やさしい嘘なんて、
黎風act2.追捕―side story「陽はまた昇る」
手続きを済ませて、射撃訓練場に入った。
与えられたブースに入ると、遮蔽された空間が集中力を作ってくれる。
こういうの久しぶりだな。
そんな事を思いながら、英二はイヤープロテクターを装着した。
ホルスターから拳銃を抜く。
シリンダーを開いて、装填された弾の雷管に傷が無いか確認する。
それから両手で拳銃を固定し、フロントサイトに意識を集中した。
これが基本の構え方になる。
遅撃ちの訓練から始まる。
遅撃ちは15秒に1発と余裕がある。そのぶん狙いを定めて撃つから精密射撃ともいう
一発撃つごとに、腕を45度下に向ける。そうして一旦、腕を休ませながら撃つ。
最初の6発を終えて、英二はシリンダーを開いた。
空薬莢を取出すと、スピードローダーで装填して閉じる
着弾結果は10点と9点が3:3だった。
久しぶりにしては良いのかな。そう思いながら今度は、両手撃ちのノンサイト射撃に構えた。
両手撃ちのまま、けれどフロントサイトはもう使わない。
両目で的を捕らえた視線上に、拳銃のサイトを突き出すように構える。
普通、ノンサイト射撃は近距離、10m位の場合に使う。
けれど周太は距離に関係なく、ノンサイト射撃の片手撃ちで的中させる。
それを真似して、英二もノンサイト射撃の練習をした。
着弾結果は10点と9点が3:3。サイトを使わなくても同じ結果だった。
シリンダーを片手で開いて、今度はバラ弾で装填する。
それからシリンダーチェックをして閉じた。
次の的が現われる準備が始まる。
そろそろ、やってみようかな。そう思いながら英二は、右足を少し前に出した。
背中を真直ぐに伸ばし、的へ向かって体をやや斜めにする。
英二の右腕だけがあがり、左掌は腰へ固定に置く。
片手撃ちのノンサイト射撃に、英二は構えた。
射撃の構えは、体格差による差異が出る。
けれど英二の構え方は、周太の構えそっくりだった。
要領のいい英二は、人を真似て身につける事が上手い。
だから今も、山では国村の真似をする。そして射撃は、周太の真似で身につけた。
両目の視線の集中が、的の一点へ向かう。
視線の上へと右腕を伸ばし、拳銃のサイトを突き出しておく。
引金を「霜が降りるがごとく」ひいた。
体を抜ける衝撃にも、随分と馴れ始めている。弾は10点を撃ち抜いていた。
ゆっくり45度に下げて、いったん右腕を休ませる。
本当は、周太と同じ進路を選びたかった。ずっと傍から離れたくなかった。
だから射撃も、周太の真似をした。
体格が全く違うけれど、英二は要領が良い。
自分に合った片手撃ちを、なんとか身につけた。
けれど、同じ進路は選べない。それは直ぐに気がついた。
能力は努力で補える。けれど、身長制限だけは、諦めざるを得なかった。
周太の進路はおそらくSAT、身長170cm前後の小柄が条件。
身長180cmの英二には、望めない場所だった。
武道も射撃も周太には敵わない。
進路も全く同じ場所では選べない。
けれど少しでも周太に近付けたら、役に立てるかもしれない。
そう思って努力した。
射撃はそれなりの適性があった。
結果と原因を分析する、そして対応を考える。
そうやって次には、同じ失敗をしなければいい。
そういう英二の要領の良さが、射撃の訓練を助けてくれた。
長い指と握力の強さは、片手撃ちには向いている。
長い腕はリーチがとれる、その分だけ的を捉えやすい。
細身で長身だけれど、筋肉質で体幹も背筋力も強いからブレ難い。
元から、握力も背筋力も、体幹バランスも良い方だった。
それを利用して、周太のトレーニングにつき合って、今の体力を身につけた。
そういう努力をしなかったら。奥多摩へ、山岳救助隊には配属されない。
そうして少しでも、周太を背負えるだけの、自分になりたかった。
2弾撃ち終わって、素早くシリンダーを開いた。
普通は両手でシリンダーの操作をする。けれど長い指は器用だから、片手で素早く作業が出来る。
開いている方の左手で、バラ弾の雷管をチェックしながら補充する。
遅撃ちは、標的出現の間隔が1回/15秒。その間なら2弾位は補充できる。
また右腕だけをあげて、ノンサイトで構え狙撃する。
装填に11秒、狙う時間は4秒だった。けれど的は10点が撃ち抜かれた。
撃つごとに、着弾の精度があがっていく。
発射の衝撃による、銃口の角度がブレる感覚。
衝撃を抜けさせるための力加減。引き金を引く強さ。
一発ごとに本当は、きちんと計算して撃っている。
遅撃ちが終わって、速撃ちの訓練に移る。
グリップを軽く持ち直した。遅撃ちと速撃ちではグリップの握り方を変える。
少しオープンな姿勢に構えも変えた。
ノンサイト射撃の片手撃ちで、このまま速撃ちもする。
速撃ちは、3秒間現われる標的を1発ずつ撃つ。
遅撃ちでは腕を下に向けて、いったん休ませることが出来る。
けれど速撃ちは3秒の間に1発。構え直す時間は無い、腕はあげたままになる。
発射の衝撃に、片腕で耐え続けられるだけの、筋力とバランスが必要だった。
5発続けて撃って2:2:1。1回8点になってしまった。
けれど、その8点は初弾。最後はちゃんと10点だった。
「半年でこれだけ出来たら立派だよ」
そんなふうに周太は褒めてくれる。
それなりの努力はもちろん積んだ。けれど周太とは努力の質が違う。
自分は骨格が大きく、筋肉質でバランス感覚もいい。
器用な指は長く、掌は大きい。
生まれつき恵まれていただけ。
周太の骨格は華奢で小柄だ。
それでも筋力と体幹を無理にも鍛え上げて、周太は身につけた。
けれど本来は、こんな操法に耐えられる体躯じゃない。
