萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第60話 酷暑 act.2―side story「陽はまた昇る」

2013-02-08 00:18:04 | 陽はまた昇るside story
炎天、そこに立って今 



第60話 酷暑 act.2―side story「陽はまた昇る」

高度80mからの世界は、谷風が心地良い。
青空から梢を射す太陽は強い、孟夏の真昼は熱暑まばゆく岩肌を干す。
救助隊服の衿元から風を入れ、一息ついた視界にブルーのヘルメットが登りあげた。
その登山靴が頂上を踏んだ確認し、クライマーウォッチのタイムを止めると英二は笑いかけた。

「おつかれさまです、原さん、」
「ああ、」

呼びかけに応えた浅黒い顔が、汗を頬へと伝わせる。
炎天下をこのスピードで登攀したら幾らかキツイだろう、それでも原は不敵に微笑む。
その微笑に様々な感情を読みながら、山図を広げて英二は教え始めた。

「今のが第二スラブルートです、次はリードして下さい。クラックは体が振られて、支点も少ないので気を付けて。
足許も滑らないように。越沢はフォールしたときザイルの切断事故が多発しています、どのルートでもダブルロープで登ってください、」

登る前にも見せたルート説明を今、登った直後に改めて確認してもらう。
これでリードしてもらえば体感覚から記憶に入っていける、そんな計算と笑いかけた横から大野が提案してくれた。

「宮田くん、もし良かったらソロで登る?原くんはコッチと組んでリードしてもらったら、どうかな?」

奥多摩の経験値が高い大野と組めば、原にとって良い勉強になる。
それに自分も単独登攀の練習をしておきたい、この提案に感謝して英二は微笑んだ。

「はい、お願い出来ると嬉しいです。原さん、いかがですか?」
「それでいいです、」

言葉短く頷いてくれる、その表情が幾らか柔らかい。
やはり今朝の「失敗」が良かったのだろうか?こんな予想外が可笑しい。

―俺もまだ、思ってるほど心理って解っていないな?自信持つのはまだ早い、

自分の自信過剰に笑ってしまう、そして良かったと想える。
相手を読心して惹きつけ都合よく動いてもらう、そんな自身の能力にどこか傲慢な自分だった。
そういう気位の高さは利己的に流れる危険がある、それを戒めるには原との出会いは良い経験だ。
こういう事も後藤と蒔田は考えて、今回の異動を決めてくれたのだろう。この意図を吉村医師もきっと理解している。
やっぱり自分は足りない未熟者だな?そんな納得が嬉しいと笑って、英二は懸垂下降に入った。

―高度感が気持ちいいな、

見る間に空を降りて行く視界、その風も太陽も心地いい。
蒼穹へ連なる山嶺は青く燃える、風に樹葉さざめいて緑の波が空へ鳴る。
かすかな葉擦れの聲が谷間に響く、そんな谺たちに水の流れと渓谷の風が呼応する。
真夏の太陽ふる奥多摩の懐、いま明るい季節に山も川も空も煌めいて共鳴していく。

―きれいだ、山は

心につぶやき微笑んでしまう、そして逢いたくなる。
いま空と岩壁をザイルで駈け下りる、そんな集中の一瞬にも黒目がちの瞳を見る。
遠征訓練の直前に逢って交わした約束のまま、もう2週間以上まともに話すことが出来ない。
電話でも会話は上手に暈されて、話したい本音は隠されたまま今の現実だけが透けて、傷む。

―俺をかばおうとしている、周太は…監視から俺の存在を隠そうとしてる、

いま周太がいるのは第七機動隊舎、そこには監視が存在している。
それは光一の電話にも解ってしまう、この四夜に話した言葉は暗号のようだった。
あんなふうに光一も警戒しているのなら二人の部屋は隣室だろう、だから電話では「隣人」と周太を呼ぶ。

―今、七機で何が隠され、何が起きようとしている?

四日間の電話たちに不安になる、ふたりの今が暈しガラスの彼方で見え難い。
こんなふう隔てられる距離だけ怒りと孤独が心を占めて、この壁を生んだ存在が尚更に赦せない。
ただ焦燥が芯から灼きつけ傷む、その凍えていく心に冷徹が笑って今も、笑顔の底では絶えず思考は廻る。

どうしたら「あの男」の正義を壊してやれる?

