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右奥にある「博多がめ煮」が最高!ダシがよく効いて、京風よりは少し濃い目の味。特に味がしっかり染み込んだシイタケは絶品!鶏肉もぶりもホロホロ。くどくない濃い目の味は私には絶対出せない味です。京和風のお店の上品さはなるほどと納得できますが、ちょっとインパクトが足りないような。
10枚の古文書を解読して漢字と仮名で鉛筆書き、それをワードで入力します。
真夜中の作業、そう学習ではなく作業なのです。うとうとして、ハッと気がついて画面を見ると「あああああああ・・・・」がなんと4行半も打ち出されていました。
美しいほどの「あ」の行列に思わず笑いが漏れました。真夜中の寸劇です。
プリントアウトすると結構入力ミスがあり、最後の手直しをして提出です。
くずし字が難解で解読するのに精一杯。古文書の内容が理解できていない・・・という弱味がいつもつきまとっています。
五月の提出日だったのが諸事情で6月に延長されましたが、早く提出して心身スッキリして、積もっている家庭の仕事に取りかかるつもりです。
往きは3分咲きの桜の花でもルンルン気分、帰りは花も見えない沈んだ気分で・・・。
黒田の古文書を読もうと2008年に発足した古文書の会、先の『福岡藩家老 黒田播磨(溥整)日記 ― 嘉永六癸丑年 秘記 御当番 ―』の解読と出版から3年半が経ち、この度『福岡藩家老 黒田播磨(溥整)日記 ー 嘉永六癸丑年七月ヲロシア船長崎渡来之記 弐 ー』が出来上がりました。
嘉永6年は、ペリーの浦賀来航に続きロシアのプチャーチン艦隊が長崎に来航するという日本史にとっても重要な年。佐賀藩と共に長崎警備を担当していた福岡藩にとっては一大事の年です。
家老黒田播磨は急遽長崎に滞在することになり、警備の増強や長崎奉行とのやり取り、江戸藩邸との書簡のやり取り、艦隊の入港の様子、プチャーチン上陸に際しての様子や細かい取り決めなどが記されており、難しいながらも小説とはひと味違った臨場感を楽しめました。
私なんかは末席を汚すくらいであまり役には立っていませんが、解読をまとめ、資料をまとめ、製本の手続きまでを丁寧にこなしてくださる有能で強力なリーダー、黒田古文書会の先達による指導、明治維新学会の先生のアドバイスなどで、170ページに及ぶ本が立派に出来上がりました。
テキストに使っている上記原本の写真版は「露西亜人揚陸 略絵」の部分で、本では下記の右ページのようになっています。
端船の大波止横付けの図、通事、副使、旗持ち従者が80名ほど。使節の「傘ノ上ニ白毛之立物」、従者の「剣付筒」を持ち「足並能く揃」えて行進、「チャルヘラ」や太鼓の鳴り物入りの行列の様子が書かれています。
ちなみに早稲田資料からお借りした資料によるともっと分かりやすくなります。
文字を追うことにばかり気をとられて肝心の内容が把握できていないところがたくさんあります。もう一度この本を見ながら読み直せば充実感が出ると思います。
秋月、あきづき、この美しい響きが大好きです。福岡から高速を使えば1時間足らずの町に、サークルの研修を兼ねて秋の一日を遊びました。
先ずはうきは市へ。白壁と清流が美しい町です。白い町並みは子供の頃にタイムスリップした感がありました。町並みの維持管理は大変なことだと思いますが、それを上回る郷土愛がしっかり見えます。写真のように川の片側に2列の溝を作り、庭に引き込んだ水路に流す分と生活排水を流す分とに分けて環境に配慮してあります。
右手がこの水を取り込んでいる「山崎家」の庭。三奈木黒田家の御殿医だったという事から特別に見学させてもらい、お抹茶とお菓子のご馳走にまでなりました。
たっぷりと豊かに流れる川にはごみもなく、それが豊かな町、明るい町の印象を与えてくれます。数百年前に筑後川に堰を築き水路をめぐらして、町と田畑に水が行き渡る仕組みになっています。
樹木に覆われた清流庵は別世界です。和食レストランでランチを。源氏物語をイメージした個室が並んでいました。
満足の昼食の後は秋月城址散策と秋月博物館見学へ。
秋月は山あいに立地していて開発が遅れていましたが、城下町の特徴を残していたことから町並みを整備すると、たちまち“筑前の小京都”と呼ばれる人気の観光スポットになりました。