片手撃ちのノンサイト射撃。
周太には、どれだけの努力と無理が必要だったのか。
同じ操法を身につけた今、英二にはその努力が解ってしまう。
だからいつも、あの隣を真似た構えで撃つたび、切ない。
速撃ちも終わって、ブースを片付ける。
その英二の背中には、視線が刺さっていた。
片手撃ちノンサイト射撃に構えた時から、ずっと背中に視線を負っている。
周太を真似た構え方。
射撃指導員の安本ならば、直ぐに気がつくだろう。
そしてきっと声を掛けたくなる。
なぜ周太と同じ構えなのか。
それくらいは、同期か友人で教わったのだと推測できるだろう。
けれど。どうして、その男が自分の前に現われたのか。
それは訊かなければ解らない。だからきっと声を掛ける。
現われた目的、周太との関係。
それから13年前の事件と安本の関係。
それらをどこまで知って、何の目的の為に来たのか、きっと探るだろう。
きっと声を掛けられる。
そう思いながら出口の方へ、英二はゆっくり踵を返した。
「こんにちは、初めての方ですね」
50代の人の好い笑顔が、目の前に立っていた。
澤野の刑事課ファイルで見た、履歴書の写真と同じ顔。
感じていた視線と同じ目が、こちらを見て立っていた。
「はい、初めて伺いました」
微笑んで英二は答えた。
たぶん直ぐに質問されるだろう、そう思っていると安本が訊いた。
「なかなかの射撃操法でした。お名前を伺っても宜しいですか?」
ほらやっぱり訊かれた。微笑んで英二は安本を見た。
それから姿勢を正して、すっと英二は敬礼をした。
「青梅署所属の宮田です」
「宮田くんですね。武蔵野署の射撃指導員で安本と言います」
頷いて英二は微笑んだ。
安本も微笑みながら、英二に言った。
「業務がら、射撃に優れた方にはコツを、教えて頂きたいのです。宮田くんも是非、お話を訊かせて下さいませんか」
半年でこれだけ出来たら立派だよ。そんなふうに周太は言ってくれる。
本当にそうだなと、今はちょっと思えてしまう。
長い指と握力の強さは、片手撃ちには向いている。
長い腕はリーチがとれる、その分だけ的を狙いやすい。
細身で長身だけれど、背筋も体幹も強いお蔭でブレ難い。
そういう生まれつきに、自分は恵まれている。
だから思ってしまう、運命はきっと自分の味方だろう。
きれいに長身の体を傾けて礼をする。
それから顔あげて、真直ぐに安本の目を見て、英二は微笑んだ。
「はい。こちらこそ教えてください」
同行の方に声を掛けてきますと言って、いったん安本と別れた。
まだ訓練を続ける澤野へは、担当官にお願いして伝言を残す。
それから英二はロビーへ向かった。
ロビーをぐるっと見回して、自販機を探す。
青梅署のように自販機の傍で、吉村はゆっくりコーヒーを啜っていた。
英二に気がつくと、穏やかに微笑んだ。
「彼に、会えたんだね」
「はい、」
短く答えて、英二は微笑んだ。
「では、面会の申し入れは必要ないですね」
そう言って吉村は立ちあがり、微笑んで英二に言った。
「待ち合わせ場所へ、行きましょう」
「はい、」
ふたり並んで歩きはじめる。
吉村の方が英二より背が低い。けれど背中は大きくて、温かな空気に充ちている。
こんな背中の人が、奥多摩には多い。
岩崎も、あの田中も、それから後藤。穏やかで温かな背中を、みんな持っている。
自分もこんなふうになれたらいい。そう思いながら英二は歩いていった。
安本は小さな会議室で待っていた。
一緒に入ってきた吉村を見、安本は驚いて立ちあがった。
「医科大付属の、吉村先生ですか?」
「はい、お久しぶりです。お元気そうですね」
ええと答えながら、安本は英二と吉村を交互に見ている。
いきなりのカウンターを喰らわせたかな。そう思いながら英二は眺めていた。
なぜここに吉村がと言いたげな安本に、穏やかに吉村は微笑んだ。
「こちらの警察医の方へ、資料を届ける用がありました。それで宮田くん達の車に便乗して、お邪魔しています」
「吉村先生は、ご郷里で開業されたと伺いました。では今は、青梅で?」
「はい、青梅署の嘱託警察医として勤めています」
話しながら吉村は、ゆったりと席に座った。
それを見て安本も席に着き、英二にも椅子を勧めてくれる。
英二は敬礼し、制帽を脱いで席に着いた。
茶が運ばれて、安本はひとくち啜る。
やや落着きが無いかな。そう眺めながら英二も、茶を啜った。
「宮田くんから伺いました、」
いつものように、吉村は静かに口を開いた。
「彼の射撃をご覧になって、声を掛けられたそうですね」
「…ええ、良い射撃姿勢だと思いまして」
安本の、話し出しの声が少し揺れた。
意外な展開に、安本は少し途惑っている。
新人の英二なら御しやすい、そう普通は考えるだろう。
けれど思いがけない吉村の出現に、途惑っている。
それに気付かぬふうに、おおどかな口調で吉村は話していく。
「射撃姿勢ですか、私はあまり見た事がないので、比較が出来ないのですが。そんなに良いのですか?」
「ええ。ああいう姿勢はまだ、一人しか見た事がありませんでした。だから驚いて」
「そんなに稀なのですか、私はよく解らなくて。それだけの稀を、どちらでご覧に?」
釣りこまれるように頷いて、安本が言った。
「先日の全国警察けん銃射撃競技大会です、あの日の優勝者はまだ卒配したての新人で…」
言いかけて、ふっと安本の声が止まった。
けれど穏やかに微笑んで、吉村は訊いた。
「新人の方とは素晴らしい。その方のお名前は?」
「…え、」
安本が一瞬詰まった。
それに気付かないふうで、吉村は英二に微笑みかける。
「新人という事は、宮田くんの同期ですね。お知り合いですか?」
そろそろどうかな?
