萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-11-08 23:27:21 | 陽はまた昇るside story
壁、その高みには



第58話 双壁act.4―side story「陽はまた昇る」

サラトガクーラーのグラスから、水滴が零れ落ちる。
紗のかかる曇ったガラスを雫はすべり、ゆっくり木肌の卓へと染みていく。
ゆるやかな灯りの個室、肴を挟んだ向こうでビールのグラスがことんと置かれた。

「こんなこと、宮田にしか言えないって思った。でも、国村さんは宮田の先輩で、救助隊でも登山でもパートナーだって聴いた。
だから話して良いのか解らなくて、だけど苦しくなっててさ。それで俺、ここんとこ関根や深堀を誘って飲んで、気晴らししてたんだ、」

精悍な目が困ったよう笑って、英二を見てくれる。
どう想われているのだろう?そんな不安と開き直りの眼差しが前にある。

―…言いたいことを全部きちんと言わせてあげて、それを聴きながら軽症か重症かを見極めていく、それがカウンセリングの基本です
  まずは相手の気持ちを受け留めてあげること、きっと彼はマイノリティの心理状態ですから否定されることが怖いだろうから、ね?

今朝、吉村医師から教えてもらった言葉たち。
あれは診察室や留置所で見る医師の姿そのままだろう、その記憶をなぞるよう英二は温かに笑んだ。

「内山、どんなふうに苦しい?」
「なんだろう…寝ても覚めてもって感じが、苦しいかな、」

途惑いのまま答えて少し笑い、グラスに口付ける。
ひとくち金色の酒を呑みこんで、内山は困り顔のまま微笑んだ。

「あの飲み会の時、俺、国村さんに酒の注文でからかわれたよな?あのとき正直、俺…なあ、何言ってもいいか?軽蔑しない?」
「大丈夫だよ、なんでも聴くよ、」

笑って英二が頷くと、精悍な貌は素直に笑ってくれる。
ほっとしたよう1つ息吐いて、内山は口を開いてくれた。

「初めて国村さんに会ったとき、きれいな人だなっては思ったんだ。でもそれだけだった、だけど飲み会の時、初めて話して。
からかわれてるって解ってたよ?色仕掛けの冗談だろって思った、でも俺、見惚れてたんだ。ああいうのって俺、初めてだったんだよ。
男だって解ってるし、先輩だし階級だって2個も上で、すごい人なんだって藤岡にも聴いてる。でも、そういうの関係なく見てたんだ、」

白熱灯のオレンジ照らす部屋、内山の声が語ってくれる。
内山と光一の初対面は、初任総合の特別講義を吉村医師が担当したときだった。
あれから1ヶ月になる今この個室の空間、ふたりきりの気安さに同期は観念したよう微笑んだ。

「触ってみたい、そう思ったよ?近くに来た国村さんの貌みて、きれいな肌だなって思って、唇がきれいで、触ってみたかった。
俺、ずっと勉強ばっかりで、女とも付きあったことないし、触りたいとか思う暇も無かったんだ。だから俺、初めてそう思ったんだ。
国村さんに悪ふざけでも傍に来られて、バージンとか言われて頭に血が昇った、初体験とか言われて俺、エロい発想しか出来なくて。
俺、男が相手とかって考えたことも無かったけど、国村さんの方が背も高いのに俺、ほんとにエロい目でしか見られなくなってるんだ、」

これは本当に「激白」ってヤツだな?
そんな感想に感心しながら、テーブルの上に軽く掌組んだまま耳傾ける。
穏やかに微笑んで見つめる向う、内山は自分自身に笑うよう言葉を続けた。

「夢でも見ちゃうんだ、国村さんのこと。夢のなかで俺…しようとしてさ、でも俺、童貞だしやってるシーンとか解んなくて。
だけど国村さんのヌードとか夢で見ちゃって、それも想像だからよく解からないんだけど、でも朝起きたら…やっちゃってたことあって。
こんなのって拙いって自分で思うんだ、だから夢も見ない位に熟睡したくて、独りで考え込むの苦しいから最近、誰か誘って飲むんだ、」

光一の裸を想像して夢にまで見て夢精して、って重症すぎやしない?

