When in the blessd time of early love 初恋の祝福
第71話 渡翳act.8-side story「陽はまた昇る」
浴室の扉を開きかけて、もう一つの扉が開く。
窓の光ゆるやかな廊下、真昼の光線は重厚な木材も清雅な壁紙も明るます。
あわい光に瞳細めて見つめた向こう、青いステンドグラスの扉からエプロン姿が呆れたよう微笑んだ。
「英二、お昼が冷めてしまうわよ?呼んでから何分経ったのかしら、」
いつもどおり透るアルトは困ったようでも愉しげでいる。
その視線が手許の盥とタオルも見ているあたり全て気付いているだろう。
変わらない「お見通し」この笑顔とこの家で向かいあう、それが不思議で温かいまま英二は微笑んだ。
「昼寝の寝汗を拭いてあげてたんですよ。お帰りなさい、お祖母さん、」
「ただいま英二、また言いつけを聴かなかったようね?」
深いアルトは微笑んで腕組み、涼やかな瞳が細まり笑う。
こんな眼差しの時に隠しても無駄、そう解かる経験から英二は綺麗に笑いかけた。
「俺に命令できるのは周太だけですよ?」
「それすら聴かない時があるようね、本当に困ったドン・ファンだわ、」
涼やかな切長い瞳を笑ませてエプロン姿が此方へ来てくれる。
そのまま浴室の扉を開くと慣れた手つきにタオルを出し、祖母は微笑んだ。
「英二、あなたも昼寝の寝汗をかいたようね?シャワーでさっぱりしなさい、着替えの一組くらいは置いてあるのでしょう?」
ほら、祖母は何でもお見通し。
こんな祖母だから、こんな自分でも道を踏み外しすぎず生きてこられた。
だからこそ尚更に想ってしまう母への壁がこみあげ、すぐ消して笑いかけた。
「はい、3組ほど周太の部屋のクロゼットにあります。あと着物が二組、」
「あら、そんな良いものまであるのね、英二もお点法を教わって?」
愉しげに微笑んで尋ねてくれる、その言葉に祖母とこの家の縁深さが温かい。
きっと祖母も昔、この家の幸福な時間に茶を楽しんだ。そこにある温もりに英二は微笑んだ。
「はい、周太と美幸さんに教わっています。春からですけど、」
「なら遠州流ね、」
さらり、祖母の答えた言葉に鼓動が止められる。
いま澱みなく家伝の流派が告げられた、その澱みなさに微笑んで問いかけた。
「お祖母さんは、この家によく来ていたんですよね、」
「ええ、斗貴子さんがいらした間だけですけど。それでも八年間だわ、」
八年間、
その時間に祖母はこの家の様々を見つめている。
その時間たちから自分は鍵を幾つ見つけられるのだろう?
―実況見分したいけど今日は難しいよな、でも方法は、
今日なら「現場」に「証人」が揃っている。
けれど聴かれたくない相手も立ち会ってしまう、それでも出来ないだろうか?
そんな思案廻らすまま祖母は微笑んで浴室の扉を出て行った。
久しぶりのダイニングは変わらない、けれど少し違う。
いつもと同じ席で箸を運んでいる、それなのに料理の味がいつもと違う。
それが昔馴染みの味であることが不思議だけど温かい、その温もりに黒目がちの瞳が微笑んだ。
「おばあさま、おじや本当に美味しいです…どうやって味付けするんですか?」
「お出汁をきちんと採るのよ、あとは隠し味ね。はいどうぞ、」
愉しげに祖母が笑いながら藍色の大鉢から取り分けてくれる。
朝早くから支度したらしい煮物は佳い味ふくむ、こんな周到も祖母は変わらない。
そんな「変わらない」から端緒を掴めるだろうか?そんな思案ごと箸運ぶ前で会話も運ぶ。
「隠し味…何を入れてあるんですか?」
「周太くん、当ててみて?2つあるから、」
「ん…すこし甘い感じですよね、白味噌と…酒粕ですか?」
「正解、馨くんも舌が鋭かったけど周太くんもね。英二、ごはんのお替りは?」
切長い瞳が愉しげに笑って尋ねてくれる。
その言葉に意識を惹かれて英二は質問ごと茶碗を差し出した。
「お願いします。お祖母さんは馨さんの料理、食べたことがあるんですか?」
「ええ、お点法のお席でね、」
さらり答えながら飯櫃からよそってくれる。
丁寧にしゃもじ扱いながらアルトの声は懐かしげに微笑んだ。
「馨くん、4つの誕生日から茶懐石を晉さんに教わり始めたのよ。そのために小さな包丁を誂えてね、酢の物から始めて少しずつ。
最初は身内だけの気軽なお席で出してくれたの、お庭の野菜と夏蜜柑を鯵とあわせた酢の物でね、馨くんらしい上品で優しい味だったわ、」
馨4歳、そのころ既に斗貴子は体調を崩している。
その原因は馨3歳の時に起きた、それからの手掛かりを祖母は見たろうか?
