揺籃の宵
第84話 静穏 act.7-another,side story「陽はまた昇る」
湯が温かい、すべて融けだしていく。
「…は、」
息ついて湯気ふわり唇かすめて甘い。
やわらかな馥郁はバラと似ている、こんな香にも生活の違いがくすぐったい。
湯気の窓ブラインド透かして海ながめる、残照の波おだやかな陰翳うねらせ瞳から寛ぐ。
香こめるバスタブは白い石造なめらかで蛇口の金色まばゆい、瀟洒ゆるやかな空間に周太はため息吐いた。
「…ほんと対等じゃない、ね?」
シンプルだけど贅沢、そんな空間は心地いい。
居心地が悪いわけじゃなくて、だからこそ俤との差が思い知らされ言葉なぞった。
「まず…対等な存在にならないとゆがんでしまう、すべて、」
声なぞって鼓動ゆるやかな底、大叔母の声が響く。
『まず対等な存在にならないと恋愛も友情もゆがんでしまうものよ?すべての愛情がね、』
本当にそうだ、だから自分と英二は歪んでしまった。
“このひとには僕なんかふさわしくない”
ずっとそう想っていた、だから結局あなたの愛情を信じられない。
信じられないぶんだけ遠慮して卑下して、そうして本音を言えなくなって嘘をついた。
その嘘が結局わだかまっている、夏の異国で起きた一夜は自分自身の裏切りだ。
―僕が正直じゃなかったせいなんだ、僕だけ見てほしかったくせに…けっきょく光一のことも傷つけて、
アイガー北壁の夜、幼馴染はあのひとに何を見たのだろう?
『ごめん周太、俺…、』
あの夜から後の再会、幼馴染はただ泣いた。
あの涙に解かってしまう、きっと追い詰められて、それも結局は自分のせいだ。
「…光一にも謝らなくちゃ、僕、」
決意そっと声にして湯をすくう。
ぱしゃり、顔洗って呼吸ひとつ微笑んだ。
「美代さんのことも…なんて言われるのかな、」
彼女のことも話さなくてはいけない、だって二人は親戚同士だ。
あの底抜けに明るい眼はどんな貌するのだろう?かすかな不安に湯の膝かかえこんだ。
―英二だけじゃなくて美代さんまで…どうしてこうなっちゃったのかな、でも、
でも、嬉しくなかったと言ったら嘘だ。
『美代ちゃんはね、知る覚悟ありますって言ったのよ?』
大叔母にそう伝えられたとき、温かくなった。
あの女の子が「覚悟」してくれる、それがただ温かくて嬉しくて、そして想ってしまった。
自分は独りじゃない、唯そう想えた。
『最初は英二を好きになったそうね?でも周太くんと一緒にいたい気持ちがずっと大きいって気づいたそうよ、前期試験のあと新宿で見送った時にね、』
ねえ君、あの美しい男よりほんとうに僕を選ぶの?
「…ほんとに美代さん?」
名前こぼれて湯気とけてゆく。
あのひとより自分を想う、そんなことあるのだろうか?
―美代さんずっと英二と会ってないからかもしれないよね、英二が異動になってから会えてないから…半年ずっと、
半年も会わなければ身近な存在に心傾くかもしれない?そうも考えてしまう。
だって自分を選んでくれるなんてあるのだろうか、あの男よりもこの自分を?
「信じられないな、僕こそ好きだから…英二のこと、」
あの男を自分は好きだ、好きだからこそ信じがたくなる。
こんなに疑うほど惹かれてしまった本音が軋む、こんな未練がましい自分が苦しくて悔しい。
だって本当は解かっている、自分が誰といることが誰をも幸せに出来るのか?
