熊本で4度目の正月を迎え、金之助(漱石)はここの生活を気に入っていましたが、心の底ではどうしても落ち着かない部分があるのです。今の五校の教職はたまたま転がり込んできたもの、本当に自分のやりたいことは・・・と悩み考えているうちに、イギリス留学の話が持ち上がりました。
文部省の依頼は「英語授業法ノ取り調べ」ですが、行ってしまえば英文学を学ぶことも可能ということで、第1回の給費留学生となります。
現職身分のまま留学費1800円、留守宅には年額300円が支給されることにされることになりました。好条件にも思えますが、日本と物価の違いは大きく、この後金之助は苦労することになります。
1900年(明治33年)9月8日横浜出発→9月25日シンガポール→ペナン→10月1日コロンボ→10月10日紅海に入る「赤き日の海に落ち込む暑さかな」→14日スエズ運河を抜けて地中海へ→ナポリ→10月19日ジェノバ上陸、翌日汽車でパリに向かいます。
丁度パリでは万国博覧会が開催されており、1週間余り滞在して見学します。日本の陶器と西陣織が異彩を放っているのに感心しました。
パリでは産業革命が人々に実利を与え、芸術活動が大衆の中で大きな広がりを見せていました。パリは日ごとに暮らしが豊かになることを実感できる花の都でした。
ちょうど城山三郎『雄気堂々』で、1867年渋沢栄一がパリ万博使節団の随員として渡航する場面を読んでいました。
栄一の渡仏は漱石より34年前の幕末期。航路はほとんど同じですが、まだスエズ運河は工事中で陸路カイロからアレクサンドリアへ。そこから船でマルセーユへ、そして汽車でパリへ。そこまで漱石約42日、栄一約55日の長旅でした。日本ばかりでなく世の中もどんどん変わっています。
同道の他の留学生とパリで別れ、10月末に金之助はロンドンに到着します。華やかなパリとは違い、暗く、陰気に感じられるほどひっそりと沈黙しているような街に戸惑います。 金之助は友人から高級住宅地の下宿を紹介されましたが、食事付きで一日6円は1年分計算すると給費の1800円では足りません。さっそく街の見学がてら下宿探し。郊外の住宅地に安くてまずまずの下宿を見つけました。
大学ではシェークスピア研究でピカ一といわれるクレイグ教授と個人授業の契約をし、授業料を安くしてもらうことも交渉。
その頃すでに、産業革命の先駆者・ロンドンは公害問題に直面していました。学生時代に肺を病んだこともある金之助は煤煙の酷さに悩まされます。
ケンブリッジ大学での授業は期待外れ、すばらしい本に出合っても驚くほど高価、唯一の救いは週1度のクレイグ教授との個人授業でした。教授の『シェークスピアはハートで学んで下さい』の言葉を金之助は大いに気に入ります。
文部省への報告書にはことあるごとに「公費ハナハダ少ナイ、困窮ス」と報告します。
妻鏡子からは ″お金の心配を手紙にお書きになる必要はありません。私が中根の家から借りてそちらにすぐ送りますから。お金の心配は貴方には似合いません。心配ご無用 鏡子″と心強い手紙が届きます。
金之助35歳、ロンドンでの日々が自分の次の出発の指針を与えてくれるはずだ・・・。暗い部屋で本ばかり読んでいては気がめいります。そんな時、散歩で出かけたナショナルギャラリーでターナーの絵に出会います。これまでに見たことがないような精緻で優美な絵に思わず吐息をつきました。
ターナーはヴィクトリア朝の証し。折しもヴィクトリア女王が亡くなり産業革命と植民地で繁栄を謳歌したひとつの時代が終わりを告げていました。ターナーの絵から、せっかくロンドンへ来たのに時代を見る目を置き忘れていたことに気づかされた金之助でした。