てくることはありませんでした。歴史は常に為政者側の歴史のようです。
もっとも竜馬は、日本を生まれかわらせるのが目的で、生まれかわった日本で栄達する欲はなかったようです。「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。八分までが困難の道である。後の二分は誰でもできる」と決して出世欲をみせませんでした。新政府樹立に功のあった「坂本・後藤閥と岩倉・西郷・大久保閥のふたつに分かれてしまう」ことを、聡明な竜馬がすでに懸念していたというのが司馬氏の考えです。
写真の「新政府綱領八策」は「船中八策」とは別のものですが、竜馬直筆のものです。
20年前の今日、1989年11月9日の衝撃的なニュースを忘れることができません。
ベルリンの壁の事実上の崩壊。10日の未明には壁の上に乗った市民が、ハンマーでそれを打ち砕いている映像を、全世界の人たちが歴史の生き証人として見守りました。東独の市民が独裁政権を恐れずに民主化を求めた・・・、この崇高な戦いは20世紀の終わりに素晴らしい歴史的な出来事だったと思います。
あれから20年。ドイツにはもう壁のことすら知らない人も増えてきたようですが、「冷戦」や「壁」の言葉を、政治の仔細はわからないまでも耳にし続けた私は、その映像を胸が熱くなる思いで見ていました。あの強固な壁を崩すことはできないだろうと想像していただけに、ハンマーの一振りに自由を求める人間の心情が痛いほど伝わってきました。
5年前に訪れたベルリンは、ちょうど壁崩壊から15年経ったときでした。この壁のかけらは壁博物館・チェックポイントチャーリーハウスで買ったものです。悲劇の記憶として、歴史の証拠として価値あるものです。博物館にはベルリン封鎖当時の様子や壁を乗り越えた失敗、成功談など、目を覆いたくなるような悲劇にみんな声を少なくして見入っていました。
上段の写真は、「イーストサイドギャリー」と呼ばれ、残された1300mの壁の一部です。旧ソ連と旧東独のトップ、ブレジネフとホーネッカーの情熱的なキスシーンを描いた人気の壁画です。
壁崩壊後の1990年に、世界の118人の画家が思い思いに描いたもので、私が5年前に訪れた時にはかなり痛んでいました。20周年を前にきれいに修復されているそうです。
特に壁崩壊の前にチェックポイントチャーリーを通過して東ベルリンに入ったことのある夫は、民主化されたドイツにその感慨もひとしおのようでした。
ドイツは悲願の統一を果たしましたが、もとの東ドイツは失業率も高く東西ドイツの格差が問題になっています。
東西冷戦終結の後に登場したグローバル化。この中で貧富の差や環境問題が深刻化していることも歴史の事実です。