日航機123便の御巣鷹山墜落事故から早いもので28年が経過した。
28年前の昭和60年。
夕方家でダランとしながらテレビを見ていたら「日航機が消息を断つ」という第一報が入り、それからはテレビの報道番組に釘付けになった。
たぶん、日本国中の人々がテレビから離れられなくなってしまっただろう。
以後、暫くの間、翌朝の生存者の救出速報に続いて次々と入っている凄惨な現場の様子がマスメディアによって伝えられた。
とりわけ衝撃的だったのは乗客の遺書で、そこには家族に宛てた最後のメッセージが記されており今読んでも胸が痛む。
また遺書ではないが、同便の客室乗務員が不時着に備えて不時着後の行動項目をしっかりメモしている手帳もあった。
危機に直面しても動じないJALのスタッフの勇気に、プロとしての凛々しさを感じる。
このことは乗客の遺書にも記されていて、客室乗務員がダッチロールを繰り返す絶望的な機内の中で毅然として業務をこなし、乗客に安心感をもたせようと努力をしていることにも感動を覚える。
10年ほど前に公開されたフライトレコーダーの録音でも同様の印象を受ける・
コックピットクルーの最後まで諦めなず、なんとか羽田へ帰そう、不時着させようとパニックに陥ること無く努力する姿には心を打たれるのだ。
機長、副機長、航空機関士の3人があらゆる手段を講じていた姿が素人の私たちにも音声から伺うことが出来る。
人は死に直面した時にどのような行動をとることができるのか。
この音声記録はその一つの解答であるように思えた。
ところで、この28年間。
この事故を通じて非難されているのは、ひとえに123便を飛ばしていた当事者の日本航空である。
それはもっともであろう。
誰のヒコーキの事故だったか、というと日本航空の飛行機での事故だったから当然といえるかもしれない。
しかし、事故の原因となった修理ミスは日航ではなく製造元ボーイング社になることは大声で叫ぶ人はほとんどない。
これはいったいどういうことなのか。
私はいつも疑問に思っている。
例えば、一時期問題になった三菱トラックの欠陥隠し事件。
これはトラックの軸の部分に強度不足の欠陥があって、それが原因で走っていたトラックからタイヤが外れ、そのタイヤが子どもたちの列に突っ込み多くの死傷者を出した事故だ。
この事故で避難されたのはトラックの運転手でも運送会社でもなく、三菱なのであった。
このセオリーからいくと日航123便の事故の責任は日本航空ではなく、ボーイング社にあるんじゃないかと思うのは私だけだろうか。
日航は多額の倍賞を支払い、評判は業績に悪影響する原因の1つとなり20年後に倒産する。
一方、ボーイングがなんらかの責任をとったのかどうかは分からない。
もしかすると政治的に決着させ、だれにも文句を言わせない、なんらかの力がかかっているのだろうか。
マスメディアがボーイングに対して沈黙し、執拗に日本航空だけを責めるのは、なんだか不自然な感じがするのだ。
この28年間。
乗客の家族の苦労は伝えられるが、当事者である日本航空のスタッフについてはあまり伝えられていない。
ドキュメンタリーや小説などで、その片鱗が伝えられるだけだ。
コックピットクルーの家族の苦悩。
大阪空港でのしりもち事故の修理を担当した責任者の自死。
小説「沈まぬ太陽」に描かれた遺族担当者の苦悶など。
この事故をきっかけに飛行機の制御はフライバイワイヤーという油圧系統に頼らない方法に変わっている。
このフライバイワイヤーがB777の信頼性に繋がり、例えばサンフランシスコでの韓国の航空機事故でも拡大を最小限に防いでいる。
事故が航空機の安全設計に大きく貢献していることも確かだが、30年を迎えてしまう前に、感情や政治だけではなく、冷静に分析するときが来ているのではないか。
亡くなった人やその家族のために。そして今後の航空機産業のために、30年の時の流れから俯瞰して振り返ることは大切ではないかと。
8月12日のニュースを見るたびに、そういう思いが強くなるのだ。
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