
宮崎駿の最新作「風立ちぬ」は幻想的なシーンをところどころに散りばめながらも、内容は「大人向け」長編アニメーションだった。
終わった時は一緒に出かけたカミさんの顔は涙でボロボロ。
横で見ていた娘はそれを見て笑っていたが、中学生ではまだまだストーリーの中の重みの感じ方は十分ではなかったようだ。
私はといえば、カミさんほどではないにしろグッと来るものがあって、娘に笑われないようにするのが大変なのであった。
この映画、外野がうるさいのでどんな物語なのか大いに気になっていた。
主人公がゼロ戦の開発者だった堀越二郎を主人公にしているので、
「戦争賛美の映画」
とばかりにヒステリーなことでは評判のお隣の半島の国が叫んでいたし、タバコを吸うシーンが多いとばかりに、
「子供も見る映画なのにけしからん」
と嫌煙運動の団体がこれまたヒステリーになっていた。
実際に映画を見てみると、戦争賛美はいちゃもんだし、タバコシーンのカットの叫びは言論制限の一種に他ならず、こういうものを取り上げるマスコミの方がどうかしているんじゃないかと思えて仕方がなかった。
この映画は多分、今の日本人が失ってしまった心の持ち方について描いていたのではないだろうか、と偉そうに映画評論家気取りで私は思ったのであった。
ゼロ戦の開発は二の次で戦争場面は極めて少なく、はっしょってさえいたことを考えると、パンフレットに立花隆が寄せていた解説のような「富国強兵も近代化も失敗した」世界を映画いているのでもないことは明らかだ。
戦争により破壊は戦後日本の民主化と近代化を生み出し、世界有数の先進国へと発展させたのは歴史上否定できまい。
そういう意味では戦争による敗戦は創造のための破壊だったかもしれない。
ではこの映画の主体は何か、と考えるとやはり敗戦と共に失うことになる日本人としての「美しい心」だったのではないだろうか。
実はこの映画を見ていて思い出したのは山口百恵の「絶唱」であった。
もう35年以上前の映画だが確か健気に生きる若い男女の物語で、その健気な生き方を奪い取るように戦争と結核という病が二人を引き裂くというストーリだったように記憶する。
なんせ見た時私は小学生だったので確かではないのだが、最後の方で死んだ主人公の百恵ちゃんが花嫁衣裳を着せられて祝言を挙げるという、ある意味ショッキングだが悲しくも美しいシーンが今も思い出されるのだ。
「風立ちぬ」もまた、仕事に対する思い、家族に対する思い、そして愛する人に対する想いを戦前の日本人がどのように表現したのか。
愛情。
情熱。
出逢い。
別れ。
そして生と死。
今の私たちが社会のマンネリと唯物主義のために見失っている大切な要素。
人が生きる中で避けることのできないこれらの要素を思い出させてくれるのだった。
これはあまりに美しく、哀しい物語だったが、それをある種の清々しさが包み込んで見る者に言い知れぬ感動を与えてくれる大人のアニメ映画なのであった。
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