「竜馬がゆく」の心に残る場面としては、前回のいろは丸事件と船中八策です。
1867年6月、上洛中の山内容堂公に大政奉還を進言するために、参政後藤象二郎とともに長崎から船で出港。その船中で書かれたものと言われています。(以下は司馬氏の本から抜粋)
- 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべき事。
- 上下議政局を設け、議員を起きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事。
- 有財の公家・諸侯、および天下の人材を備へ、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
- 外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事。
- 古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべきこと。
- 海軍よろしく拡張すべき事。
- 御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
- 金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事。
これまでに竜馬がかかわった横井小楠、勝海舟、西郷隆盛、松平春嶽、河田小竜、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、武智半平太…などから受けた影響と思想から竜馬が作り上げた集大成のようですが、読んでいる最中は竜馬の思想が具体的にどんなふうに成長してるかをつかめませんでした。
船中八策は、大政奉還の案だけでなくその方法まで書かれています。司馬氏も、1条が竜馬が「歴史に向かって書いた最大の文字」、2条で民主政体にすることを規定したと評価しています。
幕府を倒した後の政体まで考えていたことに、同船していた象二郎は驚嘆します。かつては佐幕派だった象二郎ですが、時運と若い優秀な頭脳が竜馬の考えを受け入れます。受け入れる素地があったのは自らもずっと学んでいた証拠です。のちに竜馬の功績を象二郎が横取りした…と聞くこともありますが、即座に大政奉還を理解したところは、さすがのちに土佐を背負っていくべき人物だったと思います。
船中八策がもとになって象二郎と容堂によって大政奉還建白書となり、討幕へと大きな流れができていきます。教科書では、象二郎、容堂の名は見ても、ここで竜馬の名が出てくることはありませんでした。歴史は常に為政者側の歴史のようです。
もっとも竜馬は、日本を生まれかわらせるのが目的で、生まれかわった日本で栄達する欲はなかったようです。「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。八分までが困難の道である。後の二分は誰でもできる」と決して出世欲をみせませんでした。新政府樹立に功のあった「坂本・後藤閥と岩倉・西郷・大久保閥のふたつに分かれてしまう」ことを、聡明な竜馬がすでに懸念していたというのが司馬氏の考えです。
写真の「新政府綱領八策」は「船中八策」とは別のものですが、竜馬直筆のものです。