Of moral evil and of good,
第86話 建巳 act.14 another,side story「陽はまた昇る」
雲ゆく、屋根裏部屋の窓はるか。
「…しずかだね、」
深閑そっと声しみる。
見あげる天窓はるか紺青ふかい、月あかり雲が駆けてゆく。
上空は風が強い、そのかけら窓ふわり、白く舞い降りた。
「さくら…」
掌のばして花びら降りる。
うけとめた薄紅あわくランプきらめく、かすかな深い甘い香。
庭のどこか桜が咲きだした、そんな夜に周太は出窓を開いた。
「ん…いい風、」
頬やわらかに冷たく風ふれる。
まだ夜風は凍えて、けれど香あまく温もり春がにじむ。
冷たいくせ甘い温かい、ながれる香そっと洗い髪を梳いて心地いい。
こんなに穏やかな夜どれくらいぶりだろう?
「ほんとに帰ってきたんだ…僕、」
声そっと風ふれて、深く甘い香ふれる。
どこか桜が咲きだした、その気配に微笑んで封筒ひとつ開いた。
“私の孫になる君へ”
記される言葉、ブルーブラックあざやかな筆跡がやわらかい。
この手紙に祖母がたくしてくれた未来へ、明日から自分は踏み出していく。
「ありがとう、おばあさん…」
呼びかけて見つめる便箋、月あかり白く照らされる。
この手紙を書いたとき、祖母はこの自分を見つめてくれた。
こうして今ここで、祖母が手紙を綴ったこの部屋にいる自分を見つめて。
“私の母校でも一緒に散歩したいわ、大きな図書館がとても素敵なのよ?君のお祖父さんの研究室も案内したいです。”
ほら綴られる祖母の願い、この願いごと明日一緒に叶えよう?
明日だけじゃない、その先もずっと。
「亡くなっても一緒にいてくれてるね…そうでしょう?」
手紙そっと笑いかけて、ブルーブラックの筆跡やわらかい。
この願いこめてくれたひと、そうして自分は護られて今ここにいる。
この祖母が願ってくれたから今ここで生きて、だから明日への道を選べた。
―本当におばあさんのおかげなんだ、きっと…おばあさまが動いてくれたのも、大学に道がついたことも、
祖母が亡くなったのは自分が生まれる遥か前、まだ父も幼かった春。
そうして今この春を迎えて、ここで自分が祖母の手紙をひらいている。
こんなふうに時間はるかに超えて、それでも心ふたつ重なってゆく。
「青木先生と田嶋先生にお返事しないと…明日、」
祖母の母校で明日、道ふたつ選ばなくてはならない。
植物学の道、文学の道、ふたつ示してもらえた世界。
「…おばあさん、本当は僕どっちが向いてるのかな…」
呼びかけて、ブルーブラックの筆跡を見つめる。
この手紙しるしてくれたひと、今、どんなアドバイス応えてくれる?
「田嶋先生はお祖父さんの教え子で、お父さんの大事な友だちなんだ…山ヤさんで、シェイクスピアの夏みたいな人、」
シェイクスピアの夏、永遠の夏。
William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」十四行詩ソネットに綴られる夏。
この詩を祖母は愛していた、父も時折くちずさんだ、そして父の遺作集にも田嶋が掲げてくれた。
そんなひとが守っている研究室は祖父が興した、祖母と祖父が出逢った場所でもある。
そして自分にも、きっと忘れられない場所になる。
「…本も好きなんだ、ワーズワースもロンサールも…でも植物も好きで、約束もいっぱいあるんだ…」
手紙ごし祖母に問いかける、この一通を記してくれたこの窓で。
この窓辺50年前この手紙を書いたひと、その瞳に月は明るかったろうか?
この窓こんなふうに月を見て、その聡明な瞳に今たくさん訊いてみたい、教えてほしい。
「おばあさん…英二と美代さんのこともききたいんだ、僕…」
ほら想い声になる、聴いてほしい、教えてほしい。
ただ恋愛だと聴いてくれるだろうか、同性愛でも女性を想うことも、同じと言うのだろうか?
こんな想い、聴いたら祖母はなんて言うのだろう?
「…自分で考えなくちゃね、僕、」
微笑んで見あげる先、雲駆ける紺青はるか広がる。
ひろやかな夜に月が澄む、あの月あと数時間で沈み陽が昇る。
そうして明日が訪れる、明日がある、その先に生きる時間なにを見つめたい?