「…のぼせそう、」
ため息ゆっくり立ちあがって、めまい微かに熱い。
慎重にバスタブを出て蛇口ひねって、シャワー冷たい飛沫あふれた。
「は…、」
ため息ごと冷やされ脳裡が冴えてゆく。
こんなふう水かぶることは珍しい、でもしょっちゅうしている人もいる。
―警察学校でも英二、水かぶってたね…雨のベランダに出たり、
雨の朝、白いシャツ姿ずぶぬれだった。
ダークブラウンの髪きらめく水滴うつくしかった、シャツ透かす白皙まぶしかった。
雨うたれても視線はるか遠く見つめて、あの先にあったのは八千峰の雪嶺だろうか?
きれいだった、あなたは。だから尚更に想えないのかもしれない。
“あなたを幸せに出来るのは僕だ”
そんなふうに想えない、あなたに釣合う自分だと想えないから。
だってもう思い知らされている、あなたの幸せな場所に自分は行けない。
だって英二が生きたいのは「山」そこで自分の病は足枷になるだけと、あの雪嶺で思い知らされた。
「ごめんね英二…僕のために雪崩まで、」
ほら唇こぼれる「ごめんね」こんなふう何度これから謝るのだろう?
いま謝っても届くわけじゃない、それでも冷たい飛沫に想いこぼれて涙になる。
―英二、えいじ、怪我の具合どうなの…腕も包帯ぐるぐるだった、
あなたの傷が哀しい、だって山に登る人なのに?
それなのに山で傷つけてしまった、この自分が高峰になど登ったせいだ。
あれは任務で逃げられなくて、それでも気管支の疾病を隠した意地があなたの枷になったのに?
「ごめんね…山の人のために英二は救助隊員なのに、ごめんね英二、」
涙こぼれて冷たい飛沫はじける、冷えゆく頬あふれて熱とけてゆく。
ただ泣いているだけの自分は悔しい、こんな自分だからとまた卑屈が歪んでしまう。
こんな自分がどうして共に生きられる、あなたと?
『まず対等な存在にならないと恋愛も友情もゆがんでしまうものよ?すべての愛情がね、』
ほんとうにそうだ、もうこんなに歪みかけている。
その果が「あの男」観碕と祖父の関係だとしたら五十年また連鎖が続くかもしれない?
そう大叔母も気づいているから連絡を断ち切らせてくれた、そんな判断にまたひとつ訊きたくなる。
『 La chronique de la maison 』
あの小説を大叔母も読んだのだろう、そして事実だといくつ考える?
―お祖父さんが書いた記録だって想ってるんだ、そうじゃないとあんなこと言わない、
フランス文学者だった祖父の著書は論文ばかり、けれど小説を一篇だけ遺した。
還暦の祝に大学から記念出版されて部数は少ない、それでも大叔母にはきっと贈ったろう、だから大叔母は言った。
『ねえ岩田さん、私は亡霊になって孫と嫁を護ってるの。だから私が何をしてもあなたの幻覚よ?』
亡霊、幻覚、そんな言葉は祖父の小説と重ならす。
パリ郊外の閑静な邸宅に響いた2発の銃声、隠匿される罪と真相、生まれていく嘘と涙と束縛のリンク。
そんな小説のなか「亡霊」はたしかに現れて「幻覚」は起きる、その世界をなぞる言葉に祖父の筆跡が映りこむ。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
“Pour une infraction et punition, expiation” 罪と罰、贖罪の為に。
祖父が父に贈った本には一頁目、そんな詞書が記されてある。
あの意味はどんな事実を示すのか?その時間に生きた大叔母なら鍵を持っている。
―おばあさまはいたんだ、事件が起きた日あの家に、
あの聡明な瞳は「見ていた」その記憶は過去と今を解く鍵になる。
五十年前からなわれた鎖ほどく鍵、それを得るため自分はここに来たのかもしれない。
