新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

「官兵衛」ラストシーンの後日談

2014年12月21日 | 歴史

長かった大河ドラマ「官兵衛」も今日で終わりました。福岡市民は「福岡」がテレビに登場するのを今か今かと待っていましたが、実際に映った場面はたったの2,3分・・・。1年間「官兵衛」で湧いた福岡市民にとっては拍子抜け・・・o(^-^)o 

今日のラストシーンで、長政には長男・萬徳(2代藩主忠之)が誕生します。そして官兵衛は最も信頼する家臣・栗山善助に形見の「銀白檀合子形兜」を与える場面が出てきます。「その兜はわしじゃ。わしの魂をお前に託す。親代わりになって長政を助けよ」と。これがその30年後に起こった「黒田騒動」の伏線になります。


             (写真は銀白檀塗合子形兜 盛岡市の指定文化財 )     

長政は、萬徳(忠之)は次の藩主の器ではないと廃嫡も考えていましたが、播磨時代からの功臣の家系の栗山大膳(善助の子)が思いとどまらせ、曲折を経て長政亡きあと忠之は第2代藩主になりました。しかし性格の違いもあり忠之は次第に大膳を遠ざけ、新しい側近・倉八十太夫を重用します。

倉八十太夫に命じて、幕府に届を出さずに軍艦を建造したり足軽を増強したりと勝手な行動は幕府に目を付けられます。その上、独断での旧臣の排除、湯水のごとき金遣い、無理な税の徴収、女性にもだらしない乱行は几帳面な大膳を困らせました。
大膳は「合子形兜」に込められた官兵衛の魂を心に、黒田藩を守らなければなりません。大膳はしばしば諌めますが、逆に大膳が藩主に対して謀反を企てているとして亡きものにされようとします。このままでは福岡藩は改易の憂き目にあうと考えた大膳は、豊後府内藩主の力も借りて江戸に上り、忠之に謀反の疑いありと幕府に訴え出ます。公儀の元で
忠之と大膳の尋問が始まりました。

大膳が大目付からなぜ事実無根の訴えをしたのかと聞かれた時に、「忠之が諌言を聞かず勝手放題、このままでは藩は取り潰されるだろう。忠之に謀反の気持ちがないのは明白だし成敗はないだろうが、公儀の面前で悪政を申し立てられれば深く反省するだろう」と計略的だったことを白状しました。

結果は、「忠之の治世は不行き届きにつき、黒田藩の領地はいったん召上げる。しかし父・長政の戦功を鑑みて新たに旧領地をそのまま与える」というもの。つまりお咎めなしということです。
大膳には「主君を直訴した罪で盛岡に配流。150人扶持をあたえる」という恩情ある破格の決定がなされました。

テレビのラストシーンで、官兵衛は最も信頼を寄せる善助に、自分の兜に「官兵衛の魂」を込めて下賜しました。それを引き継いだ子の大膳も、官兵衛の魂を心に身を賭して黒田藩を守り通し、盛岡に配流された時にも手放すことなく持っていきました。今もそれは盛岡に大事に保管され、福岡にあるのは3代藩主光之が官兵衛を偲んで作ったものだそうです。

その後の忠之は、島原の乱、長崎警護で活躍し、街づくり、藩固めをしています。命を懸けて藩を守った栗山大膳のおかげで、黒田藩は明治維新まで続くことになります。大膳のその心は周りの人の心を動かし、預かりの身とはいえ盛岡藩で62歳で亡くなるまで大事に扱われたそうです。

黒田騒動は、伊達騒動、加賀騒動と並んで三大お家騒動とも言われていますが、この騒動は誰の血も流さなかったという事で有名です。

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6年がかりで・・・・

2014年12月10日 | 古文書・サークル活動

庭の片隅にひっそりと咲いたバラ。切り花にすると存在感が増します。


福岡の地に居住するからには黒田藩のことを「知っておかねば」と、古文書のサークルを覗いてみたのが2008年。同じ日本人が書いたとは思われないような文字。90度回転させればさながらアラビア文字のようです。この時代に生まれなくよかった・・・。きっと落伍者になっていました。


古文書を読む会で「福岡藩家老 黒田播磨日記 ― 嘉永六癸丑年 秘記御当番 ―」の解読を始めてから6年・・・。やっと製本にこぎつけ、先日200冊が出来上がってきました。
福岡市の先導で始まった古文書解読。終了の暁には製本して関係各所に配布するというのが建て前です。まだまだ膨大な量の古文書があるそうです。


黒田播磨は代々福岡藩の筆頭家老を努める三奈木黒田家の第10代目にあたります。
初代誕生のいきさつは、ドラマ「黒田官兵衛」のクライマックスシーン、官兵衛が荒木村重に幽閉された時にまで遡ります。
幽閉中に敵の身ながら牢番加藤重徳は官兵衛に温情をかけてくれ、官兵衛は救出された後その恩に報いるために次男を引き取って養子にします。長政の弟のように育てられ黒田一成の名前をもらいました。

関ヶ原の後黒田家が筑前に52万石の領地を得たとき、黒田一成は15000石を与えられます。これが三奈木黒田家で、藩でただ一人の大老職を務める「格別之家筋」として明治まで続きます。



そんな黒田藩家老、黒田播磨の日々の記録です。嘉永6年はペリー来航があり、ロシア艦隊が長崎に現れたりと日本は騒然とした時代です。人物一覧表なども入れるとおよそ250ページもなりました。



上段は、写真撮影した古文書でこれを手分けして解読していきました。
下段がその活字版です。



世の中にはこんな貴重な辞書があることを初めて知りました。『くずし字辞典』です。1Kgもあります。過去の膨大な墨蹟から色々なくずし字を拾い集めて載せられ編集者の執念を見る思いです。
もっともこの辞書だけでは先へは進めず、到底話にはなりません。手取り足取してくださる指導者の真摯な指導にありました。

文字をたどるのが精いっぱいで内容を深く吟味はできませんでしたが、佐賀藩と交代で長崎警備にあたっていたこと、武具の調達、金の動き、飛脚等通信のこと、登城の際の服装など、感情を交えずに記されています。 


当時の外国の軍事力の認識を示す一文があります。「異船が不意に襲ってきたら焼き討ちもよし。・・・台場で石火矢大筒を以て打ち挫く。当方の船の帆柱を外国船に倒しかけたり、長熊手を打ちかけてこれを足場にして乗り移り、斧で相手の帆柱を切断し焼いたり・・・矢や松明を船に投げ入れ、当方が乗り移って防ぐ・・・」まるで源平合戦のようです。


そればかりでなく、武士のニュースもあります。不義密通、婚姻、離縁、放火、上司を殺して逃げていること、狩りのこと、歯痛腹痛で欠勤したこと、親孝行のこと、長寿を表彰したこと、病人が夏でも足袋の許可を申請した事などなかなか面白いところもあります。この後は「ヲロシア船渡来之記」の解読に入っています。


本になった段階でゆっくり読み直せばもっと楽しめそうです。


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