僕が永遠の夏と想う、そこは。
台所の窓やわらかな影、薄紅色あわく朝陽ゆらす。
やはり咲いている、微笑んでガラス窓すこし開けた。
「ん…いい香、」
窓すべりこむ風が甘い、深い甘い春が匂う。
ほころんだ山桜きらめく光、なつかしい朝の窓に呼ばれた。
「おはよう、周?」
ことん、スリッパやさしい足音にアルト微笑む。
くつろいだ母の声に笑いかけた。
「おはよう、お母さんは今日お休み?」
「そうよ、出張の振休、」
やわらかなニット姿が笑ってくれる。
その頬すこしだけ昨夜より円やかで、すこしの安堵と汁椀を運んだ。
「お休み久しぶりでしょ?ゆっくりしててね、」
「そうね、のんびりしようかな、」
黒目がちの瞳ほがらかに笑って、食卓に皿ならべてくれる。
ふたり朝食の膳ととのえて、温かな湯気に向かいあった。
「周、おしょうゆ取ってくれる?」
「はい、」
「ありがと、おひたしの青色すごくきれいね?」
「菜花のおひたしだよ、お庭の菜園の、」
何気ない会話と箸はこぶ、出汁やわらかに味噌あまく芳しい。
慕わしい香ならぶ皿、その皿たちも昔馴染みでほっと和らぐ。
「卵焼き、あいかわらずきれいね。うすーく巻いてふんわり、周はほんと上手ね、」
「ん、ありがとう、」
微笑んで応えながら、その皿に懐かしい。
ざっくり素朴やわらかな風合いの白、貫入あわい灰色が卵色と映える。
「ね、お母さん?このお皿、いつも卵焼きをのせてるよね?」
「ん?そういえばそうね、」
箸はこびながら母が応えてくれる。
こんなふう「そういえばそう」なほど馴染みで、そんな器たちの食卓に言われた。
「そういえば周、おばさまから昨日お電話いただいたのだけど、」
何の用だろう?
首ちょっと傾げて、記憶ひとつ弾けた。
「あ、加田さんの下宿?」
「そうそう、昨夜ね、相談するの忘れちゃってたわ、」
頷いてアルト朗らかに笑ってくれる。
その言葉は自分も同じで、首すじ昇る熱と口ひらいた。
「僕こそ忘れちゃってたよ?加田さんご本人から言われてたのに…ごめんなさい、」
家まで訪ねてくれた、そのお蔭で退職届も無事に出せたのに?
こんな忘れんぼう恥ずかしい、申し訳ない想いに母が尋ねた。
「そっか、昨日ここにいらしたのよね?おばさまに聞いたわ、」
「いらしたよ、退職届を出すのにもついてきてくれて…おかげで無事に出せたんだ、」
答えながら首すじ熱くなる、申し訳なくて。
あんなにもお世話になって、そのくせ忘れてしまった罪悪感と口ひらいた。
「加田さんは検察官でね、ひと月前まで人事交流でフランスにいたんだ、だからフランスから帰国した親戚ってことにしてくださいって、」
口実まで話を聞いていた、そのくせ忘れていたなんて?
やっぱりメモきちんとしよう、ひとつ決め事に母が言った。
「おばさまもそう仰ってたわ。私と周だけよりも、他の眼があるほうが安全だろうって。今すぐ何かってことは無いでしょうけど、」
「ん…そうだね、」
肯いて、けれど考えこんでしまう。
大叔母の言うとおりだ、反対する理由はない、けれど。
―お母さん一人にするのは心配だもの、でも…家族じゃない人が住むってどうなるんだろう…、
あらためて考えてしまう、この家に他人が住むなんて?
この自分にできるのだろうか?あまり想像できない予想図、アルト朗らかに笑った。
「おばさまの心配も当然だと思うのよ。お家賃も頂けるそうだし、離れを使ってもらえるのはいいかなって。周はどう思いますか?」
意見を求めてくれる声は明るい。
大叔母の提案に母も賛同している、そこに無理はないのだろう?