そんなふうに吉村の瞳が穏やかに促してくれた。
吉村医師は取調官としても有能かもしれない、少し英二は可笑しかった。
「はい、」
短く返事して、そっと少しだけ息を吐く。
それから英二は安本を真直ぐに見て、きれいに笑った。
「湯原と私は同じ教場で、一番大切な男です」
安本が息を呑んだのが解った。
表情は保っても口許が固い、動揺が見てとれる。
吉村のお蔭で先手をとれた、そのまま英二は口を開いた。
「安本さん。私は、あなたに会うために来ました」
安本は息を呑んだまま、英二を凝視している。
真直ぐに安本の目を見て、英二は話し始めた。
「私は思ったことしか言えません。だから率直にお話しさせて頂きます」
「…はい、」
短く安本が答えた。
さっきより幾分は落着いたようだが、かすかに瞳が揺れている。
英二は明確に言った。
「安本さん。あなたは湯原に、周太に罪を犯させるつもりですか?」
「…どういう意味ですか?」
安本の瞳が大きく揺れる。
善意の塊のような瞳には、すこし残酷な言い方だと自分でも思う。
けれど躊躇している時では今はない。
「食中毒だなど。そんな見え透いた嘘こそが、彼を追い詰めるからです」
動揺が安本の顔を掠める。
きっと安本は何も解っていない、そして悪意もなかった。
だからと言って英二は、手加減するつもりはない。
「あなたは、彼を見くびりすぎている。その事が彼を誤らせるでしょう。何かあったら全部、あなたの責任です」
「…何を見くびっていると、」
「あなたが彼を、嘘で固めようとした事ですよ」
静かに、けれど叩きつけるように英二は言った。
「彼は純粋な男です、すぐ人を信じる。けれど聡明で怜悧です、嘘などすぐに見抜きます」
安本が黙りこくろうとする。
何か言いたくない、言い難い行動を隠している。
たぶん英二の予想通り、余計な根回しをしたのだろう。
迷惑だと腹が立つ。けれど英二は、穏やかに微笑んで言った。
「あの店から彼を遠ざけたい理由、私から言った方が良いですか?」
俯いたままの安本を見つめる。
そして、安本の口が開いた。
「…君はどこまで知っているんだ」
「そうですね、」
微笑んだままで、英二は一息に、ゆっくりと告げた。
「13年前に殉職した当時、周太の父親は警備部に所属していました。
あの日、彼に応援要請をして新宿へ招いたのは、同期である安本さんです。
あの時に、犯人を追跡したパートナーも、安本さんでした。
そして犯人逮捕をしたのも安本さんです。そのまま事件担当も、あなたになっている。
それから、検案所での遺体引き渡しも、安本さんでした。
犯人の刑事裁判では、あなたは情状酌量を申し出ています。
そして犯人は、死刑は免れ、懲役13年となった。
それから10年間ずっと。
新宿署刑事と機動隊派遣と所属が変わっても、あなたは新宿から離れずに勤務し続けている。
犯人の釈放は3年前です。その同時期に、安本さんは新宿を離れました。
釈放された3年前の日、犯人はあの店へと弟子入りしました。
そうして去年に主が亡くなって、今は彼が、あの店の主になっています」
英二が話す間、安本は黙って聴いていた。
隣の吉村は穏やかに、すこし褒めるような視線をくれながら、静かに聴いてくれていた。
「私が知っているのは、これでほぼ全部です」
微笑んで英二は、口を閉ざした。
安本の肩がかすかに震えている。きっと本当に意外だったのだろう。
卒業配置から1ヶ月1週間。
そういう周太なら、ベテランの自分には掌の上と思うだろう。
けれどこんなふうに、事実を羅列して突きつける人間が現われた。
それも周太と同じ、卒配されたての新人。
ベテランの自分が、そんな新人に暴かれて、驚きと悔しさが安本を覆っている。
同じ男で同じ警察官だから、その気持ちは英二にも解る。
かわいそうにも思う、けれど今は手加減なんて出来ない。多分時間が、あまりない。
追い詰めるなと思いながら、英二は言った。
「周太は13年間、ずっとこの事件を調べています」
大きく安本の目が開かれた。
きっと意外で、心底から驚き、怯えているのだろう。
安本の目には、周太は穏やかで優しい青年に映っている。
その通りだと思う、それが周太の本質だから。
けれどそれは甘すぎる。
周太は聡明で怜悧で優秀だ。そして優しいからこそ心を開かず、本心をきれいに隠してしまう。
