冷厳の森で

第83話 辞世 act.16-another,side story「陽はまた昇る」
凍てつく梢、けれど息が熱い。
「…はぁっ…」
はずんだ吐息マスク隠して、また一歩を踏みだす。
ざくり、アイゼンが噛む雪は硬い、たぶん5分前より硬くなった。
ゲイター透かす温度また冷えてゆく、ふくらはぎ埋める雪嶺に周太は呼吸そっと呑んだ。
―まだ三分の一も来ていない、英二は呼吸ひとつ乱れてないのに、
ヘッドランプの先、前をゆく赤と黒の登山ザックは揺れずに進む。
青いウェアの肩ひろやかに動じない、長い脚も一歩ごと着実に踏みしめ登る。
凍てついた空気も道もなめらかに進んでゆく、そんな背中に唇そっと噛みしめた。
「…僕だって、」
こぼれかけた声を噛みしめて一歩また踏みしめる。
ざぐり登山靴の下アイゼンに雪が氷が噛む、その初めての硬度が背骨かける。
―標高が変わる、僕が行ったことのない冬の山だ、
厳冬、積雪期の山は標高いくつまで登ったことあるだろう?
大した経験なんてない、それなのに選ばれた指名は無謀だと竦みかける。
『今回はターゲットまで距離がある上に春の雪山です、雪崩の危険性を考え狙撃する技術が求められます…行かせるなど死ねと言う命令同然になります、』
伊達の反論は現実、だってアイゼンの底ふかく氷が弛んだ。
「…っ、」
足とられかけて体幹すぐ引戻す。
ダブルストックで足場たしかめ踏みだし、立て直した姿勢ほっと息こぼれた。
―よかった、こんなところで転んだら、
ため息と視界の端、森の片側は切れ落ちる。
黎明まだ昏い雪面は蒼く斜めに闇へとけこむ、きっと転べば止まらない。
立木ぶつかり打撲しながら落ちてゆく、そんな想像たやすい斜度に呼吸ひとつ前を見た。
―余計なこと考えてる暇はない、英二に付いていかないと、
いま、あの背中だけ見つめて歩けばいい。
そう想って首すじの肌熱くなる。
アサルトスーツの衿元すきま逆上せだす、でも黒く被われて見えないだろう。
それでも黒いネックゲイターつい直して進む雪道、前ゆく背が立ちどまった。
「雪の下に草叢があります、アイゼンをひっかけないで下さい、」
とくん、
鼓動はずむ、声かけられた、それだけで。
「…、」
ふり向いてもいない背中、そしてすぐ歩きだす。
目が合ったわけじゃない、当り前の配慮してくれただけ、それなのに弾む本音が疼く。
―僕こんなに英二のこと好きなんだ、今もまだ、
どうしよう、こんな所で気づくなんて?
今ここは厳冬期の雪の山、三月でも凍れる大気は沈黙する。
足もと氷に噛まれる冷たい遠い場所、それより遠く行こうとしている現場は死線。
そんなところで今さら気づいたって何になるというんだろう?
―僕は勝手だ、もう平気って思ったのに…今日、美代さんの涙を見たとき、
ほら、もうひとり思い出してしまう、こんな場所で。
『お願い、行かないで…わかんないけど行っちゃダメよっ、行かないでお願い、』
きれいな明るい瞳が涙きらめく、雫あふれて泣いてしまう。
こぼれて紅桃色のマフラーきらきら水玉えがきだす、あのコートの肩は華奢だった。
母が着ていたコートとよく似たベージュ、やわらかな温かい色は幸せだった14年前の冬と手を繋いだ。
『周、お父さんのクリスマスプレゼント、今年も探しっこしようね?」
ほら母が笑う、まだ髪が長い幸せな笑顔。
あの髪も父が亡くなって切ってしまった、そうして今の母が笑いかける。
『周太お願い、お母さんの我儘を訊いて?…お母さんより先に、死なないで、』
ほら同じことを願うんだ、あの女の子と。
『湯原くん行かないで、お仕事って解かってるけど、でも行かないで?ぜったいダメ…だめよっ、』
行かないで、そう言ってくれたのは今日が初めてだった。
いつも気をつけてねと笑って見送ってくれる友達、それなのに今日は行かないでと泣いた。
『ほら湯原くん、お母さんに逢いたくなったでしょう?だからっ…このまま川崎のお家へ行こ?一緒に行くから、ね…っ』
大きな澄んだ瞳が自分を映す、その形も黒目も母とは似ていない。
それなのに見つめられると温かで優しくて、その空気そっくりで自分も言ってしまった。
“美代さんのコートね、昔お母さんが着ていたのに似てるよ?きれいな優しいベージュ”
なぜ自分はあんなこと言ってしまったのだろう?