「ん…そうだね、」
肯きながら煮物鉢に箸つける。
ころり、新じゃがいも一つ皿のせて、ほろり黄色ほぐれた。
※校正中
(to be continued)
第86話 建巳act.13← →第86話 建巳act.15
斗貴子の手紙←
にほんブログ村
純文学ランキング
kenshi―周太24歳3月末
第86話 建巳 act.14 another,side story「陽はまた昇る」
雲ゆく、屋根裏部屋の窓はるか。
「…しずかだね、」
深閑そっと声しみる。
見あげる天窓はるか紺青ふかい、月あかり雲が駆けてゆく。
上空は風が強い、そのかけら窓ふわり、白く舞い降りた。
「さくら…」
掌のばして花びら降りる。
うけとめた薄紅あわくランプきらめく、かすかな深い甘い香。
庭のどこか桜が咲きだした、そんな夜に周太は出窓を開いた。
「ん…いい風、」
頬やわらかに冷たく風ふれる。
まだ夜風は凍えて、けれど香あまく温もり春がにじむ。
冷たいくせ甘い温かい、ながれる香そっと洗い髪を梳いて心地いい。
こんなに穏やかな夜どれくらいぶりだろう?
「ほんとに帰ってきたんだ…僕、」
声そっと風ふれて、深く甘い香ふれる。
どこか桜が咲きだした、その気配に微笑んで封筒ひとつ開いた。
“私の孫になる君へ”
記される言葉、ブルーブラックあざやかな筆跡がやわらかい。
この手紙に祖母がたくしてくれた未来へ、明日から自分は踏み出していく。
「ありがとう、おばあさん…」
呼びかけて見つめる便箋、月あかり白く照らされる。
この手紙を書いたとき、祖母はこの自分を見つめてくれた。
こうして今ここで、祖母が手紙を綴ったこの部屋にいる自分を見つめて。
“私の母校でも一緒に散歩したいわ、大きな図書館がとても素敵なのよ?君のお祖父さんの研究室も案内したいです。”
ほら綴られる祖母の願い、この願いごと明日一緒に叶えよう?
明日だけじゃない、その先もずっと。
「亡くなっても一緒にいてくれてるね…そうでしょう?」
手紙そっと笑いかけて、ブルーブラックの筆跡やわらかい。
この願いこめてくれたひと、そうして自分は護られて今ここにいる。
この祖母が願ってくれたから今ここで生きて、だから明日への道を選べた。
―本当におばあさんのおかげなんだ、きっと…おばあさまが動いてくれたのも、大学に道がついたことも、
祖母が亡くなったのは自分が生まれる遥か前、まだ父も幼かった春。
そうして今この春を迎えて、ここで自分が祖母の手紙をひらいている。
こんなふうに時間はるかに超えて、それでも心ふたつ重なってゆく。
「青木先生と田嶋先生にお返事しないと…明日、」
祖母の母校で明日、道ふたつ選ばなくてはならない。
植物学の道、文学の道、ふたつ示してもらえた世界。
「…おばあさん、本当は僕どっちが向いてるのかな…」
呼びかけて、ブルーブラックの筆跡を見つめる。
この手紙しるしてくれたひと、今、どんなアドバイス応えてくれる?
「田嶋先生はお祖父さんの教え子で、お父さんの大事な友だちなんだ…山ヤさんで、シェイクスピアの夏みたいな人、」
シェイクスピアの夏、永遠の夏。
William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」十四行詩ソネットに綴られる夏。
この詩を祖母は愛していた、父も時折くちずさんだ、そして父の遺作集にも田嶋が掲げてくれた。
そんなひとが守っている研究室は祖父が興した、祖母と祖父が出逢った場所でもある。
そして自分にも、きっと忘れられない場所になる。
「…本も好きなんだ、ワーズワースもロンサールも…でも植物も好きで、約束もいっぱいあるんだ…」
手紙ごし祖母に問いかける、この一通を記してくれたこの窓で。
この窓辺50年前この手紙を書いたひと、その瞳に月は明るかったろうか?
この窓こんなふうに月を見て、その聡明な瞳に今たくさん訊いてみたい、教えてほしい。
「おばあさん…英二と美代さんのこともききたいんだ、僕…」
ほら想い声になる、聴いてほしい、教えてほしい。
ただ恋愛だと聴いてくれるだろうか、同性愛でも女性を想うことも、同じと言うのだろうか?
こんな想い、聴いたら祖母はなんて言うのだろう?
「…自分で考えなくちゃね、僕、」
微笑んで見あげる先、雲駆ける紺青はるか広がる。
ひろやかな夜に月が澄む、あの月あと数時間で沈み陽が昇る。
そうして明日が訪れる、明日がある、その先に生きる時間なにを見つめたい?