そう願うまま凄惨な意志が嘲笑い、その分だけ「今」自分が成すべき事に微笑める。
この意志を遵奉するまま穏やかに顔は微笑んで、懸垂下降を終えるとすぐ鋸ルートから単独登攀を始めた。
単独登攀ではアンカーの取り方、プロテクションのポイント選択、下降に登行器具の使い方など全てに習熟が要求される。
今までは光一か後藤の指導を受けながら訓練してきた、だから今日は初めてインストラクター無しでの登攀になる。

―いつもどおりだ、

ひとり微笑んでクライマーウォッチをセットし登りだす、その背中に視線は向かってくる。
この視線があろうと無かろうと失敗は許されない、単独でフォールすれば衝撃は大き過ぎる。
ただ一途に集中して岩壁に向きあっていく、そう意識を針に変えて奥多摩の懐から蒼穹を目指す。

コンコン、キンッ、

最初に撃ったハーケンにザイルの端を結わえ、ビレイポイントを作る。
登り、また次にビレイ構築すると懸垂下降で戻り先のハーケンを抜く、そしてザイルを使って再び登りかえす。
登ってハーケンの歌を響かせ、下降し岩からビレイを外してまた三点確保で登りあげる。その繰り返しに頂は近づく。
10ヶ月間この岩壁を幾度も登ってきた、秋も冬も春も、そして夏の今も岩肌にハーケンを謳わせザイルで自分と山を繋ぐ。
こんなふうに独り山と繋がり向き合う時間は、心も頭も全身から空虚になって、孤独も苦悩も遠く遥かな自由になる。

―好きだ、こんな瞬間が、

心つぶやく本音が微笑む、ただ山に向きあい風を空を背中でふれて心地良い。
虚空に体が浮くような感覚に登りあげ、太陽と山風に全身を委ねながら頂に着く。
ザイルを回収し空を山を見渡す視界、木洩陽ゆれる向うへと青と緑の波から風は吹いて光笑う。

「きれいだ、」

心が笑って透明になる、さっき抱いた怒りも孤独もほどかれて風が攫っていく。
ただ独り岩壁に立つ、この瞬間に全てから心も体も放たれて自由だけが笑う。
そして気づかされる、なぜ光一が「山」を愛し単独行を続けてきたのか?
その心が映りだすままに英二は、山風へと微笑んだ。

「自由になりたかったんだろ、光一?…泣くことから、」

涙の代わりに山を登る、それが光一の孤高。
その涙が「雅樹」なのだと、あれから時を経るごと気づかされる。
マッターホルンの黄昏に聴いた光一と雅樹の夏、あの物語が自分に教えてしまう。
そして帰国した日に見つめた光一の、雅樹の墓に向かう背中に真実がもう、見える。

―光一は雅樹さんだけを想っている、ずっと雅樹さんを追いかけたくて、だから山に登ってきたんだ、

ずっと「雅樹」に泣いてきた光一、その涙から自由になるため山に向かう。
そんな光一の16年間が今ようやく少し解かる、今、自分も孤独を噛んで初めて傷みを知れる。
届けたい想いも声すらも阻まれてしまう涙、怒り、不安、その隔て全てを超えて逢いたいと願う。
けれど願い叶えられない現実の壁と義務、追いたいのに縋れないプライドと傷、それは今の自分も同じだ。

―でも俺は可能性がある、まだ超えられるんだ、光一と違って…それなのに、

光一と雅樹は命で別たれる、そして自分は「法治の正義」に周太と別たれていく。
生と死の隔て超えることは出来ない、けれど自分は可能性を自らの掌で掴み獲れるはず。
この可能性に心明るんで微笑める、孤独に凍えた涙も怒りも希望が温めてまた少し勁くなる。
そう気づいた心が間違いに気付かせて、自分が光一に求めてしまった過ちの罪を見せられる。

―本当は光一の方が泣きたかったんだ、それなのに俺はアイガーの前で泣いて…光一の体温に縋ったんだ、

あのとき光一を抱いたのは真実、ずっと大切に抱いてきた憧憬と恋慕だった。
けれど光一の想いは何処にあったのか、思い遣ることが本当は何ひとつ出来ていない。
あのとき幸福だった、周太への罪悪感を心に突刺しながらも幸福で、山っ子を愛せる喜びに溺れこんだ。
そんな瞬間の全てに光一の真実は、誰を見つめて何を望んで、そして今は何を想い周太の隣にいるのだろう?

