萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第44話 峰桜act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-05-30 23:02:14 | 陽はまた昇るside story
最高峰、この想い映しとって



第44話 峰桜act.3―side story「陽はまた昇る」

御岳で美代と別れて青梅線に乗り、21時半ごろ河辺へ戻ってきた。
改札をぬけて通りに出て、周太と国村が話す後ろすこし離れて歩いていく。
街路樹から山から、芽生えの緑薫る夜風が心地いい。
ぼんやりと歩く道すぐにビジネスホテルに着いて、寮に戻る国村に周太は微笑んだ。

「光一。今日は、ありがとうね?…明日は俺、美代さんと水源林に行ったあと、駐在所に向かえばいい?」
「いいよ?明日はね、白妙橋でルートクライミングしようと思うんだけどさ。それでいい?」

楽しげなテノールの声が明日の自主訓練に周太を誘ってくれる。
うれしそうに周太も頷いて微笑んだ。

「ん、よろしくね?…じゃあ、おやすみなさい、光一」
「おやすみ、周太、」

底抜けに明るい目が温かに笑んで、そっと長身が屈みこむ。
そのまま国村は周太の耳元にキスをした。

「お休みのキスだよ、周太?」

テノールの声が幸せそうに笑っている。
キスふれた耳元まで赤くなりながら、周太は困ったように、けれど優しく微笑んだ。

「ん、…ありがとう、光一、」
「こっちこそ、キスさせてくれて、ありがとね?」

黒目がちの瞳に無垢な目が幸せに笑いかけている。
こんなふうに、子供のまま純粋な初恋を交わす姿を見ても、自分は嫉妬しなくなった。
それはたぶん、この初恋が「人間」の範疇ではないと想い始めた所為かもしれない。

…俺にとっては周太、ホントは男でも女でも無いから…『人間』って言うこともさ、結局は人間の決めたことだろ?だから、違う

谷川岳の雪洞で国村が教えてくれた周太への想い。
あのとき自分は「結晶のような恋愛だ」と感じ、山の秘密に関わるのだろうと思えた。
きっと一介の山ヤである自分が踏みこんではいけない、そんなふうに想えたことが今、尚更に確信させられる。
もう今は、国村の恋愛対象になった自分との比較ができるから、確信出来てしてしまう。

いつも国村は、周太には宝物ふれるよう体にも無闇に触れない。キスも耳元の決った所にだけふれる。
けれど英二に対して国村は、遠慮なく「恋愛」の触れ合いを求めてしまう。
畏敬への愛と憧憬が織りなす恋と、人間感情の求め合う恋愛。全く違う色彩の想いだからこそ、同時に国村は抱いている。
このことについて、周太と国村は既に話をしているだろう。その内容が本音、ずっと気になっているのに聴けない。

「宮田、明日は7時半に、おまえの部屋で良い?」

透明なテノールの問いかけに英二は我に返った。
呼びかけに親友で同僚の顔を見ると、いつもの底抜けに明るい目が笑ってくれる。
なにか切ない想いに見つめた英二に、大らかな細い目は温かに笑んだ。

「どうした?7時半じゃダメ?」
「いや、…大丈夫だよ、」

気を戻して英二が頷くと、すこし安心したよう国村も笑ってくれた。
かすかに密やかな心を見つめながら、英二も笑いかけた。

「7時半には制服に着替えて、寮の部屋にいるな、」
「着替え中、でイイよ?朝の眼福タイムをしたいからさ、よろしくね?」

飄々と笑って国村はエロオヤジトークをしてくる。
こんな「いつもどおり」の笑顔に心が軋んで、本音のまま英二は周太に許しを尋ねた。

「ごめん周太、俺、今日やっておくことを忘れてきた。一旦寮に戻ってきてもいいかな?」

提案に、黒目がちの瞳が真直ぐ見あげてくれる。
きっと、この優しい瞳は気づくだろうな?そんな信頼と痛みに微笑んだ英二に、おだやかな声が言ってくれた。

「ん、行ってきて?…焦らなくていいけど、待っているから。安心してね?」

ちゃんと待ってる、受けとめるよ?
こんな優しい強さに恋人は、大らかに微笑んでくれている。この恋人の優しい気遣いが切なくて愛しい。
いつのまに周太は、こんなに大人になったのだろう?まぶしく見つめながら英二はきれいに笑いかけた。