この会話から少しでも事情聴取したい、けれど言葉次第では周太も気がつくだろう。
なにかで気を逸らさせながら話を進めたい、思案そっと廻らせながら英二は綺麗に笑った。
「周太は?幾つのときに教わり始めたんだ、」
「ん…」
顔上げて、黒目がちの瞳ゆっくり考えこみだす。
記憶たぐらすまま箸も止まってしまう、そんな様子に祖母へ笑いかけた。
「身内以外の茶席でも馨さんの料理は出されたんですか?」
「そうね、ぁ、」
応えかけたアルトそっと飲みこんで、すこし沈黙する。
涼やかな瞳も思案を見つめて、すぐ落着いたトーンのまま応えてくれた。
「晉さんの研究仲間のお席には出ていたわ、馨くんがお点法することもあったの、私が水屋のお手伝いに入ったりしてね、
それ以外の方がこの家に来ることは少なかったわね、斗貴子さんも静養されていたし。学問のお仲間なら斗貴子さんも喜ぶから、」
学問の仲間なら。
そう教えてくれる言葉に晉の意図が見えてくる。
そして気づかされる過去に考えだす前、艶やかなチョコレートケーキが鎮座した。
「お?」
意外な一品に声こぼれた向こう、黒目がちの瞳が気恥ずかしげに笑ってくれる。
ダークブラウン深いシックな菓子の上、そっと優しい手がチョコレートのプレートを飾り微笑んだ。
「あの、遅くなったけど…英二、おたんじょうびおめでとう?」
「え、」
また意外で声こぼれて見つめて、記憶を手繰ってしまう。
そんな視界の真中にプレートは自分の名をアルファベットで綴る。
そういえば自分で忘れていた、こんな迂闊に祖母が笑ってくれた。
「英二、今年は誕生日なんて忘れていたんでしょう?異動して、山で訓練して、消防士さんみたいな活躍までして忙しくって、」
言われる言葉に我ながら慌しい。
そして祖母とその隣の眼差しに少し困りながら笑いかけた。
「消防士って、ニュースご覧になったんですか?」
「見ましたよ、焼焦げの制服なんて着て?何があったか一目で解かるのに連絡一つ寄越さないで困った人、周太くんも心配したでしょう?」
訊かれて、すこし困ったよう黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
遠慮がちな視線こちらを見て、その表情につい嬉しくなって聴いてしまった。
「周太も心配してくれてたんだ?」
「ん…あの、手は大丈夫なの?」
心配で、けれど訊けずにいた。そんな眼差しが見つめてくれる。
その想い2週間を超えて伝わらす、そしてまた解ける隔てに英二は笑いかけた。
「なんともないよ?少しだけ火傷したけど二日で治ったし。ほら、」
笑って左手を差出し隈なく見せてみる。
なんともない、そう見て取った笑顔の隣も可笑しそうに笑ってくれた。
「治ったのなら本当に良かったわ、これも忙しさに忘れて連絡するなんて気が回らなかったのでしょう?その日が誕生日な事も忘れて。
でも周太くんは憶えていてくれたのよ?今朝あなたが来てからメモで、英二の誕生日ケーキをお願いしますってリクエストしてくれたの、」
そういえば自分の誕生日は奥多摩山中で落雷と豪雨のさなかだった。
あのとき日付は解かっていても何の日かなど忘れ切っていた。
―誕生日忘れるくらい、この夏は速かったな?