光一と周太、ふたりが今この自分に想う感情は、何?

「ごめん…、」

ひとこと唇こぼれ、泣けない涙が幻になる。
ただ微笑んだ貌そっと撫でていく、その風に涙と言葉の幻影が攫われる。

―もう泣かないから、強くなるから…逢えたら本音を言ってよ、俺を必要としてよ?

いま同じ東京の空の下、けれど遥か遠い場所にいる二つの心へ想いは届く?
いつも繋げても暈されてしまう電話、そして繋がらない言葉にも心は繋げている?

そう問いかける意識へとザイルの音は近づく。
そして気配が岩を掴んで登りあげ、浅黒い顔が青空から現われた。
救助隊服の肩が息を吐く、それでも精悍な眼差しは英二を見、誇らかに笑った。

「予定タイム、だな?」
「はい、」

クライマーウォッチを確認しながら頷いて、笑いかける。
それに呼応するよう原の貌が、ふっと微笑んで言ってくれた。

「速いな、本当に、」

短い言葉、けれど賞賛が温かい。
こんな初めての言葉は嬉しくて、素直に英二は笑いかけた。

「ありがとうございます。原さんこそ初めてのリードでこのタイム、速いですね、」
「おう、」

ひとこと微かに笑って、視線を空へと向ける。
日焼けに浅黒い横顔を汗が奔っておちる、そのどこか爽やかな気配が昨日と違う。
朝の麦茶騒動から少しだけ距離が近づけた、それが可笑しくて笑った胸元で無線が受信した。

―起きた、

感覚に意識が砥がれて、兆しを知らす。
いつもどおり覚悟に微笑んで無線をつなぐと、岩崎所長の声が応えた。

「宮田、いま越沢バットレスだな?」
「はい、場所は?」

訊きながら奥多摩の山図を広げ、ペンを出す。
その耳元に無線機から指示が始まった。

「松ノ木尾根で転落、70代男性、20人組ハイカーの1人だ。棚沢から20分ほど登った所らしい、バットレスか寸庭だろうが、どうだ?」

松ノ木尾根は鳩ノ巣の城山から北東へ派生する。
そして尾根末端は多摩川と越沢の狭間を、古里の寸庭へ傾斜していく。
この寸庭から越沢をはさんだ対岸が、いま英二たちがいる越沢バットレスになる。
けれど今バットレスで騒ぎは起きていない、それなら事故現場は対岸の寸庭だろう。その見当を英二は告げた。

「バットレスは静かです、寸庭ではないでしょうか?」
「そうか、じゃあ後藤さんに報告してくれ。俺は田代と山井に連絡する、」

田代は古里駐在所長、山井は鳩ノ巣駐在所長で藤岡の上司にあたる。
この二つが今回の現場直近の駐在所だから、今バットレスにいる自分たちと同じ頃に着くだろう。
そんな予測をしながらチェックを入れた山図を他三人も覗きこみ、懸垂下降の準備を始めていく。
自分も手許に山図を畳んでポケットに仕舞いながら、無線での会話を続けた。

「了解です、藤岡と大野さんも一緒に四人で向かいます、」
「おう、頼んだよ。俺も直接現場に向かう、」

互いの行動確認して無線を切り、すぐ後藤副隊長へ繋げる。
原と藤岡が懸垂下降していくのを見ながら、繋がった無線へ報告を始めた。



松ノ木尾根の東方、大勢のハイカーが緊迫に固まっている。
まだ消防も他も到着していない、その動揺のなかリーダーらしき男に大野が声を掛けた。

「青梅署の救助隊です、落ちた場所と登山の計画を教えて頂けますか?」
「はい、この場所から川の方へ…古里から鳩ノ巣に出て、渓谷をハイキングする予定だったんです、」
「ハイキングですね、落ちた方は何色を着ていましたか?」
「黄色です、グレーのパンツに黄色のウェアでした、」

青ざめた顔でも落着いて話してくれる、それを藤岡がメモしていく。
滑落現場を覗きこむと急斜面にブッシュが高く広がり、草薙がれた先は見通せない。
これだけの草叢なら途中で引っ掛っている可能性がある、そう思案した背後で泣き声が起きた。
振り向くと啜り泣く女性がしゃがみこんでいる、その姿に藤岡がそっと耳打ちしてくれた。