僕が永遠の夏と想う、そこは。
台所の窓やわらかな影、薄紅色あわく朝陽ゆらす。
やはり咲いている、微笑んでガラス窓すこし開けた。
「ん…いい香、」
窓すべりこむ風が甘い、深い甘い春が匂う。
ほころんだ山桜きらめく光、なつかしい朝の窓に呼ばれた。
「おはよう、周?」
ことん、スリッパやさしい足音にアルト微笑む。
くつろいだ母の声に笑いかけた。
「おはよう、お母さんは今日お休み?」
「そうよ、出張の振休、」
やわらかなニット姿が笑ってくれる。
その頬すこしだけ昨夜より円やかで、すこしの安堵と汁椀を運んだ。
「お休み久しぶりでしょ?ゆっくりしててね、」
「そうね、のんびりしようかな、」
黒目がちの瞳ほがらかに笑って、食卓に皿ならべてくれる。
ふたり朝食の膳ととのえて、温かな湯気に向かいあった。
「周、おしょうゆ取ってくれる?」
「はい、」
「ありがと、おひたしの青色すごくきれいね?」
「菜花のおひたしだよ、お庭の菜園の、」
何気ない会話と箸はこぶ、出汁やわらかに味噌あまく芳しい。
慕わしい香ならぶ皿、その皿たちも昔馴染みでほっと和らぐ。
「卵焼き、あいかわらずきれいね。うすーく巻いてふんわり、周はほんと上手ね、」
「ん、ありがとう、」
微笑んで応えながら、その皿に懐かしい。
ざっくり素朴やわらかな風合いの白、貫入あわい灰色が卵色と映える。
「ね、お母さん?このお皿、いつも卵焼きをのせてるよね?」
「ん?そういえばそうね、」
箸はこびながら母が応えてくれる。
こんなふう「そういえばそう」なほど馴染みで、そんな器たちの食卓に言われた。
「そういえば周、おばさまから昨日お電話いただいたのだけど、」
何の用だろう?
首ちょっと傾げて、記憶ひとつ弾けた。
「あ、加田さんの下宿?」
「そうそう、昨夜ね、相談するの忘れちゃってたわ、」
頷いてアルト朗らかに笑ってくれる。
その言葉は自分も同じで、首すじ昇る熱と口ひらいた。
「僕こそ忘れちゃってたよ?加田さんご本人から言われてたのに…ごめんなさい、」
家まで訪ねてくれた、そのお蔭で退職届も無事に出せたのに?
こんな忘れんぼう恥ずかしい、申し訳ない想いに母が尋ねた。
「そっか、昨日ここにいらしたのよね?おばさまに聞いたわ、」
「いらしたよ、退職届を出すのにもついてきてくれて…おかげで無事に出せたんだ、」
答えながら首すじ熱くなる、申し訳なくて。
あんなにもお世話になって、そのくせ忘れてしまった罪悪感と口ひらいた。
「加田さんは検察官でね、ひと月前まで人事交流でフランスにいたんだ、だからフランスから帰国した親戚ってことにしてくださいって、」
口実まで話を聞いていた、そのくせ忘れていたなんて?
やっぱりメモきちんとしよう、ひとつ決め事に母が言った。
「おばさまもそう仰ってたわ。私と周だけよりも、他の眼があるほうが安全だろうって。今すぐ何かってことは無いでしょうけど、」
「ん…そうだね、」
肯いて、けれど考えこんでしまう。
大叔母の言うとおりだ、反対する理由はない、けれど。
―お母さん一人にするのは心配だもの、でも…家族じゃない人が住むってどうなるんだろう…、
あらためて考えてしまう、この家に他人が住むなんて?
この自分にできるのだろうか?あまり想像できない予想図、アルト朗らかに笑った。
「おばさまの心配も当然だと思うのよ。お家賃も頂けるそうだし、離れを使ってもらえるのはいいかなって。周はどう思いますか?」
意見を求めてくれる声は明るい。
大叔母の提案に母も賛同している、そこに無理はないのだろう?
「ん…そうだね、」
肯きながら煮物鉢に箸つける。
ころり、新じゃがいも一つ皿のせて、ほろり黄色ほぐれた。
※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】
第86話 建巳act.13← →第86話 建巳act.15
斗貴子の手紙←
にほんブログ村
純文学ランキング
著作権法より無断利用転載ほか禁じます