秋月、あきづき、この美しい響きが大好きです。福岡から高速を使えば1時間足らずの町に、サークルの研修を兼ねて秋の一日を遊びました。
先ずはうきは市へ。白壁と清流が美しい町です。白い町並みは子供の頃にタイムスリップした感がありました。町並みの維持管理は大変なことだと思いますが、それを上回る郷土愛がしっかり見えます。写真のように川の片側に2列の溝を作り、庭に引き込んだ水路に流す分と生活排水を流す分とに分けて環境に配慮してあります。
右手がこの水を取り込んでいる「山崎家」の庭。三奈木黒田家の御殿医だったという事から特別に見学させてもらい、お抹茶とお菓子のご馳走にまでなりました。
たっぷりと豊かに流れる川にはごみもなく、それが豊かな町、明るい町の印象を与えてくれます。数百年前に筑後川に堰を築き水路をめぐらして、町と田畑に水が行き渡る仕組みになっています。
樹木に覆われた清流庵は別世界です。和食レストランでランチを。源氏物語をイメージした個室が並んでいました。
満足の昼食の後は秋月城址散策と秋月博物館見学へ。
秋月は山あいに立地していて開発が遅れていましたが、城下町の特徴を残していたことから町並みを整備すると、たちまち“筑前の小京都”と呼ばれる人気の観光スポットになりました。
秋月藩の藩医、緒方春朔はジェンナーより6年も早く、人痘による天然痘予防を成功させました。実際に地元の庄屋の子供に試したようなことは、葉室麟氏の本で読んだ記憶があります。
三奈木黒田家は江戸期を通じて福岡藩の筆頭家老を代々努めてきました。その始まりは大河「官兵衛」でもお馴染みですが、官兵衛は伊丹領主・荒木村重に捕えられ土牢に1年ほども監禁されました。
その時の牢番・加藤重徳は官兵衛に手厚く接し、有岡城脱出の際の救出を手伝ったのです。官兵衛はその恩に報いるために重徳の次男玉松(一成)を育て、後には黒田24騎の一人として活躍するまでに成長しました。
その後24騎の家臣たちが次々と消えていく中で、唯一明治期まで1万6000石の家禄を家督相続しながら、家老の上座について重要な位置を占めてきました。
左は三奈木黒田家の初代当主黒田一成の墓、右は10代目溥整(ひろのぶ)の墓。サークルで溥聖の安政期の日記を解読することに挑戦しています。その意味での墓参りも旅の目的のひとつでした。
1個700gもある「新興」は、覆いの袋が少し破けるほどにパンパンに膨らんだ実が採り頃だそうです。3個で2キロの梨をゲットして重たいお土産に。滴り落ちる果汁と甘さとずしりとした重量感が、初めての梨狩りの思い出になりました。