秋月藩の藩医、緒方春朔はジェンナーより6年も早く、人痘による天然痘予防を成功させました。実際に地元の庄屋の子供に試したようなことは、葉室麟氏の本で読んだ記憶があります。
三奈木黒田家は江戸期を通じて福岡藩の筆頭家老を代々努めてきました。その始まりは大河「官兵衛」でもお馴染みですが、官兵衛は伊丹領主・荒木村重に捕えられ土牢に1年ほども監禁されました。
その時の牢番・加藤重徳は官兵衛に手厚く接し、有岡城脱出の際の救出を手伝ったのです。官兵衛はその恩に報いるために重徳の次男玉松(一成)を育て、後には黒田24騎の一人として活躍するまでに成長しました。
その後24騎の家臣たちが次々と消えていく中で、唯一明治期まで1万6000石の家禄を家督相続しながら、家老の上座について重要な位置を占めてきました。
左は三奈木黒田家の初代当主黒田一成の墓、右は10代目溥整(ひろのぶ)の墓。サークルで溥聖の安政期の日記を解読することに挑戦しています。その意味での墓参りも旅の目的のひとつでした。
1個700gもある「新興」は、覆いの袋が少し破けるほどにパンパンに膨らんだ実が採り頃だそうです。3個で2キロの梨をゲットして重たいお土産に。滴り落ちる果汁と甘さとずしりとした重量感が、初めての梨狩りの思い出になりました。
庭の片隅にひっそりと咲いたバラ。切り花にすると存在感が増します。
福岡の地に居住するからには黒田藩のことを「知っておかねば」と、古文書のサークルを覗いてみたのが2008年。同じ日本人が書いたとは思われないような文字。90度回転させればさながらアラビア文字のようです。この時代に生まれなくよかった・・・。きっと落伍者になっていました。
古文書を読む会で「福岡藩家老 黒田播磨日記 ― 嘉永六癸丑年 秘記御当番 ―」の解読を始めてから6年・・・。やっと製本にこぎつけ、先日200冊が出来上がってきました。
福岡市の先導で始まった古文書解読。終了の暁には製本して関係各所に配布するというのが建て前です。まだまだ膨大な量の古文書があるそうです。
黒田播磨は代々福岡藩の筆頭家老を努める三奈木黒田家の第10代目にあたります。
初代誕生のいきさつは、ドラマ「黒田官兵衛」のクライマックスシーン、官兵衛が荒木村重に幽閉された時にまで遡ります。
幽閉中に敵の身ながら牢番加藤重徳は官兵衛に温情をかけてくれ、官兵衛は救出された後その恩に報いるために次男を引き取って養子にします。長政の弟のように育てられ黒田一成の名前をもらいました。
関ヶ原の後黒田家が筑前に52万石の領地を得たとき、黒田一成は15000石を与えられます。これが三奈木黒田家で、藩でただ一人の大老職を務める「格別之家筋」として明治まで続きます。
そんな黒田藩家老、黒田播磨の日々の記録です。嘉永6年はペリー来航があり、ロシア艦隊が長崎に現れたりと日本は騒然とした時代です。人物一覧表なども入れるとおよそ250ページもなりました。
上段は、写真撮影した古文書でこれを手分けして解読していきました。
下段がその活字版です。
世の中にはこんな貴重な辞書があることを初めて知りました。『くずし字辞典』です。1Kgもあります。過去の膨大な墨蹟から色々なくずし字を拾い集めて載せられ編集者の執念を見る思いです。
もっともこの辞書だけでは先へは進めず、到底話にはなりません。手取り足取してくださる指導者の真摯な指導にありました。
文字をたどるのが精いっぱいで内容を深く吟味はできませんでしたが、佐賀藩と交代で長崎警備にあたっていたこと、武具の調達、金の動き、飛脚等通信のこと、登城の際の服装など、感情を交えずに記されています。
当時の外国の軍事力の認識を示す一文があります。「異船が不意に襲ってきたら焼き討ちもよし。・・・台場で石火矢大筒を以て打ち挫く。当方の船の帆柱を外国船に倒しかけたり、長熊手を打ちかけてこれを足場にして乗り移り、斧で相手の帆柱を切断し焼いたり・・・矢や松明を船に投げ入れ、当方が乗り移って防ぐ・・・」まるで源平合戦のようです。
そればかりでなく、武士のニュースもあります。不義密通、婚姻、離縁、放火、上司を殺して逃げていること、狩りのこと、歯痛腹痛で欠勤したこと、親孝行のこと、長寿を表彰したこと、病人が夏でも足袋の許可を申請した事などなかなか面白いところもあります。この後は「ヲロシア船渡来之記」の解読に入っています。
本になった段階でゆっくり読み直せばもっと楽しめそうです。