「うん。ありがとう、周太、」
「ん。そのかわり、後でいっぱい、わがまま言うからね?」

わがまま楽しみです。
そんな内心の声はまるきり恋の奴隷、そんな自分は幸せだと思う。
そして今から僅かな時間でも、ひとり幸せにしたい相手と向き合いに歩く。
この願いに想い重ねてくれる背中をホテルのフロントへ見送って、英二は隣に笑いかけた。

「行こ?国村、」

笑いかけて英二は、ミリタリージャケットの裾を翻した。
黒い裾を夜風に舞わせ歩き出すとすぐ、白い掌が英二の腕を掴んだ。

「待てよ、宮田?」

透明なテノールの呼びかけに、英二は足を止めた。
すこし首傾げて見つめた先で、国村は口を開いた。

「どうして嘘、つくんだよ?」
「嘘なんか、ついていないけど、」

すこし微笑んで、英二は正直に答えた。
けれど透明な目は真直ぐ英二を見つめて、言ってくれた。

「忘れモンなんか、無いんだろ?俺に遠慮して、気遣ってるだけだろ?…そういうの嫌だ、俺は、本音だけしかいらない」

誇り高い自由の目が見つめて、想い告げてくれる。
同情なんかいらない、気遣いも遠慮も欲しくない。正直な本音だけ欲しい。
そんな誇らかな恋愛が、見つめてくる無垢の瞳にまばゆい。

―きれいだな、

まばゆい想い見つめる心に、素直な感覚がひとつノックする。
こんな目をする相手だから自分は親友になって、ザイルパートナーにもなった。
大好きな友人に笑いかけて、英二は正直に答えた。

「国村を寮まで送ること、これが忘れ物だけど?」
「…なんだよ、それ、」

テノールの声がすこし怒ったよう呟いた。
けれど英二は素直な想いのまま友人に笑いかけた。

「俺が、国村のこと送りたいだけ。大切な親友を大事にしたって、別に良いだろ?ほら、」

きれいに笑って英二は、Gジャンの腕を掴むと歩き始めた。
ひっぱられるまま歩き始めた友人は、それでも声を英二に投げかけた。

「周太との時間、おまえ、楽しみにしていたじゃないか?なのにさあ、俺に構っているんじゃないよ、時間が勿体ないだろ?」

透明なテノールの語尾に「さあ」が付く、これは機嫌が悪い時の癖。
けれど、不機嫌には途惑いも喜びも隠されていると解っているから、止めない。
ちいさな覚悟と歩きながら英二は、隣をふり向いた。

「俺の時間だよ?俺の自由に使ってなにが悪い、おまえが勝手に決めるなよ、」
「だって、」

短く言って、秀麗な貌に途惑いがうかびあがる。
それでも真直ぐ英二を見つめたままで、国村は率直に言ってくれた。

「こんなこと、されたらさあ?俺、期待しちゃうから…やめろ、よ……ね…残酷だって、わかんないの?」

透明な目から、涙ひとつ零れ落ちた。

「周太との時間より、俺を選ばれたら、さあ?俺…勘違いしちゃうだろ…変な期待するの、周太のこと裏切るみたいで嫌だ。
あのひと裏切るなんて辛いよ、痛い…よ?俺ほんとは罪悪感あって…でも周太が赦してくれたから、おまえを好きでいられる、のに…さ、」

美しい顔に、また涙が軌跡を描きだす。
きらめく涙を街燈に見せながら、透明なテノールが泣き出した。

「ほんとに俺…初めてなんだよ?こんなに傍にいたい人間、おまえが初めてなんだ…だから一番でいたい、嫌なんだよ、二番は。
恋人の一番がダメなら、親友の一番でいさせてよ?だから煽るなよ?変な期待させるなよ?…いちばんの親友のまま一緒にいてよ、
そう、俺、言っただろ?なのに、なんでだよ…俺のこと、なんだって思ってんだよ?こんな追い詰めてさあ…こんな泣かせるんじゃないよ、」