そんな周太の心の底は、このお人好しな男では、数時間では見抜けない。
ややあって、苦しそうに安本が声を押し出した。
「…彼もこの全てを知っているのか?」
「いいえ、周太はまだ、ここまでは知りません。けれど」
ほっと英二はため息を吐いて、それから訊いた。
「最初の質問を繰り返します。安本さん、あなたは周太に罪を犯させるつもりですか?」
「君こそ、なぜそんなに調べる必要があるんだ?」
安本の目の底に怒りが掠める。
けれど英二は真直ぐ見詰めて、低く明確に言った。
「質問に答えて下さい、」
ベテランの安本の目が怯んだ。
きっと今、彼はショックだろう。新人にこんなふうに気押されて。
かわいそうだけれど、だって仕方無いと英二は思う。
だって、周太に対する想いの、強さも本気も違いすぎる。
この件に関しては、自分以上に真剣になれる人間が、いるわけがない。
全てを惜しまない気迫には、敵う人間などいない。
そういう余裕を、自分は自分で知っている。
たぶん今の自分の目は、拒絶して冷たい。
きれいな低い声を、英二は冷静に響かせた。
「私の理由は簡単で単純なことです、後回しでいい」
ゆっくりと安本の目が閉じる。視線の交錯に耐えられない、そんな疲労が漂った。
そろそろ話してくれるだろうか、やわらかく英二は微笑んだ。
「安本さん、あなたの行動は周太を追い詰め過ぎている。
それが悪意なのか善意の過ちなのか。私には知る権利があります。
だからお訊きします。あなたは罪を犯させたくて、嘘を吐いているのですか?」
安本の口が、苦しげに呟いた。
「違う。そんなつもりではなかった。私はただ、彼を守りたかった」
良かったと、英二は心で微笑んだ。
周太の父の友人に、悪意があるなど思いたくなかった。
けれど声は冷静なまま、はっきりと英二は言った。
「もし守るつもりなら、真実を告げるべきだった」
安本が唇を噛むのが見える。たぶん、自分の非を認め始めている。
このまま気づいてくれるといい。
すっと微笑んで、英二は続けた。
「安本さん。あなたは昨日、周太に余計な嘘を吐いた。
彼を守りたくて、事件から遠ざけたかったのでしょう。
けれど多分それは、逆にヒントを与える事になる。そうして彼を、追い詰めてしまうでしょう。
それを防ぐ必要があります。だから正直に教えてください。他に、周太に、何かしたのではありませんか?」
重たい安本の口が開いた。
「…昼に、誘うように、周りの人間に頼んだが」
やっぱりそんな事だと思った。英二は心で舌打ちをした。
あの店へ行かせないようにする。その一番単純な方法は、他の店へ行かせればいい。
けれどそんな事では、周太は直ぐに気づくだろう。
「昼に誘わせる、そんな見え透いた手を?」
ぼそっと言った英二の声は、自分で思った以上に冷たい。
けれど仕方ない、こんな邪魔のされ方はもうたくさんだ。
このくらいは怒りが零れたって仕方無い、だって自分はまだ若い未熟者だ。
そして解っていながら、やっている。
こんな卒配1ヶ月少しの自分に、こんな言い方をベテラン刑事がされたら。
普通なら我慢ならないだろう、そして上下関係を利用して、部屋から出て逃げればいい。
けれど今は、吉村が一緒に座っている。怒って部屋から出るなんて出来やしない。
ゆすぶられて動揺して恥を晒しても、こんな新人の前で暴かれるしかない。
吉村の気遣いは、こうして英二を救けてくれている。
そっと心で礼をいいながら、英二は畳みかける。
「周太は普段、ひとりで昼食を摂っています。
それが急に、続けて昼に誘われだしたら、当然、不思議に思うでしょう?
きっと彼の事です、不思議に思って、相手に理由を尋ねます。
まだ1度目は気づかない、あなたの善意だと素直に受ける。でも2度目できっと気づいて意図を知るでしょう」
どうしてと思う。
どうして本当に、善意なら正しいなど思っているのだろう。
こういう無神経な善意、無理解な善意、自己満足な善意。
それがいつも、周太の事を追い詰める。
純粋で人を疑えない、きれいな穏やかな周太の心。
けれど聡明で怜悧で、真直ぐな瞳で真実に気づいてしまう。
そうして気づかされた真実に、純粋な心が傷ついて孤独へ追い込まれていく。
やさしい嘘なんて、いらない。
(to be continued)
blogramランキング参加中!