―内山ってノーマルだって思ってたけど、そうでもないのかな?っていうかちょっと肚立つんだけど?

怒りたくなるのは許してほしい、そんな煩悶はこっちこそあるから。
未だに光一は英二に肌を赦そうとしない、けれど夢精まで自分はしないけど?
自分には周太がいても光一だって大切な恋人で、二股は狡いと思うけど自分なりの筋とプライドがある。
だから小さな嫉妬を想ってしまう、けれどそれ以上に今聴かされた「テスト結果」の証明が哀しい。

―こんなにも暗示に懸りやすいのか…予想してはいたけど、でも

心に呟く溜息が、胸に重たい。
夢にまで見てしまうのは、深層心理から支配されている証拠だろう。
こんな結果に現実が重たい、けれど納得に廻らす考えと微笑んで英二は訊いてみた。

「内山、初任科教養のとき女の子と噂になったよな。あの子への気持ちとは違うんだ?」
「うん…全然違うな、」

考えるよう答えて、内山はグラスを傾けた。
呑みこんで一息ついて、それから内山は困った貌のまま微笑んだ。

「掃除の時に声かけられて話すようになったのは、あのとき話したと思うけど。あの騒ぎで俺、自分からは全く話しかけなくなって。
でも一度だけ卒配されてから会ったことはあるんだ、ランチ一緒して水族館に行ったんだよ。色々と話したりしながら半日一緒して。
だけど、なんか俺が東大出身で出世しそうだから声かけてくれた、って感じがしちゃったんだ。そういうの何か嫌だなって思って、終り」

すこしほろ苦く笑って内山は、肴に箸を付けた。
英二も冷やしトマトを口に入れて、ゆっくり噛んで飲みこむと微笑んだ。

「東大出身って、確かにノンキャリアだと目立つだろうな。内山って、そういうステータスっぽく認められるの、好きだと思ってた」
「うん。俺、自分が東大出だってこと自慢する癖に、恋愛でそれ言われると退いちゃうんだ。恋人なら肩書きとか関係なく見てほしいから、」

すこし寂しげに言ってくれる言葉に、当然だろうと思える。
恋愛なら1人の男として人間として見てほしい、そういう真直ぐな恋を自分もずっと探していた。
解かるよ?そう目で笑いかけた先、すこし寂しげでも清々とした貌で内山は笑ってくれた。

「そういうのに頼らないと自分は好かれないのかなって思うと、なんか悔しくてさ。だから結局、彼女とかずっと出来ないんだって思う。
そういうのあるから俺は、学歴とか関係無いところでモテる宮田のこと、ほんとは凄いなって思ってるし、嫉妬もしてるとこあるんだ、」

そんなふうに見てたんだ?
また意外で少し驚かされる、今日は内山の言葉に「意外」が多い。
こういう話になることは想定外で、なんだか可笑しくて英二は笑って尋ねた。

「内山、俺なんかに嫉妬してるんだ?」
「してるよ?」

さらり認めて、精悍な貌が笑いかけてくれる。
そして少し姿勢を正して、内山は正直に謝ってくれた。

「だから俺、あの騒ぎ起こした時も、おまえに濡れ衣着せてやれって卑怯なこと思ったんだ。ほんとにごめん、」
「別に良いよ、もう気にするな、」

短く答えて笑うと、英二はグラスに口付けた。
持つ手に水滴ふれてクールダウンしてくれる、冷たさは喉と掌に心地いい。
空けてテーブルに戻すと、内山がグラスを見て訊いてくれた。

「おかわり頼むだろ?俺も注文する、宮田は何にする?」
「同じのにするよ、ガムシロップ抜きの方な、」

話しながらタッチパネルでオーダーを済ませ、また向かい合う。
空いたグラスをテーブルの端に置くと、内山は笑いかけてくれた。

「あのとき犯人探しになって、宮田は俺のこと突き止めたよな。だけど宮田、俺の話を聴いて罪を被ろうとしてくれただろ?
そういう真実を突きとめる為に諦めない所とか、情状酌量する余裕とかさ?厳しくて優しい宮田を見て、検事ってこんなかなって思った。
それで俺、宮田は本当に宮田次長検事のお孫さんかもしれないって、思ったんだよ。だから一度、サシ飲みで話してみたかったんだ、」