初任総合の終わりと同時に夏は来た。
夏、この家で「遺品」を捜し「連鎖」を探り、北壁2つ踏破した。
大切な二人を裏切り後悔して、原と出会い、後藤の肺気腫と周太の喘息を知り、初めて異動した。
それから始まった新しい立場と時間のなか誕生日など忘れてる、そんな迂闊を想う先で優しい含羞が微笑んだ。
「あの…ほんとは自分でケーキ焼きたかったんだけど…でもそのけーきもおいしいから、ね?」
ほら、こんなふうに周太は自分よりも自分を愛してくれる。
本当は周太こそ苛酷な時間に立っていた、それでも忘れずにいてくれる。
こんな相手だから想い募ってしまう日が、忘れられない夜の日が今年も廻らす。
この日だけは自分も忘れるなど出来ない、そんな想い正直なまま英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、お祝いしてくれるなら、誕生日プレゼントに我儘を言っていい?」
「ん…わがまま良いよ?」
穏やかな声で応えながら黒目がちの瞳が見つめてくれる。
なんだろう?そんな考えこむ眼差しは気恥ずかしげで無垢が澄みわたる。
すこし紅潮した頬から初々しい、そんな貌が愛しくて唯ひとり見つめたまま幸せいっぱい笑いかけた。
「このケーキ、俺の誕生祝だけじゃなくて初夜一周年のお祝いにもして?」
あの夜が、あと数日で同じ夜の日が訪れる。
その夜をふたり抱きあいたかった、けれど叶わない。
その日に周太は独りあの場所へ本当に行ってしまう、それが解かるから今日を抱きあいたかった。
だから真昼のベッドを望んだ、そのまま今も誕生日ケーキに願いたくて笑った向こう、大好きな瞳が睨んだ。
「…えいじおばあさまのまえでなんてこというのばかえいじ」
「あ?」
言われて視線を動かした先、涼やかな切長の瞳が笑い堪えている。
この存在を今つい忘れて発言してしまった、そんな迂闊にまた自分で困って、けれど祝福の時は今温かい。
【引用詩文:William Wordsworth「The Prelude Books XI[Spots of Time] 」】
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第71話 渡翳act.8-side story「陽はまた昇る」
浴室の扉を開きかけて、もう一つの扉が開く。
窓の光ゆるやかな廊下、真昼の光線は重厚な木材も清雅な壁紙も明るます。
あわい光に瞳細めて見つめた向こう、青いステンドグラスの扉からエプロン姿が呆れたよう微笑んだ。
「英二、お昼が冷めてしまうわよ?呼んでから何分経ったのかしら、」
いつもどおり透るアルトは困ったようでも愉しげでいる。
その視線が手許の盥とタオルも見ているあたり全て気付いているだろう。
変わらない「お見通し」この笑顔とこの家で向かいあう、それが不思議で温かいまま英二は微笑んだ。
「昼寝の寝汗を拭いてあげてたんですよ。お帰りなさい、お祖母さん、」
「ただいま英二、また言いつけを聴かなかったようね?」
深いアルトは微笑んで腕組み、涼やかな瞳が細まり笑う。
こんな眼差しの時に隠しても無駄、そう解かる経験から英二は綺麗に笑いかけた。
「俺に命令できるのは周太だけですよ?」
「それすら聴かない時があるようね、本当に困ったドン・ファンだわ、」
涼やかな切長い瞳を笑ませてエプロン姿が此方へ来てくれる。
そのまま浴室の扉を開くと慣れた手つきにタオルを出し、祖母は微笑んだ。
「英二、あなたも昼寝の寝汗をかいたようね?シャワーでさっぱりしなさい、着替えの一組くらいは置いてあるのでしょう?」
ほら、祖母は何でもお見通し。
こんな祖母だから、こんな自分でも道を踏み外しすぎず生きてこられた。
だからこそ尚更に想ってしまう母への壁がこみあげ、すぐ消して笑いかけた。
「はい、3組ほど周太の部屋のクロゼットにあります。あと着物が二組、」
「あら、そんな良いものまであるのね、英二もお点法を教わって?」
愉しげに微笑んで尋ねてくれる、その言葉に祖母とこの家の縁深さが温かい。
きっと祖母も昔、この家の幸福な時間に茶を楽しんだ。そこにある温もりに英二は微笑んだ。
「はい、周太と美幸さんに教わっています。春からですけど、」
「なら遠州流ね、」
さらり、祖母の答えた言葉に鼓動が止められる。
いま澱みなく家伝の流派が告げられた、その澱みなさに微笑んで問いかけた。
「お祖母さんは、この家によく来ていたんですよね、」
「ええ、斗貴子さんがいらした間だけですけど。それでも八年間だわ、」
八年間、
その時間に祖母はこの家の様々を見つめている。
その時間たちから自分は鍵を幾つ見つけられるのだろう?