にほんブログ村
にほんブログ村
黎風act2.追捕―side story「陽はまた昇る」
手続きを済ませて、射撃訓練場に入った。
与えられたブースに入ると、遮蔽された空間が集中力を作ってくれる。
こういうの久しぶりだな。
そんな事を思いながら、英二はイヤープロテクターを装着した。
ホルスターから拳銃を抜く。
シリンダーを開いて、装填された弾の雷管に傷が無いか確認する。
それから両手で拳銃を固定し、フロントサイトに意識を集中した。
これが基本の構え方になる。
遅撃ちの訓練から始まる。
遅撃ちは15秒に1発と余裕がある。そのぶん狙いを定めて撃つから精密射撃ともいう
一発撃つごとに、腕を45度下に向ける。そうして一旦、腕を休ませながら撃つ。
最初の6発を終えて、英二はシリンダーを開いた。
空薬莢を取出すと、スピードローダーで装填して閉じる
着弾結果は10点と9点が3:3だった。
久しぶりにしては良いのかな。そう思いながら今度は、両手撃ちのノンサイト射撃に構えた。
両手撃ちのまま、けれどフロントサイトはもう使わない。
両目で的を捕らえた視線上に、拳銃のサイトを突き出すように構える。
普通、ノンサイト射撃は近距離、10m位の場合に使う。
けれど周太は距離に関係なく、ノンサイト射撃の片手撃ちで的中させる。
それを真似して、英二もノンサイト射撃の練習をした。
着弾結果は10点と9点が3:3。サイトを使わなくても同じ結果だった。
シリンダーを片手で開いて、今度はバラ弾で装填する。
それからシリンダーチェックをして閉じた。
次の的が現われる準備が始まる。
そろそろ、やってみようかな。そう思いながら英二は、右足を少し前に出した。
背中を真直ぐに伸ばし、的へ向かって体をやや斜めにする。
英二の右腕だけがあがり、左掌は腰へ固定に置く。
片手撃ちのノンサイト射撃に、英二は構えた。
射撃の構えは、体格差による差異が出る。
けれど英二の構え方は、周太の構えそっくりだった。
要領のいい英二は、人を真似て身につける事が上手い。
だから今も、山では国村の真似をする。そして射撃は、周太の真似で身につけた。
両目の視線の集中が、的の一点へ向かう。
視線の上へと右腕を伸ばし、拳銃のサイトを突き出しておく。
引金を「霜が降りるがごとく」ひいた。
体を抜ける衝撃にも、随分と馴れ始めている。弾は10点を撃ち抜いていた。
ゆっくり45度に下げて、いったん右腕を休ませる。
本当は、周太と同じ進路を選びたかった。ずっと傍から離れたくなかった。
だから射撃も、周太の真似をした。
体格が全く違うけれど、英二は要領が良い。
自分に合った片手撃ちを、なんとか身につけた。
けれど、同じ進路は選べない。それは直ぐに気がついた。
能力は努力で補える。けれど、身長制限だけは、諦めざるを得なかった。
周太の進路はおそらくSAT、身長170cm前後の小柄が条件。
身長180cmの英二には、望めない場所だった。
武道も射撃も周太には敵わない。
進路も全く同じ場所では選べない。
けれど少しでも周太に近付けたら、役に立てるかもしれない。
そう思って努力した。
射撃はそれなりの適性があった。
結果と原因を分析する、そして対応を考える。
そうやって次には、同じ失敗をしなければいい。
そういう英二の要領の良さが、射撃の訓練を助けてくれた。
長い指と握力の強さは、片手撃ちには向いている。
長い腕はリーチがとれる、その分だけ的を捉えやすい。
細身で長身だけれど、筋肉質で体幹も背筋力も強いからブレ難い。
元から、握力も背筋力も、体幹バランスも良い方だった。
それを利用して、周太のトレーニングにつき合って、今の体力を身につけた。
そういう努力をしなかったら。奥多摩へ、山岳救助隊には配属されない。
そうして少しでも、周太を背負えるだけの、自分になりたかった。
2弾撃ち終わって、素早くシリンダーを開いた。
普通は両手でシリンダーの操作をする。けれど長い指は器用だから、片手で素早く作業が出来る。
開いている方の左手で、バラ弾の雷管をチェックしながら補充する。
遅撃ちは、標的出現の間隔が1回/15秒。その間なら2弾位は補充できる。
また右腕だけをあげて、ノンサイトで構え狙撃する。
装填に11秒、狙う時間は4秒だった。けれど的は10点が撃ち抜かれた。
撃つごとに、着弾の精度があがっていく。
発射の衝撃による、銃口の角度がブレる感覚。
衝撃を抜けさせるための力加減。引き金を引く強さ。
一発ごとに本当は、きちんと計算して撃っている。
遅撃ちが終わって、速撃ちの訓練に移る。
グリップを軽く持ち直した。遅撃ちと速撃ちではグリップの握り方を変える。
少しオープンな姿勢に構えも変えた。
ノンサイト射撃の片手撃ちで、このまま速撃ちもする。
速撃ちは、3秒間現われる標的を1発ずつ撃つ。
遅撃ちでは腕を下に向けて、いったん休ませることが出来る。
けれど速撃ちは3秒の間に1発。構え直す時間は無い、腕はあげたままになる。
発射の衝撃に、片腕で耐え続けられるだけの、筋力とバランスが必要だった。
5発続けて撃って2:2:1。1回8点になってしまった。
けれど、その8点は初弾。最後はちゃんと10点だった。
「半年でこれだけ出来たら立派だよ」
そんなふうに周太は褒めてくれる。
それなりの努力はもちろん積んだ。けれど周太とは努力の質が違う。
自分は骨格が大きく、筋肉質でバランス感覚もいい。
器用な指は長く、掌は大きい。
生まれつき恵まれていただけ。
周太の骨格は華奢で小柄だ。
それでも筋力と体幹を無理にも鍛え上げて、周太は身につけた。
けれど本来は、こんな操法に耐えられる体躯じゃない。