あの冤罪と犯人探しから一年以上が過ぎた。
あのころと今の自分では随分と変わった、その変化を想いながら英二は釘刺しに微笑んだ。

「祖父が次長検事だったことは内緒にしてくれる?コネとかって誤解されるの嫌いだから、」
「うん、宮田の実力だって俺は思うし、言うつもりも無いから。安心してくれ、」

真面目な顔で頷いて了承してくれる。
その貌に笑いかけて英二は、何げなく訊いてみた。

「どうして内山、検事をやめて国I に変えたんだ?」

歴代の検事総長や次長検事を調べるほど、検事に憧れていた内山。
それがなぜ国家一種を受け、その後は警視庁へと進路を変更したのだろう?
この疑問に「50年の束縛」畸形連鎖の影を見る、その向かいから内山は素直に答えてくれた。

「親から薦められたんだよ、国家一種の方が色んな省庁の選択肢があるから、って」

この理由は納得も出来る、けれどまだ解からない。
廻らす思考のまま次の質問を英二は口にした。

「一種を受けるときって二種も併願すること多いと思うけど。内山は受けなかったんだ?」
「うん、一種だけだった。落ちるって周りも俺も思ってなかったし、もし落ちても大学の同期を上司にしたくなかったんだ、」

答えてくれる貌に高いプライドが笑っている。
確かに国家二種で採用されれば、国家一種の人間の部下として働く。
それを内山の高いプライドは赦さなかった、それは納得がいく答えだろう。それでも評価は「保留」でしかない。
この評価について次の質問を、気さくに笑って英二は問いかけた。

「そういうの、なんか解るな?でも警察官で出世するなら、二種で警察庁入れば準キャリアで出世しやすいのに。なんで警視庁にした?」

なぜ、内山は警視庁を選んだのか?

これをずっと訊いてみたかった、そのチャンスが今この瞬間に来た。
元は検事を希望、それから国家一種を受けた理由は「省庁の選択肢があるから」だった男。
それがなぜ、より限定的な警視庁を選んだのか?この問いへの回答を幾つか思う向う、内山は何の気なしに答えてくれた。

「国I の最終落ちたら、あとの公務員試験って警視庁の秋受験くらいだったんだよ。それに警視庁なら警察学校で全寮制だろ?
俺、国I に落ちたことを親とかに言われるのも、大学の同期と会うのも嫌で。だけど全寮制なら家を出られる、警視庁なら同期もいない。
そうやって、誰も自分のこと知らない場所でやり直したいって思って。あとは、警視庁で東大って珍しいから出世もしやすいかなって、」

言ってくれる言葉たちに、齟齬は無い。
けれど「警視庁」という選択肢への要点が1つ抜けている、この欠落に英二は微笑んだ。

「家を出たいって俺も同じだよ。だけど内山、元は警視庁なんか視野になかったんだろ?どうして選択肢に入れようって思えた?」
「うん?ああ…たぶん、一種の最終面接の時、かな?」

記憶を辿らすような目で、精悍な貌がすこし眉を顰めた。
すこし思い出すよう内山が首傾げこむ、そのちょうどに扉がノックされ注文のグラスが届いた。
届いたばかりの冷たいグラスを長い指にとり、英二は考え込む前に置いて微笑んだ。

「はい、内山、」
「ああ、ありがとう、」

置かれたビールに目をあげ、掌にグラスを持ち口を付ける。
英二も一緒にグラス傾けて飲む、ふっと香るライムに夏蜜柑の記憶が懐かしい。
豊かな柑橘の香る庭が懐かしい、その庭を大切にする俤が愛しくて微笑んだとき、内山は口を開いた。

「最終面接が終わった後、帰りの地下鉄で一緒に受験したやつと話したんだ。初めて喋った男だけど東大で、警察庁を希望って言ってた。
そいつがさ、もし一種に落ちたら警視庁を受けるって話をしてたんだ。それで俺、受験が間に合うのかを訊いて、秋受験を知ったんだよ。
そうしたら俺、落ちただろ?それで警視庁の秋受験を思い出して、受けてみたんだ。だから春の入校許可が出たのは、意外だったな?」