「…知らなくちゃ、本当のこと、」
覚悟そっと声になる、冷えた肌ふかく熱ゆるやかに燈りだす。
冴えた脳裡いくらか冷静おちついて、きゅっ、蛇口とめた音が響く。
(to be continued)
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周太24歳3月
第84話 静穏 act.7-another,side story「陽はまた昇る」
湯が温かい、すべて融けだしていく。
「…は、」
息ついて湯気ふわり唇かすめて甘い。
やわらかな馥郁はバラと似ている、こんな香にも生活の違いがくすぐったい。
湯気の窓ブラインド透かして海ながめる、残照の波おだやかな陰翳うねらせ瞳から寛ぐ。
香こめるバスタブは白い石造なめらかで蛇口の金色まばゆい、瀟洒ゆるやかな空間に周太はため息吐いた。
「…ほんと対等じゃない、ね?」
シンプルだけど贅沢、そんな空間は心地いい。
居心地が悪いわけじゃなくて、だからこそ俤との差が思い知らされ言葉なぞった。
「まず…対等な存在にならないとゆがんでしまう、すべて、」
声なぞって鼓動ゆるやかな底、大叔母の声が響く。
『まず対等な存在にならないと恋愛も友情もゆがんでしまうものよ?すべての愛情がね、』
本当にそうだ、だから自分と英二は歪んでしまった。
“このひとには僕なんかふさわしくない”
ずっとそう想っていた、だから結局あなたの愛情を信じられない。
信じられないぶんだけ遠慮して卑下して、そうして本音を言えなくなって嘘をついた。
その嘘が結局わだかまっている、夏の異国で起きた一夜は自分自身の裏切りだ。
―僕が正直じゃなかったせいなんだ、僕だけ見てほしかったくせに…けっきょく光一のことも傷つけて、
アイガー北壁の夜、幼馴染はあのひとに何を見たのだろう?
『ごめん周太、俺…、』
あの夜から後の再会、幼馴染はただ泣いた。
あの涙に解かってしまう、きっと追い詰められて、それも結局は自分のせいだ。
「…光一にも謝らなくちゃ、僕、」
決意そっと声にして湯をすくう。
ぱしゃり、顔洗って呼吸ひとつ微笑んだ。
「美代さんのことも…なんて言われるのかな、」
彼女のことも話さなくてはいけない、だって二人は親戚同士だ。
あの底抜けに明るい眼はどんな貌するのだろう?かすかな不安に湯の膝かかえこんだ。
―英二だけじゃなくて美代さんまで…どうしてこうなっちゃったのかな、でも、
でも、嬉しくなかったと言ったら嘘だ。
『美代ちゃんはね、知る覚悟ありますって言ったのよ?』
大叔母にそう伝えられたとき、温かくなった。
あの女の子が「覚悟」してくれる、それがただ温かくて嬉しくて、そして想ってしまった。
自分は独りじゃない、唯そう想えた。
『最初は英二を好きになったそうね?でも周太くんと一緒にいたい気持ちがずっと大きいって気づいたそうよ、前期試験のあと新宿で見送った時にね、』
ねえ君、あの美しい男よりほんとうに僕を選ぶの?
「…ほんとに美代さん?」
名前こぼれて湯気とけてゆく。
あのひとより自分を想う、そんなことあるのだろうか?
―美代さんずっと英二と会ってないからかもしれないよね、英二が異動になってから会えてないから…半年ずっと、
半年も会わなければ身近な存在に心傾くかもしれない?そうも考えてしまう。
だって自分を選んでくれるなんてあるのだろうか、あの男よりもこの自分を?
「信じられないな、僕こそ好きだから…英二のこと、」
あの男を自分は好きだ、好きだからこそ信じがたくなる。
こんなに疑うほど惹かれてしまった本音が軋む、こんな未練がましい自分が苦しくて悔しい。
だって本当は解かっている、自分が誰といることが誰をも幸せに出来るのか?