―実況見分したいけど今日は難しいよな、でも方法は、
今日なら「現場」に「証人」が揃っている。
けれど聴かれたくない相手も立ち会ってしまう、それでも出来ないだろうか?
そんな思案廻らすまま祖母は微笑んで浴室の扉を出て行った。
久しぶりのダイニングは変わらない、けれど少し違う。
いつもと同じ席で箸を運んでいる、それなのに料理の味がいつもと違う。
それが昔馴染みの味であることが不思議だけど温かい、その温もりに黒目がちの瞳が微笑んだ。
「おばあさま、おじや本当に美味しいです…どうやって味付けするんですか?」
「お出汁をきちんと採るのよ、あとは隠し味ね。はいどうぞ、」
愉しげに祖母が笑いながら藍色の大鉢から取り分けてくれる。
朝早くから支度したらしい煮物は佳い味ふくむ、こんな周到も祖母は変わらない。
そんな「変わらない」から端緒を掴めるだろうか?そんな思案ごと箸運ぶ前で会話も運ぶ。
「隠し味…何を入れてあるんですか?」
「周太くん、当ててみて?2つあるから、」
「ん…すこし甘い感じですよね、白味噌と…酒粕ですか?」
「正解、馨くんも舌が鋭かったけど周太くんもね。英二、ごはんのお替りは?」
切長い瞳が愉しげに笑って尋ねてくれる。
その言葉に意識を惹かれて英二は質問ごと茶碗を差し出した。
「お願いします。お祖母さんは馨さんの料理、食べたことがあるんですか?」
「ええ、お点法のお席でね、」
さらり答えながら飯櫃からよそってくれる。
丁寧にしゃもじ扱いながらアルトの声は懐かしげに微笑んだ。
「馨くん、4つの誕生日から茶懐石を晉さんに教わり始めたのよ。そのために小さな包丁を誂えてね、酢の物から始めて少しずつ。
最初は身内だけの気軽なお席で出してくれたの、お庭の野菜と夏蜜柑を鯵とあわせた酢の物でね、馨くんらしい上品で優しい味だったわ、」
馨4歳、そのころ既に斗貴子は体調を崩している。
その原因は馨3歳の時に起きた、それからの手掛かりを祖母は見たろうか?
この会話から少しでも事情聴取したい、けれど言葉次第では周太も気がつくだろう。
なにかで気を逸らさせながら話を進めたい、思案そっと廻らせながら英二は綺麗に笑った。
「周太は?幾つのときに教わり始めたんだ、」
「ん…」
顔上げて、黒目がちの瞳ゆっくり考えこみだす。
記憶たぐらすまま箸も止まってしまう、そんな様子に祖母へ笑いかけた。
「身内以外の茶席でも馨さんの料理は出されたんですか?」
「そうね、ぁ、」
応えかけたアルトそっと飲みこんで、すこし沈黙する。
涼やかな瞳も思案を見つめて、すぐ落着いたトーンのまま応えてくれた。
「晉さんの研究仲間のお席には出ていたわ、馨くんがお点法することもあったの、私が水屋のお手伝いに入ったりしてね、
それ以外の方がこの家に来ることは少なかったわね、斗貴子さんも静養されていたし。学問のお仲間なら斗貴子さんも喜ぶから、」
学問の仲間なら。
そう教えてくれる言葉に晉の意図が見えてくる。
そして気づかされる過去に考えだす前、艶やかなチョコレートケーキが鎮座した。
「お?」
意外な一品に声こぼれた向こう、黒目がちの瞳が気恥ずかしげに笑ってくれる。
ダークブラウン深いシックな菓子の上、そっと優しい手がチョコレートのプレートを飾り微笑んだ。
「あの、遅くなったけど…英二、おたんじょうびおめでとう?」
「え、」
また意外で声こぼれて見つめて、記憶を手繰ってしまう。
そんな視界の真中にプレートは自分の名をアルファベットで綴る。
そういえば自分で忘れていた、こんな迂闊に祖母が笑ってくれた。
「英二、今年は誕生日なんて忘れていたんでしょう?異動して、山で訓練して、消防士さんみたいな活躍までして忙しくって、」