警察庁を希望する東大の男、その男に警視庁の秋受験を教えられた。
そして秋受験に合格し、けれど警察学校は春入校だった。

「内山、採用試験の成績が良かったんだろ?入校許可って成績順もあるから、だから春になったんじゃないかな、」

話してくれた事へと英二は相槌のよう笑いかけた。
けれど今、聴いたばかりの事実に矛盾が浮びだすのを意識は見つめている。
そんな前に、プライドは高くても素直な本音のままに笑って、同期は事実を答えた。

「そうらしいな?首席は湯原に持ってかれたけど、次席だったよ。その成績のお蔭で副場長だったんだ、俺、」

なぜ、首席と次席を同じ教場にしたのだろう?

たとえば馨が警察学校に在校中は、次席の蒔田は別の教場だった。
そんなふうに優秀者は別の教場に配置して、普通なら教場間の不均衡を失くすのではないだろうか?
それならば何故、周太の在校時には首席の周太と同じ教場に、次席の内山を置く?
そして自分たちの時は、初任総合でも教場のクラス替えはなかった。

―クラス替えが無かったのは、立籠り事件のせいだった。でも、あのときだって

初任科教養の最後に起きた、遠野教場の立籠り事件。
あれは犯人の遠野教官に対する私怨が動機だという、けれどあの私怨は誤解の産物でいる。
そして犯人の安西が警察学校に侵入出来たのは、あのとき校門で警備に立っていた訓練生を人質にしたからだった。

その人質は、誰だった?

―なぜ、あのとき人質は周太だった?

気がついた事実の連鎖に、心に氷塊がふれる。
あのとき周太は殺される可能性がゼロではなかった、それでも?
それでも「50年の束縛」は周太本人を囮にしてでも、そんな計画を実行させるだろうか?

―あのとき周太と俺が警備に立っていた、そこに犯人が帽子を届けて油断させて、周太が独りになった隙に接近して

記憶が一瞬のうちに思考を廻り、けれど顔は笑顔のまま口にグラスを含む。
ゆっくりと柑橘の香が喉を下り、思考はまとまる方向を示しだす。

―安西に遠野の恨みを吹込んだのは誰だ?安西が周太を狙う状況を作ったのは、そして内山に警視庁の秋受験を言った男は、

目標を検事から国家一種に変えた内山は、必ず合格すると自他ともに認めていた。
けれど不合格となり、最終面接のとき言われた「警視庁の秋受験」で合格して周太の同期になった。
そして初任科教養で起きた事件のために初任総合でも同じ教場になり、この2度目から特に周太と親しくなっている。

けれど、そこまでするだろうか?

―するだろう、あの男なら

告げられた事実からの推論に、心の一部が凍らされていく。
ある程度の予想はしていた、残酷な現実があるだろうとも思っていた。
けれど目の前に知らされる現実は、矛盾と理不尽への怒りが大きく肚を抉りだす。

―あの男ならする、1人の人生を狂わすくらい、簡単に…

50年前に2人を殺させ、32年前に2人を犠牲にした、あの男なら簡単だろう。
この過去で馨を縛りつけた挙句「殉職」という名の自殺に追いこみ、それでも飽き足らない。
そして幼い周太すらマインドコントロールした、そんな男が目を付けた人間を手駒にする位ためらう筈がない。

―赦せない、

ぽつん、肚の底にまた黒い怒りが瞳を披く。
あの男が犯していく罪は「偶然の産物」に見せかけられて、法では裁かれない。
赦されざるべき罪が裁かれない、そんな法治の矛盾に怒りを見つめるのは、これで何度目だろう?

