母が白内障の手術をしました。今は手術も日帰りの時代になっています。右目は6年前に手術済みだったので、残る左目の手術でした。いつだったか眼科と脳外科は、飛躍的に医学が進んだと聞いたことがあります。繊細な眼のことなのに、本当に進んだものだと感心しました。
手術は15分ぐらいで済みますが、検査や点眼で前後3時間ぐらいかかります。帰宅後は一日4回の3本の点眼と飲み薬、防護眼鏡の着用、術後2日間の検査通院など90歳の母一人ではやはり心細かったと思います。1週間後の検診を無事に済ませて8日間の看護兼手伝いから帰ってきました。3日の予定が8日に延びたのは、1週間検診までは付き添うべきだという夫からのありがたいメールが入ったからです。
8日間も母と二人で生活することはなかなかなかったので、いろいろな発見もしました。母が昔から日記をつけているのは知っていました。ずっと大学ノートを使っていたので、あるときから姉が3年当用日記をプレゼントして、もう10冊にもなっていました。
縦に1ページ分、同じ日の3年分の日記が書けるようになっています。もちろん曜日は違ってきますが、去年の5月27日は何ををしていたかがよくわかるし、3年前のこの日・・・となるともう懐かしさがこみあげてきます。1冊に3年分の自分の記録が書き込まれるのです。
3年当用日記だから、(3年分×10冊)で30年間分の日記がこの中に凝縮されているのです。大学ノートも加えれば、まさに母の半生の歴史でもあるのです。
母と二人で日記を積み上げて見ていたら、面白い出来事を発見しました。1979年1月1日「イラン在住の婦女子の帰国命令が正式に発表されたと、テヘランから国際電話が入る・・・・」、1月2日「さっそく部屋の大掃除をして、部屋の割り当てを考える・・・・」、1月5日「成田に到着・・・・」、1月7日「無事到着して孫たちの無事な顔を見た・・・・」、1月8日「やっと落ち着いて正月らしい日を迎えた・・・・」
テヘランに駐在していた姉一家が、イラン革命の勃発で急きょ実家に引き揚げてきたときのことです。降ってわいたような「珍事件」に、母は孫の学校のこともあるので大変な出来事だったのでしょう。私はもう結婚していたので、詳しい事の顛末は知りませんでしたが、こんなことがあったのだと感無量でした。
白内障の手術後も、早く日記を書かないと忘れてしまうと気にしていました。私が帰る頃には、やっと日記が全部埋まったと安心した様子で、習慣というものは、体と心と日常の中にしっかりと根付くものだと感じ入りました。
日記の扉には、毛筆で「尊厳死を望みます。」と書いた紙が張り付けてあり、氏名に印鑑が押してありました。子供としては心中複雑なものがあります。現在の日記帳は2008年から2010年までの分です。いつまでも書き続けてほしいと思いました。