涙こぼしながら国村は、掴まれた腕を振りほどこうとする。
けれど掴んだまま離さずに、英二は隣に微笑んだ。

「どうせ泣くつもりだった癖に、」

そのつもりだったろ?目で訊いた先で薄紅の唇が吐息こぼした。

「…なぜ、」

濡れた無垢の眼差しが英二を見つめてくれる。
すこし驚いたような目が子供みたいで、そっと掌で涙拭ってやりながら愛しさに笑いかけた。

「俺たちと別れたら、歩きながら泣くつもりだったよな。それなら独りで泣くより、一緒にいて泣く方が楽だろ?」

きっと、国村は泣く。幸せに笑いながら泣く。

今夜、周太と英二ふたりが幸せな時間と同じ時、国村はひとり時間を見つめることになる。
そうした時間も誇り高い山っ子は、哀しみすら向き合って笑おうとするだろう。
誇らかな無欲と無垢、この透明な心のままに自分の幸せを抱きしめて笑って、そして泣く。

…国村くんは、大切なひとを次々失ってきました。だから彼は、大好きなひとが生きて傍にいる、それだけで満足なんです
 無欲で無垢な彼は、今、掌に与えられたものを大切にして、満足することを知っています

吉村医師が英二に教えてくれた、国村の透明な心の由縁。
この心が真直ぐ辿ってきた軌跡が、愛しい。愛しいだけ孤独と寂寥を抱かせることが辛い、だから少しでも楽にしてやりたい。
だから今、泣くのなら傍にいたいと願ってしまった。その本音のまま正直に今、隣にいる。

「おまえを独りで泣かせるの、俺が嫌なだけなんだ。一緒にいる方が俺が楽だから、一緒にいるだけ。その方が、おまえも楽だよな?」

思ったとおり、したいとおりを正直に言って英二は微笑んだ。
俺は正直にいるよ?そう見つめた想いの真中で、長い睫の涙はこぼれおちた。

「…そうだけど、だからって…期待させるようなこと、すんな、」

素直な言葉と素っ気ない言葉を、ふるえるテノールが口にする。
誇らかな国村らしい涙と怒りに微笑んで、英二は無垢な瞳を覗きこんだ。

「こんなの狡いかもな?でも、おまえのこと大切にしたい、って本音がさ。おまえと一緒にいたいって、今歩いてるんだ、」
「ほんと?…」

ちいさなテノールが短く尋ねる。
無垢な瞳がひとつ瞬いて、テノールは想いを続けた。

「大切にしたい、一緒にいたい、って…ほんとに本音か?それで今、ここにいるのか?」
「うん、ほんとだよ?」

答えながら、そっと掴んだ腕をひっぱり歩き出す。
ひかれるまま素直に歩き出す友人に、想うままを英二は笑いかけた。

「おまえは、唯ひとりの親友だよ。恋人とは違う、でも、大切だから一緒にいたい。それが俺の本音、」

透明に無垢な瞳が、涙の底から英二を見る。
こんな目で自分を見つめられる事は初めてで、切なくて愛しいと思っている自分がいる。
こんな想いに理屈も倫理もない。ただ誤魔化しようがない想いだけが自分を見つめてしまう。
この想いが素直に願いを告げる「傍にいたい、」この願いだけは、きっと互いに一緒だろう。

…親友のままでも、傍にいていいんだ。生きて笑って、傍にいてあげればいい。
 君が想う通りに、正直な心のまま隣にいればいい。

吉村医師がくれた「肯定」に、自分は狡いほどの正直を選んでしまう。
ほんとうは直情的で思ったことしか言えない出来ない自分だから、残酷と言われても仕方ない。
こんな開き直りに英二は、綺麗に友人へと微笑んだ。

「堅物で真面目な俺はね、ほんとうに直情的で、嘘とか苦手だから、きっと残酷だとも思うよ?
そんな俺の本音が、おまえと一緒にいたいって願ってる。おまえのこと、今みたいにまた、傷つけるかもしれない。
けれど、その傷の責任も俺がとれるとも思ってる。生涯ずっとアンザイレンして傍にいるから、そういうチャンスもあるだろ?」