『Le Fantome de l'Opera』

あのページが切られた本から、自分の今すべてが始まった。
馨の日記と手帳、晉の小説、敦のアルバムと詞書、祖母に宛てた馨の手紙。
そして、自分の懐にある馨の合鍵と、救命救急具のケースに納めた晉の遺物。

“WALTHER P38”

第二次世界大戦に遣われたダブルアクション式拳銃。
学徒出陣した晉が優秀な狙撃手として携行した、一丁の銃火器。
あの拳銃が50年前に放ってしまった一発の銃弾が、ひとつの家族達を畸形連鎖に堕としてしまった。
あれは父の死に対する報復だった、それでも堕とされた罪と束縛は今も残って、この目の前にいる男すら犠牲者かもしれない。

―あの拳銃が無かったら今、違う時間があったのかな

心に想う仮定に、心が自嘲する。
そんな仮定は意味がない、きっと「あの男」なら拳銃が無くても同じことをしたのだろう。
法治国家の「司法」の名の元に正義の旗を振り翳して、何の罪悪感もないままに。
だから想う、これは「罪」なのだと思い知らせてやりたい。

―赦さない、いつか必ず思い知らせてやりたい

心の深くに見つめる怒りの瞳、その眼差しを慰撫するよう「いつか」を想う。
きっと自分はその瞬間を手に入れるだろう、この自分は諦めが悪くて欲しいものは必ず掴むから。
それくらい執念深い自分に「いつか」を想いながら、英二は目の前の同期に悪戯っ子の目で笑いかけた。

「で、内山?副場長まで務めるような、優秀で真面目なおまえがさ?男に恋する意味とリスクを、考えない訳ないよな?」
「ああ、考えたよ」

すこし眉顰め、けれど素直に頷いてくれる。
ゆっくりグラスに口付けて煽り、呑みこんで息ひとつ吐くと内山は困ったよう微笑んだ。

「キャリアと同じ土俵で出世するつもりなら、結婚はひとつの武器になる。だから良い上司とコネクションを作って相手を探したい。
そういう考えも俺は持ってるんだ、コネも実力だって。だけど俺、さっき言ったみたいに東大とかの肩書き目的の相手は冷めるだろ?
だから恋愛と結婚は別かなとも想ってたけど、宮田の大学受験の話を聴かせて貰ってさ。結婚は夫婦だけの問題じゃないって思った、」

ほっと溜息ひとつ吐いて、精悍な貌が英二を真直ぐ見つめてくれる。
幾らかの酔いで寛がされハードルが下げられた、そんな貌で内山は素直に笑ってくれた。

「そうやって結婚と恋愛をイコールって考えると、国村さんのこと幾ら好きになっても無駄だって、よく解かるんだ。
だって男同士で同じ警察官でさ?何をするんでもリスクが高すぎて、たぶん俺には無理だろうって自覚してるし、何も出来ない。
告白したって俺も国村さんも良いことなんか1つも無い、どうせ国村さんからは好きになって貰えない、迷惑なだけだって解かってるよ」

言われる言葉が切なくて、自分の現実とも交差する。
このリスクを全て解かったうえで自分は、周太とも光一とも道を選んだ。

―普通なら、選ばないよな

そっと独りごと心つぶやいて、自分の選んだ道の難しさを想う。
けれど後悔なんて少しも出来ない、どちらも欲しくて掴んだ自分の宝物だと信じているから。
そんな想いと見つめる先、それでも困り顔のまま楽しそうに笑ってくれた。

「そうやって解ってるんだ、だけど夢にまで見るのとか自分でもどうしようもなくて。そしたら本庁の講習で国村さんに厳しくやられたろ?
あんなふうに質問攻めとかで負けるのって俺、いつもなら許せなくってムキになるのに、そういうの国村さんには全然なくって驚いてるよ。
こんなふうに誰かのこと、思うのって初めてでさ。自分でもよく解からないんだ、なんで負けず嫌いの俺がやられっ放しでも嬉しいって思うのか」

そこまで想ってるのは、やっぱり仮性の重症だろうな?

そんな感想にまた、吉村医師の的確な診断に敬愛してしまう。
この場合に自分が懸けるべき言葉は何だろう?考えながら英二は、温かに微笑んだ。

「憧れの人って感じだよな?まだよく知らない相手なのに、そんなふうに想うのってさ、」
「あ、…そうか、憧れか、」

また素直に反芻して、精悍な貌が考え込む。
こんなに素直に考えてくれると「なるほどな?」と納得できてしまう、そして希望を見つめる。
こんなに言葉に左右されてくれるなら、勝機には自分の方が「あの男」より近いかもしれない。