「…落ちた人の奥さんだって、」
「ん…」

そっと頷いて、英二は女性の許へ歩み寄った。
沈痛なざわめきに沈みこむ肩の震えを見つめ、その傍らに片膝をつく。
その気配に動かせた視界へと、右掌を開いて穏やかに英二は微笑んだ。

「こんな時にと思われるでしょうが、口に入れて下さいますか?」

掌に載せた小さな銀紙をといて、一粒の飴を示す。
夏の陽きらめくオレンジいろ、その色彩に彼女の眉が顰められた。

「こんなときに…」
「こんな時こそ、泣くよりも落着く方が大切です。ご主人の為に、」

笑いかけた先で女性の視線があがる。
その眼差し穏やかに受けとめて、彼女の手に銀紙の包みごと置いた。
そのまま立ち上がり踵返すと、崖下を原に指し示し英二は微笑んだ。

「ブッシュ帯を下りて捜索します、」
「ああ、」

いつものよう短い応えに頷く、その表情が堅い。
所轄の救助隊員として初めて最前線に立った、その緊張感がわかる。
今までも原は第七機動隊山岳救助レスキューとして、3年間を現場に立って来た。
けれど遺体の回収経験が未だに無い、その初めてが今から訪れる可能性に英二は覚悟した。

―最初が遭難遺体なのは状況次第で辛い、それでも支えればいい、

この高度と斜度から考えて、もし崖下まで落ちていれば損傷は激しい。
そうした現実を自分は10ヶ月で幾つも見つめてきた、それを原は初めて向かいあう?
この可能性を考えながら滑落の軌跡を残した斜面へと、素早くても慎重に英二は降り始めた。
ザイルを使わずにブッシュを掴んで降りて行く、その先にレモンイエローの色彩が引っ掛かっている。
炎天に草の香が強い、その薙がれた草叢の痕跡を辿り黄色を見ると、袖裂かれた登山ウェアのジャケットだった。

「この場所で間違いないな、」
「うん、」

頷きあいながらもウェアの状態に傷み奔らす。
生地の裂かれた状態は、尖った樹木か岩に引っかけられている。
そんな着衣の残骸に最悪が兆す、それでも冷静なまま回収して進むと傾斜は尚のこと急になった。

「ここからザイル下降します、先へ行ってください、」
「おう、」

短い受け答えにザイルを下し、原を先に降ろす。
その後からザイル回収しながら下降して、50メートル降りた地点でザイルを掛け直した。
更に斜度を増していくルンゼを慎重に素早く下降する、けれど要救助者の姿は見つからない。

―川まで一気に落ちたのかもしれない、

最悪の事態が掠めて、心ため息を吐き覚悟が静かに微笑む。
もし生存確認が出来ない場合、先ほどの女性は更に取り乱すかもしれない。
そんなふう遭難事故は本人も家族も巻き込んで、その場に立ち会う誰もに悲嘆を募らせる。
こうした現場にもう幾度か立会ってきた、けれど遭難事故なら自殺よりは何倍もマシかもしれない。
人が自ら生命を断つ、その惨酷さは遺された人々にこそ、深い傷の苦痛と憂悩を刻んでしまうから。

―馨さん、なぜ自分から殉職したんですか?

ザイルを手繰りながら問いかけて、自ら死んだ男を想う。
どんな理由でも「自死」は周りにとって苦痛だと、本人には解らない?
そうだとしても馨が逝った理由も状況も、覚悟も、あまりに妻と子には惨酷すぎる。
その真実を辿らす文面が昨夜、また紺青色の日記に綴るラテン語から読んで眠れなかった。

どうして?

