freezing point
周太24歳3月
第83話 辞世 act.22-another,side story「陽はまた昇る」
かちり、
構えた狙撃銃、スコープ覗きこむ。
接眼部すこし目から離す、その間隔は200メートル先が明確に見える程度。
この距離がないと射撃時の反動で目の周り痣つくることになる、その視界に窓を見た。
―狙える、これなら…反射がなければ大丈夫、
太陽光させばガラスが反射する、そうなると見え難い。
けれど暗ければ室内の明るさ透けてクリアになる、そんな窓は人影たち映す。
―三人いる、小屋主さんが一番奥…白髪まじりの人が官僚の人で、じゃあこの人が?
スコープとガラス窓のむこう横顔三つ、誰もが眠らず起きている。
午前6時は山小屋の朝として早くない、そんなことも教えてくれたのは父と、それから今すぐ傍いる人だ。
―英二も言ってたね、山なら朝ごはんの時間だって…みなさん少しは食べたのかな、
見つめるスコープの横顔三人、かすかに窺える表情は明るくない。
けれど荒れたふうでもなくて、ただ疲労の窶れが輪郭を削っている。
―籠城なんて疲れるよね、するほうだって…これだけ見えたら外さない、
きっと大丈夫、外さない。
すこしの安堵と銃をおろし周太は右手のグローブ脱いだ。
「…さぅ」
寒い、そう言いかけて声飲みくだす。
いま声を聴かれたら困る、そんな相手が視界の端に静寂と片膝つく。
―もう覚悟してるんだ、英二は…どうして、
どうして君は今、こんなに穏かなのだろう?
雪壁の蒼い影、片膝ついた横顔が白皙あわく光る。
ゆるい風はためく合羽にウェアの青すかす、ヘルメットも青く雪上の闇にとける。
その頭上はるか銀色またたいて月が明るい、こんな時でもこのひとは山が似合う。
―それくらい山が好きなんだね…山も英二を好きなんだ、なのに僕は、
想い吐息こぼれてマスク透る。
白い靄くゆらせ雪壁とけこむ、そんな冷気に凍える指でヘッドランプ探った。
かちっ、
かすかな音に光の輪ふわり照らしだす。
暁闇の底にぶく銃器は光る、その薬室に弾丸一発だけ籠めた。
かちり、
装填の音に緊張ゆるやかに昇りだす。
ただ一発、それしか時間は与えられない。
『ブッシュ帯なので足場から崩れる危険があります。上部でセラック崩壊が起きれば連動しやすいです、下は遮るものが樹林帯までありません、』
足場から崩れる危険、セラック崩壊。
どちらも雪崩まきおこす意味、そんな危険地帯で発砲すればどうなるのか?
―雪崩が起きたらもう撃てない…きっと逃げる時間もない、ね、
発砲が生みだす衝撃波が雪面ゆらす、そして崩れる。
流れだす雪に足場なんて定まりっこない、狙撃どころか自身の命さえ定まらないだろう。
だからチャンスは一発だけ、ここから先は迷っていられない現実ただ一点を見つめた。
「十時の方向、オレンジ色の小さな灯です、人の動きは見えますか?」
訊いてくれる声が近い、でも距離はとってくれている。
狙撃の邪魔にならない配慮よく知る相手に呼吸ひとつ、肚底ずっと深く声出した。
「…スコープなら、」
スリング左腕に巻きながら視線は標的へむける。
蒼白い尾根の上、黒いシルエット燈す灯が遠いくせ近い。
―絶対に外せない、誰も、
願いごと銃床を肩にあて雪壁のすきま銃口を出す。
接眼部すこし目を離しスコープのぞきこんだ視界、白い影ゆるくかすめた。
「この谷は強い風が昇ります、その風が吹雪で積もった新雪を雪煙にするんです、風向きの目安にしてください、」
きれいな低い声が告げてくる、その通りに雪煙ゆるかに標的を隔てゆく。
この白が風の強さも向きも測らせる、そして煙幕になって気づかせない。
―下からは見えないよね、山小屋からは…これも仕組まれたことなら観碕さんは、やっぱり…?
なぜ「山小屋」を選んだのか?それは観碕なら当たり前かもしれない。
『犯人は山小屋に立て籠もり中、人質は小屋主ほか3名。内1名は総務省官房審議官、犯人の要求は強盗殺人犯の無罪判決だ、』
犯人は山、人質は官僚、その背後には「あの男」観碕がいるとしたら?