―もし僕が帰れなくなったら美代さんを泣かせるかもしれないんだ、お母さんと同じにずっと…ひきとめられなかった後悔を、
なぜ母と似ていると今日こんなに想うのか?
それは14年前と今と同じ道を辿るせいだ、父のように「遺して」しまう可能性が絞めてゆく。
母との約束も壊れて、あの女の子との約束も壊れて、それが哀しくて苦しくて、そして本音が引き裂かれる。
自分は今、誰を愛しているのだろう、恋しているのだろう?
「ぁっ、」
かしゃんっ、
そんな感覚が靴底とらえ引きこまれる。
雪底ふかく氷が崩れる、アイゼン捕まれ引きこまれてしまう。
ぐらり重心ゆらされ立て直そうとして、ふわり温もりが抱きしめた。
「大丈夫ですか?凍ってるとこ気をつけて、」
低いきれいな声に視線あげて、ほら、やっぱり君だ。
―英二、
呼びそうになる、君の名前。
だって今ふれそうなほど君の瞳が近い。
―英二が僕を抱いてる、こんなところで…どうして、
月を背おって君が自分を抱いている。
ただ支えてくれただけ、それでも鼓動こんなに弾んで響きだす。
だって君が自分を見つめている、ほろ苦い深い香がする、これだって君の匂いだ。
「アイゼンのブレードに草が絡むこともあります、足を捻ったりはしていないですか?」
穏やかなトーン微笑んで立たせてくれる。
支えられる腕がウェア透かして筋肉なみうつ、また肩が逞しくなった。
そんなことまで敏感にふれて君を探す、こんな自分にまた解からなくなって、それでも呼吸ひとつ呑みこんだ。
―僕は今、任務に立ってるんだ…きっと、さいごの、
ここは涯、そう解かる。
この十四年ずっと追い続けた父の顔、その隠された場所に自分は行く。
だからこれが最後、この後は生でも死でも二度と任務に就くことはない。
きっと今が最後、その唯ひとつに脳裡ふり払うよう十四年の願い微笑んだ。
―これを最後にするね、お父さん…もういいよね?
こころ呟いて息そっと吐く。
気管支から変な音は聞えない、まだ発作もこないだろう。
そんな安堵に落ち着かせた傍ら、低いきれいな声が微笑んだ。
「いま冬で静かですけど、この森は夏なら鳥のさえずりがいっぱいです、」
あ、そんなこと今は言わないで?
―英二、僕をリラックスさせようとしてくれてる…でも今は想いださせないで?
今こんな話題は哀しくなる、だって「後」は解からない。
今も覚悟したばかりで、それなのに低いきれいな声は言った。
「この森をぬけると雪の斜面になります、滑落しやすいのでザイルを繋がせてください、」
話しながらザイル一把とりだしてくれる。
その提案に今は頷きたくない、ただ無心に首振った。
「はい、なんですか?」
問いかけてくれる眼ざしに月が映る。
まっすぐ穏やかな切長い瞳、でも底深くは激しいのだと今は知っている、だから頷けない。
―繋いで離れないつもりだ英二、
最後まで共にする、そんな意図が見えてしまう。
それとも見たいと自分が願っているだけ?どちらでもザイル繋ぐなんて出来ない。
だって巻きこんでしまう、繋がれたら離せない、その相手が自分でも任務でもこの人は関係ないのだろう?
―僕だと解ってやってるわけじゃない、英二は任務に誠実なだけだ、でもそんなことしないで英二?
もし最後まで共にしたら?