こんなに自分は身勝手に、おまえと一緒にいたいんだよ?
想い正直に笑った英二に、細い無垢な瞳がすこし笑ってくれた。

「俺のこと、傷つけても一緒にいたいワケ?」
「うん、一緒にいたい。おまえといると楽しいし、大切なんだ、これでも、」

率直に想い告げて笑いかけてしまう。
そんな英二を見つめる秀麗な貌が困ったよう、けれど温かに微笑んでくれた。

「そこまでして一緒にいたいなんて、そんなに俺のこと、愛しちゃってるワケ?」

Yes、って言ってよ?
透明な目が告げる想いの本音に、英二はきれいに笑った。

「うん、愛してるな。でなかったら、傷つけても一緒にいたいなんて、想えないだろ?ザイルで命まで繋ぐんだしさ、」

これは自分の本音。
周太への想いと違うけれど、これも自分の愛する想い。
周太への優しい想いとは違う、もっと身勝手で、けれど信頼は堅くて。どんな危険すら共に笑ってしまえる、そんな絆が深い。
それは国村も、きっと同じ想いを抱いている。ただ「恋愛」が英二に欠けているだけで他はすべて重なるはず。
そんな信頼に見つめた先で、唯一のザイルパートナーは愉しげに笑ってくれた。

「だね?俺たち、ザイルで命もプライドも、人生まで繋いでるね…愛が無い相手とは、ちょっと出来ないよね?」
「うん、出来ないよ。愛してるから今も、一緒にいたいんだろな?」

思ったままを口にして笑う英二を、無垢の瞳が見つめてくれる。
ほっと溜息こぼして透明なテノールが、可笑しそうに笑ってくれた。

「悪い男だね、おまえって。マジ危険な別嬪、この俺を、こんなに泣かせるなんてね。どう責任取ってくれるワケ?」
「責任、取ってほしい?」

笑って訊きかえした英二を、無垢な瞳が笑ってくれる。
白い掌で涙ぬぐいながら、国村は愉快に笑って言った。

「こんなふうに泣くコトは俺、初体験なんだよ?俺のお初を捧げちゃったんだからね、責任キッチリとってよ、」

こんな時にまで得意のエロトーク混じりに明るくなれる、この友人が楽しくて英二は笑った。
ずいぶんと色っぽい言い回し、けれど今は相応しい。そんな想いに英二も合わせて応えた。

「初体験を頂いた責任、ってこと?」
「そ、俺の、初・体・験。さ、こんなに可愛い山っ子の俺を、コンナにしちゃった責任、キッチリとってよね?」

笑いあいながら独身寮への階段を上がって、扉を開く。
まだ人の往来がある廊下を通って、ときおり挨拶して、個室エリアに辿り着く。
そうして国村の部屋の前に来て、白い指が開いた扉に英二は迷わず入った。

「…なに、おまえ?なに、一緒に部屋に入っちゃってるワケ?」

テノールが呆れたよう訊いてくれる。
部屋の前で別れると思っていたのに?そんなふうに驚いた目が見つめてくれる。
そんなに意外だったのかな?英二は笑いかけ見つめ返して「ワケ」の答えを告げた。

「初体験の責任、とるんだろ?」

告げた答えのまま近寄せて、英二はザイルパートナーにキスをした。
ふれるだけのキス、すぐに離れてしまう。けれど温もりの残像のこして英二はきれいに笑った。

「おやすみのキスだよ。いい夢、見られそう?」

キスふれた唇が驚いたまま、雪白の頬に桜いろ咲いていく。
秀麗な貌が桜のいろに華やいでいく、友人のこんな貌を英二は初めて見た。
きれいだな?素直に見惚れて微笑んだ英二に、薄紅の唇が問いかけた。

「…これが、責任の取り方なワケ?」

透明なテノールが途惑い、ふるえている。
ふるえる声も眼差しも初々しい、さっき初体験だと言った言葉が尚更相応しいと想えてしまう。
けれど、この友人がこんな反応をすることが意外で、感じたままに英二は笑いかけた。