言われる言葉に我ながら慌しい。
そして祖母とその隣の眼差しに少し困りながら笑いかけた。
「消防士って、ニュースご覧になったんですか?」
「見ましたよ、焼焦げの制服なんて着て?何があったか一目で解かるのに連絡一つ寄越さないで困った人、周太くんも心配したでしょう?」
訊かれて、すこし困ったよう黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
遠慮がちな視線こちらを見て、その表情につい嬉しくなって聴いてしまった。
「周太も心配してくれてたんだ?」
「ん…あの、手は大丈夫なの?」
心配で、けれど訊けずにいた。そんな眼差しが見つめてくれる。
その想い2週間を超えて伝わらす、そしてまた解ける隔てに英二は笑いかけた。
「なんともないよ?少しだけ火傷したけど二日で治ったし。ほら、」
笑って左手を差出し隈なく見せてみる。
なんともない、そう見て取った笑顔の隣も可笑しそうに笑ってくれた。
「治ったのなら本当に良かったわ、これも忙しさに忘れて連絡するなんて気が回らなかったのでしょう?その日が誕生日な事も忘れて。
でも周太くんは憶えていてくれたのよ?今朝あなたが来てからメモで、英二の誕生日ケーキをお願いしますってリクエストしてくれたの、」
そういえば自分の誕生日は奥多摩山中で落雷と豪雨のさなかだった。
あのとき日付は解かっていても何の日かなど忘れ切っていた。
―誕生日忘れるくらい、この夏は速かったな?
初任総合の終わりと同時に夏は来た。
夏、この家で「遺品」を捜し「連鎖」を探り、北壁2つ踏破した。
大切な二人を裏切り後悔して、原と出会い、後藤の肺気腫と周太の喘息を知り、初めて異動した。
それから始まった新しい立場と時間のなか誕生日など忘れてる、そんな迂闊を想う先で優しい含羞が微笑んだ。
「あの…ほんとは自分でケーキ焼きたかったんだけど…でもそのけーきもおいしいから、ね?」
ほら、こんなふうに周太は自分よりも自分を愛してくれる。
本当は周太こそ苛酷な時間に立っていた、それでも忘れずにいてくれる。
こんな相手だから想い募ってしまう日が、忘れられない夜の日が今年も廻らす。
この日だけは自分も忘れるなど出来ない、そんな想い正直なまま英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、お祝いしてくれるなら、誕生日プレゼントに我儘を言っていい?」
「ん…わがまま良いよ?」
穏やかな声で応えながら黒目がちの瞳が見つめてくれる。
なんだろう?そんな考えこむ眼差しは気恥ずかしげで無垢が澄みわたる。
すこし紅潮した頬から初々しい、そんな貌が愛しくて唯ひとり見つめたまま幸せいっぱい笑いかけた。
「このケーキ、俺の誕生祝だけじゃなくて初夜一周年のお祝いにもして?」
あの夜が、あと数日で同じ夜の日が訪れる。
その夜をふたり抱きあいたかった、けれど叶わない。
その日に周太は独りあの場所へ本当に行ってしまう、それが解かるから今日を抱きあいたかった。
だから真昼のベッドを望んだ、そのまま今も誕生日ケーキに願いたくて笑った向こう、大好きな瞳が睨んだ。
「…えいじおばあさまのまえでなんてこというのばかえいじ」
「あ?」
言われて視線を動かした先、涼やかな切長の瞳が笑い堪えている。
この存在を今つい忘れて発言してしまった、そんな迂闊にまた自分で困って、けれど祝福の時は今温かい。
【引用詩文:William Wordsworth「The Prelude Books XI[Spots of Time] 」】
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