そんなこと解かっているだろう、だってこの人は山のプロだ。
それでもザイル繋いで離れるつもりがない、こんなこと頷けない意地に綺麗な声が笑った。
「万が一にも滑り落ちたら犯人から見えてしまいますよ?そうしたら人質も危険にさらされます、すぐ終わるので待ってくださいね、」
話しながら大きな手はザイル器用に操りだす。
カラビナへ端正に結わえて通して、青いウェアの肩にザイルの輪を掛けると自分のハーネスに結んだ。
(to be continued)
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周太24歳3月

第83話 辞世 act.16-another,side story「陽はまた昇る」
凍てつく梢、けれど息が熱い。
「…はぁっ…」
はずんだ吐息マスク隠して、また一歩を踏みだす。
ざくり、アイゼンが噛む雪は硬い、たぶん5分前より硬くなった。
ゲイター透かす温度また冷えてゆく、ふくらはぎ埋める雪嶺に周太は呼吸そっと呑んだ。
―まだ三分の一も来ていない、英二は呼吸ひとつ乱れてないのに、
ヘッドランプの先、前をゆく赤と黒の登山ザックは揺れずに進む。
青いウェアの肩ひろやかに動じない、長い脚も一歩ごと着実に踏みしめ登る。
凍てついた空気も道もなめらかに進んでゆく、そんな背中に唇そっと噛みしめた。
「…僕だって、」
こぼれかけた声を噛みしめて一歩また踏みしめる。
ざぐり登山靴の下アイゼンに雪が氷が噛む、その初めての硬度が背骨かける。
―標高が変わる、僕が行ったことのない冬の山だ、
厳冬、積雪期の山は標高いくつまで登ったことあるだろう?
大した経験なんてない、それなのに選ばれた指名は無謀だと竦みかける。
『今回はターゲットまで距離がある上に春の雪山です、雪崩の危険性を考え狙撃する技術が求められます…行かせるなど死ねと言う命令同然になります、』
伊達の反論は現実、だってアイゼンの底ふかく氷が弛んだ。
「…っ、」
足とられかけて体幹すぐ引戻す。
ダブルストックで足場たしかめ踏みだし、立て直した姿勢ほっと息こぼれた。
―よかった、こんなところで転んだら、
ため息と視界の端、森の片側は切れ落ちる。
黎明まだ昏い雪面は蒼く斜めに闇へとけこむ、きっと転べば止まらない。
立木ぶつかり打撲しながら落ちてゆく、そんな想像たやすい斜度に呼吸ひとつ前を見た。
―余計なこと考えてる暇はない、英二に付いていかないと、
いま、あの背中だけ見つめて歩けばいい。
そう想って首すじの肌熱くなる。
アサルトスーツの衿元すきま逆上せだす、でも黒く被われて見えないだろう。
それでも黒いネックゲイターつい直して進む雪道、前ゆく背が立ちどまった。
「雪の下に草叢があります、アイゼンをひっかけないで下さい、」
とくん、
鼓動はずむ、声かけられた、それだけで。
「…、」
ふり向いてもいない背中、そしてすぐ歩きだす。
目が合ったわけじゃない、当り前の配慮してくれただけ、それなのに弾む本音が疼く。
―僕こんなに英二のこと好きなんだ、今もまだ、
どうしよう、こんな所で気づくなんて?
今ここは厳冬期の雪の山、三月でも凍れる大気は沈黙する。
足もと氷に噛まれる冷たい遠い場所、それより遠く行こうとしている現場は死線。
そんなところで今さら気づいたって何になるというんだろう?
―僕は勝手だ、もう平気って思ったのに…今日、美代さんの涙を見たとき、
ほら、もうひとり思い出してしまう、こんな場所で。
『お願い、行かないで…わかんないけど行っちゃダメよっ、行かないでお願い、』
きれいな明るい瞳が涙きらめく、雫あふれて泣いてしまう。
こぼれて紅桃色のマフラーきらきら水玉えがきだす、あのコートの肩は華奢だった。
母が着ていたコートとよく似たベージュ、やわらかな温かい色は幸せだった14年前の冬と手を繋いだ。
『周、お父さんのクリスマスプレゼント、今年も探しっこしようね?」
ほら母が笑う、まだ髪が長い幸せな笑顔。
あの髪も父が亡くなって切ってしまった、そうして今の母が笑いかける。
『周太お願い、お母さんの我儘を訊いて?…お母さんより先に、死なないで、』
ほら同じことを願うんだ、あの女の子と。
『湯原くん行かないで、お仕事って解かってるけど、でも行かないで?ぜったいダメ…だめよっ、』
行かないで、そう言ってくれたのは今日が初めてだった。
いつも気をつけてねと笑って見送ってくれる友達、それなのに今日は行かないでと泣いた。
『ほら湯原くん、お母さんに逢いたくなったでしょう?だからっ…このまま川崎のお家へ行こ?一緒に行くから、ね…っ』
大きな澄んだ瞳が自分を映す、その形も黒目も母とは似ていない。
それなのに見つめられると温かで優しくて、その空気そっくりで自分も言ってしまった。
“美代さんのコートね、昔お母さんが着ていたのに似てるよ?きれいな優しいベージュ”
なぜ自分はあんなこと言ってしまったのだろう?