―内山は俺に対して、同期でライバルだって仲間意識がある。たぶん惹きこみやすい

あの男にとって、英二の存在は計算外のダークホース。
このまま影に沈んで気付かれないよう、有利な状況を整えていきたい。
そんな勝算を考え廻らせながら、気さくなトーンで英二は笑いかけた。

「冬の富士山ってさ、遠目で見ると雪が優しい感じで綺麗だろ?でも登るとマジで危ない世界なんだ。風は強くて気温も低い、
コンクリート並に凍った雪は、一度でも転んだら数百メートルを滑り落ちて死ぬよ。それでも俺は、冬富士って好きなんだよ。
危険で死ぬかもしれない、それでも俺は冬富士に登るのを、きっと一生止められない。そういうのって恋愛と似てるかなって、思うよ?」

白魔、そう呼ばれる氷雪の世界。
何者も容赦なく飲みこむ雪崩は白銀の竜、あの咆哮すら自分は愛しい。
そして自分は知っている、光一の本質は山と似て「白魔」の一面すら持っている。
それを奥多摩山中の強盗犯逮捕の瞬間に見た、あのときを想いながら英二は微笑んだ。

「本当に恋愛になったら、どんな危険だろうが関係なくなるよ。ただ傍にいて抱きしめていたくて、離れられない。何があってもさ?
そこまで想えるのは、相手も自分もよく知ってからだよ。お互いの隠したい事とか全部知らないと、そこまで強く好きだって想えないから、」

だから自分は周太を恋して愛して、伴侶に求めて離れられない。
それは光一に対しても同じ、あの峻厳の面も明るい透明な貌も全部に憧れ恋している。
そんな想いの向かい側、生真面目な男は楽しそうに笑ってくれた。

「やっぱり宮田ってカッコいいな、俺もそういう恋愛できるようになりたい。だけど今は俺、国村さんで妄想してても大丈夫かな?」

妄想しても大丈夫、って今、言った?

こんなこと内山が訊くなんて意外過ぎる、すごい質問だな?
意外で言葉も面白くて、可笑しくて英二は笑ってしまった。

「まあ、しちゃうもんは仕方ないけどさ?男の裸で妄想とか言うと、変態って思われるよ?」
「だよな?それで俺も悩んでたんだ、やっぱり俺って変態か、ははっ」

言って内山も笑いだす、その貌が明るくなっていく。
ずっと溜め込んで抱えた煩悶、それが笑いに解けて消え明るい。
このまま落着いてくれるかな?そんな願いと笑う前、愉しげな貌が言ってくれた。

「俺、宮田に弱みと借りを作っちゃったな?これでもう俺は、出世競争の敵に宮田は回せない。これは俺の信用証書だって思って良いよ、」
「そっか?じゃあ一筆ここで書いてよ、」

笑って胸ポケットからペンと手帳を出すと、白紙のページを広げた。
それを内山に向けて差し出すと、素直に笑って受けとってくれた。

「やっぱり宮田って慎重だな、さすがだよ。なんて書けばいい?」
「日付と名前、あとは、俺には泣いた秘密の借りがあります、って書いたら?」

笑って言ったことの通り、几帳面な文字が手帳に綴られていく。
そのペン先を眺めながら今また1つ、目的と勝機を掴むツールがこの掌に与えられる。




列車は針葉樹林に入り、トンネルの闇に入っていく。
昏い車窓に自分の顔が映りこむ、その向かいで光一が登山図を畳んでいく。
黒いガラスに映る横顔を眺めている、その顔が上げられて愉しげに笑った。

「このトンネルを抜けるとね、いきなり見上げる感じだよ?キッチリ見ようね、」
「うん、楽しみだな、」

笑ってふたり車窓に顔を向ける。
その昏い視界が薄明るくなり、明度が急激に増していく。
そして闇は払われ広やかな青が視界を満たし、その頂に黒と白の壁が現れた。

「あの黒い壁が北壁だよ、」

透明なテノールが笑って告げる岩壁を、車窓から仰ぐ。
蒼穹に聳える黒い壁、その峻厳の翳は高みを指して聳え立つ。

標高4,478mマッターホルン。三大北壁の1点が示す蒼穹の高みに、自分は立ちに行く。









(to be continued)

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