片手撃ちのノンサイト射撃。
周太には、どれだけの努力と無理が必要だったのか。
同じ操法を身につけた今、英二にはその努力が解ってしまう。
だからいつも、あの隣を真似た構えで撃つたび、切ない。
速撃ちも終わって、ブースを片付ける。
その英二の背中には、視線が刺さっていた。
片手撃ちノンサイト射撃に構えた時から、ずっと背中に視線を負っている。
周太を真似た構え方。
射撃指導員の安本ならば、直ぐに気がつくだろう。
そしてきっと声を掛けたくなる。
なぜ周太と同じ構えなのか。
それくらいは、同期か友人で教わったのだと推測できるだろう。
けれど。どうして、その男が自分の前に現われたのか。
それは訊かなければ解らない。だからきっと声を掛ける。
現われた目的、周太との関係。
それから13年前の事件と安本の関係。
それらをどこまで知って、何の目的の為に来たのか、きっと探るだろう。
きっと声を掛けられる。
そう思いながら出口の方へ、英二はゆっくり踵を返した。
「こんにちは、初めての方ですね」
50代の人の好い笑顔が、目の前に立っていた。
澤野の刑事課ファイルで見た、履歴書の写真と同じ顔。
感じていた視線と同じ目が、こちらを見て立っていた。
「はい、初めて伺いました」
微笑んで英二は答えた。
たぶん直ぐに質問されるだろう、そう思っていると安本が訊いた。
「なかなかの射撃操法でした。お名前を伺っても宜しいですか?」
ほらやっぱり訊かれた。微笑んで英二は安本を見た。
それから姿勢を正して、すっと英二は敬礼をした。
「青梅署所属の宮田です」
「宮田くんですね。武蔵野署の射撃指導員で安本と言います」
頷いて英二は微笑んだ。
安本も微笑みながら、英二に言った。
「業務がら、射撃に優れた方にはコツを、教えて頂きたいのです。宮田くんも是非、お話を訊かせて下さいませんか」
半年でこれだけ出来たら立派だよ。そんなふうに周太は言ってくれる。
本当にそうだなと、今はちょっと思えてしまう。
長い指と握力の強さは、片手撃ちには向いている。
長い腕はリーチがとれる、その分だけ的を狙いやすい。
細身で長身だけれど、背筋も体幹も強いお蔭でブレ難い。
そういう生まれつきに、自分は恵まれている。
だから思ってしまう、運命はきっと自分の味方だろう。
きれいに長身の体を傾けて礼をする。
それから顔あげて、真直ぐに安本の目を見て、英二は微笑んだ。
「はい。こちらこそ教えてください」
同行の方に声を掛けてきますと言って、いったん安本と別れた。
まだ訓練を続ける澤野へは、担当官にお願いして伝言を残す。
それから英二はロビーへ向かった。
ロビーをぐるっと見回して、自販機を探す。
青梅署のように自販機の傍で、吉村はゆっくりコーヒーを啜っていた。
英二に気がつくと、穏やかに微笑んだ。
「彼に、会えたんだね」
「はい、」
短く答えて、英二は微笑んだ。
「では、面会の申し入れは必要ないですね」
そう言って吉村は立ちあがり、微笑んで英二に言った。
「待ち合わせ場所へ、行きましょう」
「はい、」
ふたり並んで歩きはじめる。
吉村の方が英二より背が低い。けれど背中は大きくて、温かな空気に充ちている。
こんな背中の人が、奥多摩には多い。
岩崎も、あの田中も、それから後藤。穏やかで温かな背中を、みんな持っている。
自分もこんなふうになれたらいい。そう思いながら英二は歩いていった。
安本は小さな会議室で待っていた。
一緒に入ってきた吉村を見、安本は驚いて立ちあがった。
「医科大付属の、吉村先生ですか?」
「はい、お久しぶりです。お元気そうですね」
ええと答えながら、安本は英二と吉村を交互に見ている。
いきなりのカウンターを喰らわせたかな。そう思いながら英二は眺めていた。
なぜここに吉村がと言いたげな安本に、穏やかに吉村は微笑んだ。
「こちらの警察医の方へ、資料を届ける用がありました。それで宮田くん達の車に便乗して、お邪魔しています」
「吉村先生は、ご郷里で開業されたと伺いました。では今は、青梅で?」
「はい、青梅署の嘱託警察医として勤めています」
話しながら吉村は、ゆったりと席に座った。
それを見て安本も席に着き、英二にも椅子を勧めてくれる。
英二は敬礼し、制帽を脱いで席に着いた。
茶が運ばれて、安本はひとくち啜る。
やや落着きが無いかな。そう眺めながら英二も、茶を啜った。
「宮田くんから伺いました、」
いつものように、吉村は静かに口を開いた。
「彼の射撃をご覧になって、声を掛けられたそうですね」
「…ええ、良い射撃姿勢だと思いまして」
安本の、話し出しの声が少し揺れた。
意外な展開に、安本は少し途惑っている。
新人の英二なら御しやすい、そう普通は考えるだろう。
けれど思いがけない吉村の出現に、途惑っている。
それに気付かぬふうに、おおどかな口調で吉村は話していく。
「射撃姿勢ですか、私はあまり見た事がないので、比較が出来ないのですが。そんなに良いのですか?」
「ええ。ああいう姿勢はまだ、一人しか見た事がありませんでした。だから驚いて」
「そんなに稀なのですか、私はよく解らなくて。それだけの稀を、どちらでご覧に?」
釣りこまれるように頷いて、安本が言った。
「先日の全国警察けん銃射撃競技大会です、あの日の優勝者はまだ卒配したての新人で…」
言いかけて、ふっと安本の声が止まった。
けれど穏やかに微笑んで、吉村は訊いた。
「新人の方とは素晴らしい。その方のお名前は?」
「…え、」
安本が一瞬詰まった。
それに気付かないふうで、吉村は英二に微笑みかける。
「新人という事は、宮田くんの同期ですね。お知り合いですか?」
そろそろどうかな?