―もし僕が帰れなくなったら美代さんを泣かせるかもしれないんだ、お母さんと同じにずっと…ひきとめられなかった後悔を、
なぜ母と似ていると今日こんなに想うのか?
それは14年前と今と同じ道を辿るせいだ、父のように「遺して」しまう可能性が絞めてゆく。
母との約束も壊れて、あの女の子との約束も壊れて、それが哀しくて苦しくて、そして本音が引き裂かれる。
自分は今、誰を愛しているのだろう、恋しているのだろう?
「ぁっ、」
かしゃんっ、
そんな感覚が靴底とらえ引きこまれる。
雪底ふかく氷が崩れる、アイゼン捕まれ引きこまれてしまう。
ぐらり重心ゆらされ立て直そうとして、ふわり温もりが抱きしめた。
「大丈夫ですか?凍ってるとこ気をつけて、」
低いきれいな声に視線あげて、ほら、やっぱり君だ。
―英二、
呼びそうになる、君の名前。
だって今ふれそうなほど君の瞳が近い。
―英二が僕を抱いてる、こんなところで…どうして、
月を背おって君が自分を抱いている。
ただ支えてくれただけ、それでも鼓動こんなに弾んで響きだす。
だって君が自分を見つめている、ほろ苦い深い香がする、これだって君の匂いだ。
「アイゼンのブレードに草が絡むこともあります、足を捻ったりはしていないですか?」
穏やかなトーン微笑んで立たせてくれる。
支えられる腕がウェア透かして筋肉なみうつ、また肩が逞しくなった。
そんなことまで敏感にふれて君を探す、こんな自分にまた解からなくなって、それでも呼吸ひとつ呑みこんだ。
―僕は今、任務に立ってるんだ…きっと、さいごの、
ここは涯、そう解かる。
この十四年ずっと追い続けた父の顔、その隠された場所に自分は行く。
だからこれが最後、この後は生でも死でも二度と任務に就くことはない。
きっと今が最後、その唯ひとつに脳裡ふり払うよう十四年の願い微笑んだ。
―これを最後にするね、お父さん…もういいよね?
こころ呟いて息そっと吐く。
気管支から変な音は聞えない、まだ発作もこないだろう。
そんな安堵に落ち着かせた傍ら、低いきれいな声が微笑んだ。
「いま冬で静かですけど、この森は夏なら鳥のさえずりがいっぱいです、」
あ、そんなこと今は言わないで?
―英二、僕をリラックスさせようとしてくれてる…でも今は想いださせないで?
今こんな話題は哀しくなる、だって「後」は解からない。
今も覚悟したばかりで、それなのに低いきれいな声は言った。
「この森をぬけると雪の斜面になります、滑落しやすいのでザイルを繋がせてください、」
話しながらザイル一把とりだしてくれる。
その提案に今は頷きたくない、ただ無心に首振った。
「はい、なんですか?」
問いかけてくれる眼ざしに月が映る。
まっすぐ穏やかな切長い瞳、でも底深くは激しいのだと今は知っている、だから頷けない。
―繋いで離れないつもりだ英二、
最後まで共にする、そんな意図が見えてしまう。
それとも見たいと自分が願っているだけ?どちらでもザイル繋ぐなんて出来ない。
だって巻きこんでしまう、繋がれたら離せない、その相手が自分でも任務でもこの人は関係ないのだろう?
―僕だと解ってやってるわけじゃない、英二は任務に誠実なだけだ、でもそんなことしないで英二?
もし最後まで共にしたら?
そんなこと解かっているだろう、だってこの人は山のプロだ。
それでもザイル繋いで離れるつもりがない、こんなこと頷けない意地に綺麗な声が笑った。
「万が一にも滑り落ちたら犯人から見えてしまいますよ?そうしたら人質も危険にさらされます、すぐ終わるので待ってくださいね、」
話しながら大きな手はザイル器用に操りだす。
カラビナへ端正に結わえて通して、青いウェアの肩にザイルの輪を掛けると自分のハーネスに結んだ。
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