「うん、いい夢で笑って貰おうって思ってさ。おまえ今、顔が赤いけど。もしかして恥ずかしがってる?」
「当たり前だろ、ばか…」

ふるえるテノールの声が小さく怒っている。
それでも微かな幸せふくんだ声は、途惑うまま本音を告げてくれた。

「されるの、って、慣れていないんだからね、俺…周りが思ってるほど俺、エロで遊んじゃいない。ずっと、山ばっかりだから、」

桜いろの貌が困ったよう溜息に微笑んで、隠せない途惑いに見つめてくれる。
すこし唇かむようにして、けれど底抜けに明るい目は笑ってくれた。

「マジ、おまえの笑顔って反則だね?おかげで、いい夢が見られるんじゃない?」
「それなら良かったよ、」

笑って英二は部屋の扉開いて、廊下に出ながら振り返った。

「おやすみ、国村。また明日な、」
「うん、また明日。おやすみ、」

すこし寂しげでも幸せな笑顔みせて、国村は扉を閉めた。



チェックインして扉を開けると、室内は鎮まっている。
ジャケットを脱ぎながら見渡した部屋のなか、ソファで周太は眠りこんでいた。
そっと覗きこんだ寝顔は幸せに微笑んで、開いたままの青い本を抑える手は白いシャツの袖が長い。
愛しい寝顔の額にキスすると、ふわり石鹸の香が頬撫でた。

「…周太、疲れたよね、今日は、」

深い眠りの恋人に笑いかけて、やわらかに小柄な体を抱き上げた。
安らかな寝息を聴きながら運んで、静かにベッドに横たえ白いブランケットで包みこむ。
すこしだけ髪をゆらし微笑んで、気持ち良さげな寝顔は安らいだ。

「かわいいね、周太は、」

愛しくて堪らない宝物に笑いかけて、英二は浴室の扉を開いた。
着ていた物を脱ぎ去って、シャワーの栓を開き湯がふりそそぐ。
頭から湯をかぶりながら顔をあげて、ふる温度へと英二は微笑んだ。

「…ごめん、国村、」

仕方のないこと、この「想い」というものは。
けれど今きっと、ひとりの時間を見つめている親友の心が切ない。
それでも自分はこれから、愛する婚約者との幸せな恋人の時を過ごしてしまう。
こんな自分は、罪深い。そんな自責も心に軋みあげる。
こんなこと自分だって、慣れていない。ふたりも大切なひとが居たことなんて、無いから。

「心まで、こんなに求められる、なんて…無かったのに、」

ずっと自分は「体」ばかり求められてきた。
ずっとただ「美しい人形」だった自分だから、この心を求められる歓びが温かい。
この心を本気で求めてくれたのは、周太が初めてだった。求められ幸せで嬉しくて、唯ひとりの相手と見つめて約束を繋いだ。
唯ひとり、ずっとそう思っていた。そんな想いの日々に、他の意味に唯ひとりとして国村に出逢った。
唯ひとりの親友でザイルパートナー、この絆を結べたことが嬉しかった。男として生まれたら望みたい相手だと幸せで。
そんな相手といま、キスを交わすようになっている。こんな想いの交錯が不思議で、けれどごく自然だった。
この交錯を明日からは、どんな想いに見つめることになるだろう?

「正直でいればいい…それだけ、だよな」

温められた湯に微笑んで、英二は栓をとめた。
全身から石鹸の香が昇ってくる水気を拭い、白いシャツとコットンパンツに肌を隠す。
濡れた髪を拭きながら扉開いて、部屋におりると英二はコーヒーを淹れた。
マグカップを持ってソファに座ったとき、ベッドで身じろぎの気配がうまれた。

「…ん、…」

ちいさな吐息に立ち上がって、白いリネン埋もれる寝顔を覗きこむ。
起きてくれるのかな?そう見つめた先で、ゆるやかに長い睫が披いてくれた。

「…えいじ?」

まだ眠たそうな声で名前呼んで、幸せそうな微笑みが見つめてくれる。
大好きな笑顔に心ゆるめられてしまう、長い腕伸ばし抱きしめると白いシャツの肩に顔をうずめた。

「英二?…どうしたの?」

優しい声に、涙さそわれて白いシャツの肩を濡らしていく。
そのまま涙と嗚咽がこぼれて、英二は愛するひとの体に縋るよう抱きしめた。
ただ涙あふれていく、自分でも理由も解からない、なぜ涙があふれてしまうのだろう?

