萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第83話 辞世 act.16-another,side story「陽はまた昇る」

2015-10-01 22:00:00 | 陽はまた昇るanother,side story
冷厳の森で
周太24歳3月



第83話 辞世 act.16-another,side story「陽はまた昇る」

凍てつく梢、けれど息が熱い。

「…はぁっ…」

はずんだ吐息マスク隠して、また一歩を踏みだす。
ざくり、アイゼンが噛む雪は硬い、たぶん5分前より硬くなった。
ゲイター透かす温度また冷えてゆく、ふくらはぎ埋める雪嶺に周太は呼吸そっと呑んだ。

―まだ三分の一も来ていない、英二は呼吸ひとつ乱れてないのに、

ヘッドランプの先、前をゆく赤と黒の登山ザックは揺れずに進む。
青いウェアの肩ひろやかに動じない、長い脚も一歩ごと着実に踏みしめ登る。
凍てついた空気も道もなめらかに進んでゆく、そんな背中に唇そっと噛みしめた。

「…僕だって、」

こぼれかけた声を噛みしめて一歩また踏みしめる。
ざぐり登山靴の下アイゼンに雪が氷が噛む、その初めての硬度が背骨かける。

―標高が変わる、僕が行ったことのない冬の山だ、

厳冬、積雪期の山は標高いくつまで登ったことあるだろう?
大した経験なんてない、それなのに選ばれた指名は無謀だと竦みかける。

『今回はターゲットまで距離がある上に春の雪山です、雪崩の危険性を考え狙撃する技術が求められます…行かせるなど死ねと言う命令同然になります、』

伊達の反論は現実、だってアイゼンの底ふかく氷が弛んだ。

「…っ、」

足とられかけて体幹すぐ引戻す。
ダブルストックで足場たしかめ踏みだし、立て直した姿勢ほっと息こぼれた。

―よかった、こんなところで転んだら、

ため息と視界の端、森の片側は切れ落ちる。
黎明まだ昏い雪面は蒼く斜めに闇へとけこむ、きっと転べば止まらない。
立木ぶつかり打撲しながら落ちてゆく、そんな想像たやすい斜度に呼吸ひとつ前を見た。

―余計なこと考えてる暇はない、英二に付いていかないと、

いま、あの背中だけ見つめて歩けばいい。

そう想って首すじの肌熱くなる。
アサルトスーツの衿元すきま逆上せだす、でも黒く被われて見えないだろう。
それでも黒いネックゲイターつい直して進む雪道、前ゆく背が立ちどまった。

「雪の下に草叢があります、アイゼンをひっかけないで下さい、」

とくん、

鼓動はずむ、声かけられた、それだけで。

「…、」

ふり向いてもいない背中、そしてすぐ歩きだす。
目が合ったわけじゃない、当り前の配慮してくれただけ、それなのに弾む本音が疼く。

―僕こんなに英二のこと好きなんだ、今もまだ、

どうしよう、こんな所で気づくなんて?

今ここは厳冬期の雪の山、三月でも凍れる大気は沈黙する。
足もと氷に噛まれる冷たい遠い場所、それより遠く行こうとしている現場は死線。
そんなところで今さら気づいたって何になるというんだろう?

―僕は勝手だ、もう平気って思ったのに…今日、美代さんの涙を見たとき、

ほら、もうひとり思い出してしまう、こんな場所で。

『お願い、行かないで…わかんないけど行っちゃダメよっ、行かないでお願い、』

きれいな明るい瞳が涙きらめく、雫あふれて泣いてしまう。
こぼれて紅桃色のマフラーきらきら水玉えがきだす、あのコートの肩は華奢だった。
母が着ていたコートとよく似たベージュ、やわらかな温かい色は幸せだった14年前の冬と手を繋いだ。

『周、お父さんのクリスマスプレゼント、今年も探しっこしようね?」

ほら母が笑う、まだ髪が長い幸せな笑顔。
あの髪も父が亡くなって切ってしまった、そうして今の母が笑いかける。

『周太お願い、お母さんの我儘を訊いて?…お母さんより先に、死なないで、』

ほら同じことを願うんだ、あの女の子と。

『湯原くん行かないで、お仕事って解かってるけど、でも行かないで?ぜったいダメ…だめよっ、』

行かないで、そう言ってくれたのは今日が初めてだった。
いつも気をつけてねと笑って見送ってくれる友達、それなのに今日は行かないでと泣いた。

『ほら湯原くん、お母さんに逢いたくなったでしょう?だからっ…このまま川崎のお家へ行こ?一緒に行くから、ね…っ』

大きな澄んだ瞳が自分を映す、その形も黒目も母とは似ていない。
それなのに見つめられると温かで優しくて、その空気そっくりで自分も言ってしまった。

“美代さんのコートね、昔お母さんが着ていたのに似てるよ?きれいな優しいベージュ”

なぜ自分はあんなこと言ってしまったのだろう?

