今、福岡市美術館でレオナール・フジタ展(4月19日まで)が開催されています。(写真はチケットより)
北海道、東京を終えて、やっと九州にやってきたわけです。
今回の展覧会はテーマを4つに分けて、パートごとに年譜が記され、とても鑑賞しやすいように設定されています。
- 「スタイルの確立」 「素晴らしき乳白色の地」の一連の裸婦像は、フジタのイメージが一番ぴったり結びつく絵です。パリでの画家たちとの活発な交流。パリ画壇における地位が確立する。
- 「群像表現への挑戦」 行方不明であった大作4点が1992年パリ郊外の倉庫で発見され、6年かけて修復されそれが展示されています。「最も美しく愛する者、それは私が精魂を込めて作り上げた4枚の大作」というフジタの言葉があります。
- 「ラ・メゾン=アトリエ・フジタ」 パリ郊外の農家を自宅兼アトリエに改修。81歳で死去するまでここに住む。当時のアトリエを再現したり遺品も展示されています。数十本の絵筆の中に、油彩用の筆に混じってあの繊細な輪郭線を描いた面相筆の束があったのが印象的でした。
- 「シャペル・フジタ」 1959年にキリスト教に改宗したフジタは、キリスト教をテーマにした宗教画を多数制作します。晩年に完成したランス「平和の聖母礼拝堂」は、構想から内部装飾までフジタが深くかかわった建築物です。
フジタは、結婚を4回しています。最初と4回目が日本人です。1920年に描かれた「キリスト降架」は黒色の繊細な輪郭だけで描かれた小さな作品ですが、マリアとキリストのこんなに美しい表情を初めて見ました。西欧にはだれもが認める大作のキリスト降架がたくさんありますが、フジタのこの表現はやはり日本人だからできるのかも・・・と、その表情が素直に心にしみこむとてもいい絵でした。
そのマリアの横顔に、ずっと後に結婚することになる君代夫人がそっくりだったのです。ひょっとしたら、それから晩年まで31年間をともにした君代夫人は、フジタが心の中でずっと追い求めていた理想の女性だったのかもしれません。
美しい白い肌の絵と藤田の人間像が、そして誤解していたところも認識し直したいい展覧会でした。
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フジタは戦時中に陸軍美術協会の中心にいたため、戦後にその責任問題が発生しますが、GHQ関係者の尽力でフランスに渡りました。
画壇では戦争責任の追及を恐れた藤田が日本を捨てたとの批判が起きますが、藤田の心底には、「日本を捨てたのではない、捨てられたのだ」という仲間への失望があったようです。そのために君代夫人は、なかなか日本での展覧会開催や出版物の刊行を認めなかったようです。
ただ、フジタの亡くなったその年には、日本でも「藤田嗣治追悼展」があっています。左の写真はその時の図録です。
印刷はあまりよくないものの、藤田の偉業をたたえて『藤田嗣治の言葉』と『追憶のアルバム』が60ページにわたって編集されているのが興味深く、絵を見る上でもとても面白さが増しました。
図録のフジタの文章より・・・「・・・私は彼地(フランス」の作家の絵を一通りながめてみた。その時分は絵具をコテコテ盛り上げるセゴンザックという大家の流儀もはやっていた。それじゃ俺はつるつるの絵を描いてみよう。また外の者がバン・ドンゲンというような絵を大刷毛で描くなら、俺は小さな面相、真書(しんかき)のような筆で描いてみよう。また複雑なきれいな色をマチスのようにつけて絵とするならば、自分だけは白黒だけで油絵でも作りあげてみせようというふうに、すべての画家の成す仕事の反対反対とねらって着実実行したのである。」
「・・・私は第一に色々の材料などのことを研究し、その時分、随分工夫を重ね、試みを実験したものの、やはり良いものは到底できないのであった。500枚ばかりの絵を、あたかも当時は貧乏であった故、飯を煮るために燃したり、寒さに耐ゆるための暖にかえたりして、万一自分の死後こんなものが現われてはとという懸念から、500枚のうち15,6枚ばかりを残して、みな灰と化してしまった。しかしその残した15枚の作品は必ずや後世に残り、名前をだすにちがいないという自信は持っていた。これで自分はいつ死んでもよいというような東洋の哲学で、苦しい貧しい中に安心もあった・・・」」