「…のぼせそう、」
ため息ゆっくり立ちあがって、めまい微かに熱い。
慎重にバスタブを出て蛇口ひねって、シャワー冷たい飛沫あふれた。
「は…、」
ため息ごと冷やされ脳裡が冴えてゆく。
こんなふう水かぶることは珍しい、でもしょっちゅうしている人もいる。
―警察学校でも英二、水かぶってたね…雨のベランダに出たり、
雨の朝、白いシャツ姿ずぶぬれだった。
ダークブラウンの髪きらめく水滴うつくしかった、シャツ透かす白皙まぶしかった。
雨うたれても視線はるか遠く見つめて、あの先にあったのは八千峰の雪嶺だろうか?
きれいだった、あなたは。だから尚更に想えないのかもしれない。
“あなたを幸せに出来るのは僕だ”
そんなふうに想えない、あなたに釣合う自分だと想えないから。
だってもう思い知らされている、あなたの幸せな場所に自分は行けない。
だって英二が生きたいのは「山」そこで自分の病は足枷になるだけと、あの雪嶺で思い知らされた。
「ごめんね英二…僕のために雪崩まで、」
ほら唇こぼれる「ごめんね」こんなふう何度これから謝るのだろう?
いま謝っても届くわけじゃない、それでも冷たい飛沫に想いこぼれて涙になる。
―英二、えいじ、怪我の具合どうなの…腕も包帯ぐるぐるだった、
あなたの傷が哀しい、だって山に登る人なのに?
それなのに山で傷つけてしまった、この自分が高峰になど登ったせいだ。
あれは任務で逃げられなくて、それでも気管支の疾病を隠した意地があなたの枷になったのに?
「ごめんね…山の人のために英二は救助隊員なのに、ごめんね英二、」
涙こぼれて冷たい飛沫はじける、冷えゆく頬あふれて熱とけてゆく。
ただ泣いているだけの自分は悔しい、こんな自分だからとまた卑屈が歪んでしまう。
こんな自分がどうして共に生きられる、あなたと?
『まず対等な存在にならないと恋愛も友情もゆがんでしまうものよ?すべての愛情がね、』
ほんとうにそうだ、もうこんなに歪みかけている。
その果が「あの男」観碕と祖父の関係だとしたら五十年また連鎖が続くかもしれない?
そう大叔母も気づいているから連絡を断ち切らせてくれた、そんな判断にまたひとつ訊きたくなる。
『 La chronique de la maison 』
あの小説を大叔母も読んだのだろう、そして事実だといくつ考える?
―お祖父さんが書いた記録だって想ってるんだ、そうじゃないとあんなこと言わない、
フランス文学者だった祖父の著書は論文ばかり、けれど小説を一篇だけ遺した。
還暦の祝に大学から記念出版されて部数は少ない、それでも大叔母にはきっと贈ったろう、だから大叔母は言った。
『ねえ岩田さん、私は亡霊になって孫と嫁を護ってるの。だから私が何をしてもあなたの幻覚よ?』
亡霊、幻覚、そんな言葉は祖父の小説と重ならす。
パリ郊外の閑静な邸宅に響いた2発の銃声、隠匿される罪と真相、生まれていく嘘と涙と束縛のリンク。
そんな小説のなか「亡霊」はたしかに現れて「幻覚」は起きる、その世界をなぞる言葉に祖父の筆跡が映りこむ。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
“Pour une infraction et punition, expiation” 罪と罰、贖罪の為に。
祖父が父に贈った本には一頁目、そんな詞書が記されてある。
あの意味はどんな事実を示すのか?その時間に生きた大叔母なら鍵を持っている。
―おばあさまはいたんだ、事件が起きた日あの家に、
あの聡明な瞳は「見ていた」その記憶は過去と今を解く鍵になる。
五十年前からなわれた鎖ほどく鍵、それを得るため自分はここに来たのかもしれない。
「…知らなくちゃ、本当のこと、」
覚悟そっと声になる、冷えた肌ふかく熱ゆるやかに燈りだす。
冴えた脳裡いくらか冷静おちついて、きゅっ、蛇口とめた音が響く。
(to be continued)
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