「ん、…大丈夫だよ、英二?」

おだやかな声が、涙の隣から微笑んだ。
この声に心がまた緩められてしまう、安らぎのまま涙あふれ止まらなくなる、自分で涙が解からない。
解からないまま涙ふるえる肩を、やさしい温かな腕が抱きしめてくれた。

「俺がいるから、だいじょうぶ…好きなだけ泣いて?」

なぜ君は、そんなに、やさしいの?

やさしい声と温もりに縋りついて、英二は泣いた。
こんなに泣くほど今、本当は不安で哀しくて、この温かい懐に縋りつかせて欲しくなる。
自分よりずっと小柄な周太、けれど懐は広やかに深い優しさが温かい。

「…っ、う…っ、…」

嗚咽が自分の鼓動をうって、ふるえる胸から涙あふれだす。
おだやかで爽やかな香に包まれるまま、溶かされていく哀しみが涙に変わる。
こんなふうに周太に抱きしめられて泣くのは、田中が亡くなったとき以来のこと。
あれから自分は強くなったと思っていた、また自分がこんなふうに泣くなんて、思っていなかった。

―あたたかい、

ただ涙あふれ、ただ受けとめられていく。
この温もりが幸せで、ゆるまり安らぐ心が寛がされていく。
ようやく傷みのこわばり解かれて、英二の唇から名前がこぼれた。

「…周太、」

「ん…?」

涙のはざま呼んだ名前に、おだやかなトーンが微笑んでくれる。
大好きな声が嬉しいままに英二は顔を上げた。

「ただいま、周太…俺のこと、待っててくれた?」
「ん、待ってたよ?…英二、」

問いかけに微笑んで、掌で頬を包みこんでくれる。
ゆるやかに掌導いてくれるまま近寄せた英二に、やさしい唇がキスをしてくれた。

「おかえりなさい、英二?」

やわらかな笑顔が恋人の顔に咲いてくれる。
ふれてくれたキスの温もりと幸せを追いたくて、英二は周太を抱きしめ唇を重ねた。



深夜0時、馬返し駐車場から歩き出す。
その頭上から、ふわりピッケル持ったグローブの手に花が舞いふった。

「あれ、富士桜だね。どっから飛んできたのかな、」

透明なテノールが楽しげに花の名を呼んで、グローブ外し指につまんでくれる。
英二もグローブを外すと花を受けとって、博学なザイルパートナに訊いた。

「富士桜、ってこの辺りの桜なんだ?」
「うん、山桜の一種なんだけどね、豆桜っても言うんだ。小振りの花が清楚で可愛いだろ?この花、周太のお土産にしてやりなよ、」

大切な初恋相手の名前を呼んで、底抜けに明るい目が幸せに笑っている。
この薦めに素直に従って、英二は胸ポケットの小さな手帳に花をはさみこんだ。
ページに綴じられた薄紅いろに国村は笑いかけて、愉しげなテノールでスタートを告げた。

「じゃ、いこっかね?」
「うん、今日もよろしくな、」

並んで歩きだす道に、霜柱が登山靴に砕けた。
いま4月下旬、雪は無いけれど寒気が頬を刺す。最高峰から吹く冷厳の風に、今冬1月の記憶が映りこんだ。

…大切なひとって誰よりもさ、一番きれいで失うの怖いよな…雪のなかで俺はよく感じるかな

この駐車場に初めて泊まった1月に、国村が言った言葉。
あのときはマナスルの雪崩に失った両親の記憶が「雪のなかで」なのだと思った。
それから周太と国村の出逢いが雪の日と聴いて、周太のことだったのかなと感じた。
そして今は、本当の意味がもう解っている。