―もし僕が帰れなくなったら美代さんを泣かせるかもしれないんだ、お母さんと同じにずっと…ひきとめられなかった後悔を、

なぜ母と似ていると今日こんなに想うのか?
それは14年前と今と同じ道を辿るせいだ、父のように「遺して」しまう可能性が絞めてゆく。
母との約束も壊れて、あの女の子との約束も壊れて、それが哀しくて苦しくて、そして本音が引き裂かれる。

自分は今、誰を愛しているのだろう、恋しているのだろう?

「ぁっ、」

かしゃんっ、

そんな感覚が靴底とらえ引きこまれる。
雪底ふかく氷が崩れる、アイゼン捕まれ引きこまれてしまう。
ぐらり重心ゆらされ立て直そうとして、ふわり温もりが抱きしめた。

「大丈夫ですか?凍ってるとこ気をつけて、」

低いきれいな声に視線あげて、ほら、やっぱり君だ。

―英二、

呼びそうになる、君の名前。
だって今ふれそうなほど君の瞳が近い。

―英二が僕を抱いてる、こんなところで…どうして、

月を背おって君が自分を抱いている。
ただ支えてくれただけ、それでも鼓動こんなに弾んで響きだす。
だって君が自分を見つめている、ほろ苦い深い香がする、これだって君の匂いだ。

「アイゼンのブレードに草が絡むこともあります、足を捻ったりはしていないですか?」

穏やかなトーン微笑んで立たせてくれる。
支えられる腕がウェア透かして筋肉なみうつ、また肩が逞しくなった。
そんなことまで敏感にふれて君を探す、こんな自分にまた解からなくなって、それでも呼吸ひとつ呑みこんだ。

―僕は今、任務に立ってるんだ…きっと、さいごの、

ここは涯、そう解かる。

この十四年ずっと追い続けた父の顔、その隠された場所に自分は行く。
だからこれが最後、この後は生でも死でも二度と任務に就くことはない。
きっと今が最後、その唯ひとつに脳裡ふり払うよう十四年の願い微笑んだ。

―これを最後にするね、お父さん…もういいよね?

こころ呟いて息そっと吐く。
気管支から変な音は聞えない、まだ発作もこないだろう。
そんな安堵に落ち着かせた傍ら、低いきれいな声が微笑んだ。

「いま冬で静かですけど、この森は夏なら鳥のさえずりがいっぱいです、」

あ、そんなこと今は言わないで?

―英二、僕をリラックスさせようとしてくれてる…でも今は想いださせないで?

今こんな話題は哀しくなる、だって「後」は解からない。
今も覚悟したばかりで、それなのに低いきれいな声は言った。

「この森をぬけると雪の斜面になります、滑落しやすいのでザイルを繋がせてください、」

話しながらザイル一把とりだしてくれる。
その提案に今は頷きたくない、ただ無心に首振った。

「はい、なんですか?」

問いかけてくれる眼ざしに月が映る。
まっすぐ穏やかな切長い瞳、でも底深くは激しいのだと今は知っている、だから頷けない。

―繋いで離れないつもりだ英二、

最後まで共にする、そんな意図が見えてしまう。
それとも見たいと自分が願っているだけ?どちらでもザイル繋ぐなんて出来ない。
だって巻きこんでしまう、繋がれたら離せない、その相手が自分でも任務でもこの人は関係ないのだろう?

―僕だと解ってやってるわけじゃない、英二は任務に誠実なだけだ、でもそんなことしないで英二?

もし最後まで共にしたら?
そんなこと解かっているだろう、だってこの人は山のプロだ。
それでもザイル繋いで離れるつもりがない、こんなこと頷けない意地に綺麗な声が笑った。

「万が一にも滑り落ちたら犯人から見えてしまいますよ?そうしたら人質も危険にさらされます、すぐ終わるので待ってくださいね、」

話しながら大きな手はザイル器用に操りだす。
カラビナへ端正に結わえて通して、青いウェアの肩にザイルの輪を掛けると自分のハーネスに結んだ。


(to be continued)

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