友人の間を回りまわって私のもとに届いた文庫本、原田マハ「ジヴェルニーの食卓」集英社文庫。マティス、ドガ、セザンヌ、モネにかかわる4話の短編集です。ちょうど司馬遼太郎「この国のかたち」の角ばった文章を読んでいた目には、マハさんの透明感のある優しい文章とストーリーにホッと心を和ませました。
第1話「うつくしい墓」はマティスの晩年を描いた小説です。第二次大戦後のニースで孤児になった絵の好きな少女マリアが、富豪で絵画コレクターの未亡人の家政婦になり信頼を得たことから物語は展開していきます。
ある日女主人の命を受け、広大な庭のマグノリア(タイサンボク)の大木から3輪の花を切り取ってマティスに届けます。84歳の車椅子のマティスは、マグノリアを飾るためにマリアに花瓶を選ばせます。マリアが選んだのは翡翠色の花瓶、それも1輪だけ挿して。この行動がすっかりマティスの心をとらえて、今度はマティスの家のお手伝いとして働くことになりました。

ネット「季節の花300」からお借りしたタイサンボクの花
実はマティスは1941年に『マグノリアのある静物』で、全く同じ花瓶に1輪だけのマグノリアを描いていたのです。その頃は戦争も長引きそうで、マティスは十二指腸がんの手術後で、と明るいニュースは何もない時。マティスは騒がしい時期にあっても調和を表現すること、それが「私の勝利」だと絵に没頭します。
マリアのこのセッティングは「ほんとうにほんとうの、偶然の一致」でした。1枚の絵からこんなストーリーを膨らませていくマハさんのしなやかな頭脳に感服しました。キュレーターの履歴を持つマハさんの力量発揮というところでしょうか。この絵は私もポンピドーセンターで単なる静物画として見ていはいたのでしたが…。

マティス「マグノリアのある静物」1941年
その日からマリアは、マティスの死に至るまでの6か月間を「悲しみは描かない・・・・ただ生きる喜びだけを描き続けたい」というマティスの傍で過ごします。
車椅子のマティスは、油彩画はやめて切り絵画に専念していました。その作業は秘書のリディアが手伝います。実際はリディアはマティスのモデルもつとめ、ミューズであり若き伴侶のはずですが、ここではマティスとリディアや富豪の未亡人との関係を詮索することなく、マハさんは陽光がきらめくニースの、美しいハーモニーのある明るい生活に仕立てています。

ロックフェラー礼拝堂のバラ窓 ベッドでドローイングするマティス
この頃、マティスは車椅子で切り絵をしたりベッドでドローイングをしたりしてロックフェラー礼拝堂のバラ窓の制作中でした。その作業を終えて間もなくマティスは84歳の生涯を閉じます。その魂はマティスが「生涯を通して、もっとも重要で、かつ集大成となる仕事と認められているロザリオ礼拝堂」に息づいています。
ニースのロザリオ礼拝堂 ロザリオ礼拝堂「生命の木」
「生涯を通して闘い続け、愛し続けた友」であるピカソとの交流にも触れています。ピカソは26歳の頃マティス『生きる喜び』をパリのアンデパンダン展で目にして虜になります。「マティスがいてピカソと出会った」瞬間です。
ピカソ『血のソーセージのある静物』。同じ1941年に、平静さを追及していたマティスはマグノリアを、ピカソは戦争に対する抑えようもない激しい感情を描いています。まさに正反対の静と動の画家。反発しつつも交錯しあいながら二人の人生はマティスの死まで太い糸で結ばれていました。

マティス「生きる喜び」1905年 ピカソ「血のソーセージのある静物」1941年
この物語はマリアの思い出語りとして書いてあるので文章も美しく、読むだけでカラフルな場面をイメージでき、口調までもが耳に響きます。場所がパリでなくニースというのもうなずけます。
4話を通して歴史上の人物、印象派、ポスト印象派の画家たち、作品のタイトルがずらりと出てきてフィクションなのに本当にあったのでは…と思わせます。文中に出てくる作品をどうしてもアップしたくてネットで探しました。
私がマティスの絵で深く心を動かされたのが、エルミタージュ美術館で見た大型の「赤の食卓」。今もその感動は薄らぎません。以来どこに行ってもマティスの絵を探してしまいます。そのマティスがこの本の最初に出てきたので夢中になって読みました。この偶然にも気をよくしています。

マティス「赤の食卓」1908年 180×220