そう疑問符が心の底で叫び、けれど意識はザイルと斜面に集中している。
こんなふう心と意識は分離して、二人の自分が今を動かして私人と公人を分かたす。
そんな自分の相反を見つめながら100メートルを下降し、傾斜の落ちたガレ場をノーザイルで下った。
ブッシュを掴んで30メートルほど降りる、そこに頭を下に斃れた人体を発見した。

「…っ、」

原の呼吸音が、そっと崖の静寂に呑まれる。
もう隣は気配ゆれていく、その動揺を見ながら英二は現場に片膝ついた。

「救助隊です!聞えますか?!」

呼びかけて、けれど仰向けた顔は傷だらけに浮腫んで動かない。
首や手足の関節が見せる状態、耳鼻の出血、裂かれた肩の傷、それらが生命の不在を解らせる。
それでも感染防止グローブを嵌めて脈拍とリフィリングテスト、心拍と瞳孔の確認をしていく。
どれもが記録ゼロのまま済んで、右手だけグローブを外すとすぐに無線を繋いだ。

「副隊長、宮田です。発見しました、既に死亡状態です。多摩川から30メートル上方のガレ場になります、」
「そうか…、いちばん斜度のキツイ辺りだな、」

応えに響かす溜息は、ただ哀悼が籠らされ温もりは深い。
もう幾度めかの気配へ静かに微笑んだ向こう、電話の声は指示してくれた。

「落石が多いポイントだぞ、気を付けろよ?収容は多摩川左岸から引揚げた方が良いだろう、ブリッジ線を使ってな。原を頼む、」
「はい、遭難者の保護と引上げコースの選定を行います、」

今後の取り決めを行い無線を切った傍ら、原も無線で大野へ連絡している。
慣れた的確な報告を聴きながら英二は、隊服のポケットから白無垢のサラシを出した。
その正方形な白布を男の顔へそっと掛けて、落石を避けられる場所を選んで原に振り向いた。

「原さん、落石を避けて移動します、」
「はい、」

短く頷いた貌は青ざめても、眼差しは変わらずに強い。
慎重にレスキューシートへ移して動かし、英二は救命救急ケースを取出した。
包帯とガーゼを取出し感染防止グローブを嵌め直すと、いつものよう傷の手当をしていく。
その隣から浅黒い顔が覗きこんで、すこしだけ精悍な目を顰めて原は問いかけてきた。

「もう亡くなってるんだぞ、手当はいらんだろう?」
「いいえ、必要です、」

即答しながら手を動かすまま、遺体は容を整えていく。
裂かれた肩には止血と固定、折れた間接には形状保護のまま白布を巻きつける。
傷ついた顔の汚れを丁寧に拭い清め、白布を掛け直すと遭難者の体は鎮まった。

―どうぞ安らかに、

そっと心に哀悼を祈り、全身をレスキューシートで覆う。
そうして遺体の保護を終えたとき、藤岡と大野がバスケット担架と降りてきた。

「宮田、引上げコースは?」
「多摩川の左岸からです、ザイルのブリッジ線を展張します。雲が湧いてきたのでヘリは無理だと、」
「やっぱりピックアップは難しいよな、狭いし。こっちは任せてコース選定お願いします、」
「はい。原さん、行きましょう、」

話しながら救命救急セットを片づけてザックを背負い、立ち上がる。
そして大野と藤岡に後を任せ、英二と原は30メートル下の河原へと下降した。

「対岸に渡ります、浅瀬を徒歩で行きましょう、」
「おう、」

いつもの短い返答、それは落着きながらも強ばりが潜む。
その様子に気を付けながら水深の浅いポイントを選び、登山靴のまま川に入る。
進むにつれ腰まで水へ浸かり進んでいく、川底を踏む足元の水流は川面より速く強い。
夏の太陽ゆらめく波を渉っていく、その飛沫が煌めいては水面に落ちてすぐ流れてしまう。
いま炎天の午後、けれど渓流の水は冷たく隊服を漬して重さをまし、それでも対岸へと渉りきった。

「原さん、傾斜の緩いポイントを見て下さい、」
「ああ、」

声かけに短く頷いてくれる、その頬がやはり蒼い。
きっと先ほどの遭難者にショックを受けた、それは当然だろう。
正直なところ先刻の状態は、出血も骨折状態も残酷だったと自分も感じた。
それを、事故遺体に初めて直接対峙する人間が見たら、衝撃があって普通だ。

―今夜は原さん、きついかもしれないな、

この後を想い、また覚悟する。
遺体との対峙は何度やっても傷みがある、食事が摂れない者も珍しくない。
まして初めてなら尚更だ、その初見から原は厳しい状態の遺体に出会ってしまった。
それでも原は今夜から、食事を口にすることは出来るだろうか?





(to be continued)

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