そんなふうに吉村の瞳が穏やかに促してくれた。
吉村医師は取調官としても有能かもしれない、少し英二は可笑しかった。
「はい、」
短く返事して、そっと少しだけ息を吐く。
それから英二は安本を真直ぐに見て、きれいに笑った。
「湯原と私は同じ教場で、一番大切な男です」
安本が息を呑んだのが解った。
表情は保っても口許が固い、動揺が見てとれる。
吉村のお蔭で先手をとれた、そのまま英二は口を開いた。
「安本さん。私は、あなたに会うために来ました」
安本は息を呑んだまま、英二を凝視している。
真直ぐに安本の目を見て、英二は話し始めた。
「私は思ったことしか言えません。だから率直にお話しさせて頂きます」
「…はい、」
短く安本が答えた。
さっきより幾分は落着いたようだが、かすかに瞳が揺れている。
英二は明確に言った。
「安本さん。あなたは湯原に、周太に罪を犯させるつもりですか?」
「…どういう意味ですか?」
安本の瞳が大きく揺れる。
善意の塊のような瞳には、すこし残酷な言い方だと自分でも思う。
けれど躊躇している時では今はない。
「食中毒だなど。そんな見え透いた嘘こそが、彼を追い詰めるからです」
動揺が安本の顔を掠める。
きっと安本は何も解っていない、そして悪意もなかった。
だからと言って英二は、手加減するつもりはない。
「あなたは、彼を見くびりすぎている。その事が彼を誤らせるでしょう。何かあったら全部、あなたの責任です」
「…何を見くびっていると、」
「あなたが彼を、嘘で固めようとした事ですよ」
静かに、けれど叩きつけるように英二は言った。
「彼は純粋な男です、すぐ人を信じる。けれど聡明で怜悧です、嘘などすぐに見抜きます」
安本が黙りこくろうとする。
何か言いたくない、言い難い行動を隠している。
たぶん英二の予想通り、余計な根回しをしたのだろう。
迷惑だと腹が立つ。けれど英二は、穏やかに微笑んで言った。
「あの店から彼を遠ざけたい理由、私から言った方が良いですか?」
俯いたままの安本を見つめる。
そして、安本の口が開いた。
「…君はどこまで知っているんだ」
「そうですね、」
微笑んだままで、英二は一息に、ゆっくりと告げた。
「13年前に殉職した当時、周太の父親は警備部に所属していました。
あの日、彼に応援要請をして新宿へ招いたのは、同期である安本さんです。
あの時に、犯人を追跡したパートナーも、安本さんでした。
そして犯人逮捕をしたのも安本さんです。そのまま事件担当も、あなたになっている。
それから、検案所での遺体引き渡しも、安本さんでした。
犯人の刑事裁判では、あなたは情状酌量を申し出ています。
そして犯人は、死刑は免れ、懲役13年となった。
それから10年間ずっと。
新宿署刑事と機動隊派遣と所属が変わっても、あなたは新宿から離れずに勤務し続けている。
犯人の釈放は3年前です。その同時期に、安本さんは新宿を離れました。
釈放された3年前の日、犯人はあの店へと弟子入りしました。
そうして去年に主が亡くなって、今は彼が、あの店の主になっています」
英二が話す間、安本は黙って聴いていた。
隣の吉村は穏やかに、すこし褒めるような視線をくれながら、静かに聴いてくれていた。
「私が知っているのは、これでほぼ全部です」
微笑んで英二は、口を閉ざした。
安本の肩がかすかに震えている。きっと本当に意外だったのだろう。
卒業配置から1ヶ月1週間。
そういう周太なら、ベテランの自分には掌の上と思うだろう。
けれどこんなふうに、事実を羅列して突きつける人間が現われた。
それも周太と同じ、卒配されたての新人。
ベテランの自分が、そんな新人に暴かれて、驚きと悔しさが安本を覆っている。
同じ男で同じ警察官だから、その気持ちは英二にも解る。
かわいそうにも思う、けれど今は手加減なんて出来ない。多分時間が、あまりない。
追い詰めるなと思いながら、英二は言った。
「周太は13年間、ずっとこの事件を調べています」
大きく安本の目が開かれた。
きっと意外で、心底から驚き、怯えているのだろう。
安本の目には、周太は穏やかで優しい青年に映っている。
その通りだと思う、それが周太の本質だから。
けれどそれは甘すぎる。
周太は聡明で怜悧で優秀だ。そして優しいからこそ心を開かず、本心をきれいに隠してしまう。