―雅樹さんのこと、だったんだ

槍ヶ岳の北方稜、北鎌尾根。
あの冷厳な尖峰に抱かれて逝った、不屈の魂まばゆい山ヤの医学生。
彼を失ってしまった瞬間こそが「雪のなかで」だった。その瞬間を共に見つめて超えて、蒼穹の点に永訣を結んだ。
そして永訣の瞬間が、自分のザイルパートナーに心の変化を揺らがせた。

「よし、この時間ならぬかるんでいないね、歩きやすいだろ?」

ザイルパートナーが楽しげに雪踏んで振り返る。
ヘッドライトの下に咲いている笑顔に、英二は笑いかけた。

「うん。もう4月なのに、まだ寒いんだな、この辺は、」
「標高1,450mだからね。こんなだから、山頂はマジ寒いよ、」
「青氷が見られるかな、」
「たぶんね、」

いま登っていく山の話題が楽しい。
闇深い山に入る道も、共に辿れる相手がいるなら温かい。
ざくり霜柱に凍る道を踏みしめて、4合目手前から残雪をキックステップで登りあげる。
ざくざく雪鳴る音を響かせて、頬ふれる大気もヘッドライト照らす道も、冬の冷厳へと変わりだす。
そして5合目過ぎたとき、アイゼンを装着した。

「これ履くとさ、雪山だな、って実感が湧くね?」

透明なテノールが愉しげに笑っている。
大好きな雪山の世界に昇っていく、そんな喜びがライトの下で咲いている。
いま自分も同じ想いに立ちながら、英二も笑顔に頷いた。

「うん、そうだな。奥多摩でもまだアイゼン履くけど、ここは雪の量が違うよな、」
「そりゃね、なんたってココは最高峰だよ?まだ雪、腐っていないね、」

愉快に笑う笑顔は明るくて、捉われない自由が誇らかに山頂を捉えている。
どこまでも大らかに誇り高い自由に笑う山っ子と、隣に並んで歩きだす。

「雪のコンディション見ながらルート取ろう、9合目から上は氷化部分があるから、要注意だ、」
「コンクリートより堅い、ってヤツだよな?」
「そ。あんなトコ踏んじゃって、風に吹かれたらさ?あっというまに奈落だね。ソンナとこ墜ちずに、キッチリ天辺行くよ、」

快活な声が山の歓びに謳うよう話してくれる。
これから一番高い場所に立つ、その喜びが声を明るく響かせていく。
こんなふうに山っ子は「いちばん」が好きだ、だから自分のザイルパートナーにも一番が良いと願う。
その願いに自分はずっと、応え続けていきたい。

…英二?大切な想いはね、そのとき伝えないと、後悔するから…いまの一瞬は、2度と戻らないでしょ?
 だから、きちんと言ってあげて。大切にしてあげて?いつも後悔しないように、英二の笑顔がきれいに幸せでいるように、ね?

昨日の夜と暁に見つめた恋人との時間、こんなふうに愛するひとは言ってくれた。
どこまでも広やかに深い愛情と勇気が、黒目がちの瞳まばゆく微笑んでいた。
これは本当の願いなのだと瞳は告げて、やさしい祈りを教えてくれた。

…英二の笑顔をずっと、俺は見ていたい。きれいに笑っていてほしい、心からの幸せに笑って、生きていてほしいんだ
 心からのとおりに、言葉も、想いも、笑顔も…正直なままに、光一にも接して?
 それでもし、俺が拗ねたら、ご機嫌とって?…きれいな幸せな笑顔、俺に見せて?

やさしい祈りが、いま踏み出していく雪面に映りだす。
やさしい君の祈りも願いも、全てを叶えたい。
だって君のこと愛している、こんなに求めていて、いま胸ポケットに君の守袋だって入れている。
このいま高度を見つめるクライマーウォッチに、贈ってくれた君の笑顔を俺は見ている。

―だって、周太?俺は、君への想いから、今の場所に辿り着いたんだ…君が俺の、全てなんだ、

いま午前4時の黎明を迎える高峰は、すこしだけ目を覚ます。
かすかな太陽の兆しが雪面を青く闇に顕して、この心温める祈りと想いが映りだす。
唯ひとり、自分を目覚めさせてくれた面影は、この高峰にまで温もり届けて、行く道を明るく照らしだす。




(to be continued)

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