そんな周太の心の底は、このお人好しな男では、数時間では見抜けない。
ややあって、苦しそうに安本が声を押し出した。
「…彼もこの全てを知っているのか?」
「いいえ、周太はまだ、ここまでは知りません。けれど」
ほっと英二はため息を吐いて、それから訊いた。
「最初の質問を繰り返します。安本さん、あなたは周太に罪を犯させるつもりですか?」
「君こそ、なぜそんなに調べる必要があるんだ?」
安本の目の底に怒りが掠める。
けれど英二は真直ぐ見詰めて、低く明確に言った。
「質問に答えて下さい、」
ベテランの安本の目が怯んだ。
きっと今、彼はショックだろう。新人にこんなふうに気押されて。
かわいそうだけれど、だって仕方無いと英二は思う。
だって、周太に対する想いの、強さも本気も違いすぎる。
この件に関しては、自分以上に真剣になれる人間が、いるわけがない。
全てを惜しまない気迫には、敵う人間などいない。
そういう余裕を、自分は自分で知っている。
たぶん今の自分の目は、拒絶して冷たい。
きれいな低い声を、英二は冷静に響かせた。
「私の理由は簡単で単純なことです、後回しでいい」
ゆっくりと安本の目が閉じる。視線の交錯に耐えられない、そんな疲労が漂った。
そろそろ話してくれるだろうか、やわらかく英二は微笑んだ。
「安本さん、あなたの行動は周太を追い詰め過ぎている。
それが悪意なのか善意の過ちなのか。私には知る権利があります。
だからお訊きします。あなたは罪を犯させたくて、嘘を吐いているのですか?」
安本の口が、苦しげに呟いた。
「違う。そんなつもりではなかった。私はただ、彼を守りたかった」
良かったと、英二は心で微笑んだ。
周太の父の友人に、悪意があるなど思いたくなかった。
けれど声は冷静なまま、はっきりと英二は言った。
「もし守るつもりなら、真実を告げるべきだった」
安本が唇を噛むのが見える。たぶん、自分の非を認め始めている。
このまま気づいてくれるといい。
すっと微笑んで、英二は続けた。
「安本さん。あなたは昨日、周太に余計な嘘を吐いた。
彼を守りたくて、事件から遠ざけたかったのでしょう。
けれど多分それは、逆にヒントを与える事になる。そうして彼を、追い詰めてしまうでしょう。
それを防ぐ必要があります。だから正直に教えてください。他に、周太に、何かしたのではありませんか?」
重たい安本の口が開いた。
「…昼に、誘うように、周りの人間に頼んだが」
やっぱりそんな事だと思った。英二は心で舌打ちをした。
あの店へ行かせないようにする。その一番単純な方法は、他の店へ行かせればいい。
けれどそんな事では、周太は直ぐに気づくだろう。
「昼に誘わせる、そんな見え透いた手を?」
ぼそっと言った英二の声は、自分で思った以上に冷たい。
けれど仕方ない、こんな邪魔のされ方はもうたくさんだ。
このくらいは怒りが零れたって仕方無い、だって自分はまだ若い未熟者だ。
そして解っていながら、やっている。
こんな卒配1ヶ月少しの自分に、こんな言い方をベテラン刑事がされたら。
普通なら我慢ならないだろう、そして上下関係を利用して、部屋から出て逃げればいい。
けれど今は、吉村が一緒に座っている。怒って部屋から出るなんて出来やしない。
ゆすぶられて動揺して恥を晒しても、こんな新人の前で暴かれるしかない。
吉村の気遣いは、こうして英二を救けてくれている。
そっと心で礼をいいながら、英二は畳みかける。
「周太は普段、ひとりで昼食を摂っています。
それが急に、続けて昼に誘われだしたら、当然、不思議に思うでしょう?
きっと彼の事です、不思議に思って、相手に理由を尋ねます。
まだ1度目は気づかない、あなたの善意だと素直に受ける。でも2度目できっと気づいて意図を知るでしょう」
どうしてと思う。
どうして本当に、善意なら正しいなど思っているのだろう。
こういう無神経な善意、無理解な善意、自己満足な善意。
それがいつも、周太の事を追い詰める。
純粋で人を疑えない、きれいな穏やかな周太の心。
けれど聡明で怜悧で、真直ぐな瞳で真実に気づいてしまう。
そうして気づかされた真実に、純粋な心が傷ついて孤独へ追い込まれていく。
やさしい嘘なんて、いらない。
(to be continued)
blogramランキング参加中!
にほんブログ村
にほんブログ村