それなら「遭難」を起こすようなやり方も納得がいく、だって観碕はおそらく憎んでいる。
『お祖父さんとも山によく登ったよ、お祖父さんは奥多摩が好きでね…だから庭も奥多摩と同じ木をいくつも植えてるんだ、』
山を登るひと、奥多摩が好きなひと。
それだけが父に教えられた祖父だった、あとは何も知らされていない。
それだけ山を好んだのだと祖父の教え子も話していた、だから「山小屋」を選んだのかもしれない。
―観碕さん、あなたはそんなにもお祖父さんを…どうして、
なぜ、あなたは祖父を貶めたい?
その答すこし解かる気がする、確信なんてまだないけれどきっと図星。
想い見つめるスコープの底ゆるやかに白紗かすめて低い声が告げた。
「雪煙の動きで解かると思いますけど弾道は煽られると思います、かなりの風速だと思って下さい、」
おだやかな低い声に蒼い斜面を白い幕が這いのぼる。
音もなく蒼白やわらかに近よせ視界そめて、頬かすめた冷気に氷軋んだ。
ぎしっ…
軋む音は雪壁の芯から起きる、きっと弛みだした。
そんな音に視界も明るみだす、わずかな日照に山が反応しだした。
―もう日が昇る、もう雪がくずれる…時間がない、
太陽が照らせば1時間で3度上昇もある、その気温変化に雪壁ふかく音うまれだす。
けれど無線まだ入らない、下は状況どうなっているのだろう?
狙撃の瞬間まで後どのくらい?雪は保つだろうか。
―もう狙える位置にいる、でも突入準備が…こんなに隠れ場所もないところで、
構える前、目視した現場は雪と岩場だけで遮蔽物がない。
見晴らしよい尾根に小屋ひとつ、そんな場所で近づくなら夜陰を使うだろう。
―だから伊達さんが指揮を執ってる、雪のなか…夜と雪の森を、
今、道なんて使えない。
『登山道を使えばあの小屋から見られてしまうでしょう、斜面の森を駈けあがります。人選は私に任せてください、』
そんなふう上司に直言した横顔はいつもどおり沈毅で鋭利だった。
たぶん選んだ人数は少ないだろう、それでも「同時発砲」するつもりかもしれない。
『俺も援護するから絶対に帰れ、』
伊達が言った「援護」は意味ひとつじゃない。
そう想えて心配になる、もしかしたら自分より危険を冒すつもりで?
―まさか伊達さん、でもそれじゃ、
気づいて接眼部から眼すこし遠ざける。
ぼやけて、けれど広くなった視界に窓の下が見えた。
「…っ、」
息呑んで鼓動が凍る、そんな冷厳の底かちり無線つながった。
「…S1-2 from S1、OK?」
なにが「OK」だっていうの、こんなこと?
―ちょっと逸れたら伊達さんに当たる、しかも単独で、
スコープのむこう標的になる窓の直下、パートナーは独り銃を構える。
わずかでも弾道が逸れたら当ってしまう、そして今は谷から風が噴きあげる。
―どうして伊達さん、無茶だ、
見つめる視界に呼吸から凍てつく、胸ふかく冷えてゆく。
こんなこと自分は出来ない、こんなこと聴いていない、それでも言われた。
「…You promised to follow it, OK?」
従うって約束したろう?
『伊達さんの指示に従います、』
そう言ったのは自分だ、それを今こんなふうに確かめられる。
こんなこと考えていなかったのは自分の迂闊、でも頷きたくなくて、けれど言われた。
「Don't make light of me. OK?」
そんな言い方されたら、どうしたらいいの?
“俺をなめるな、いいな?”
こんな言い方あんまり「らしく」て笑ってしまう。
こんなふう受けとめてくれるパートナーに何応えればいいか、その答そっと頷いた。
「…I protect you」
あなたを護るのは自分だ。
もう誰も死なせない、願いに無線の声かすかに笑った。
「…OK, Go,in your timing」
指示が出た。
集中そっと細まるスコープの視界、輝度ゆるやかに明るます。
あわい雪煙かすめて白む、その一点オレンジ色の窓にトリガーふれかけ雪軋んだ。
「…っ、」
雪壁が鳴る、息呑まされる。
ぎしり、きしっんっ、氷化した深く呻きあげる声に動けない。
―撃ったら崩れる、そうしたら英二は?
きしっ、ぎしんっきり…っぎし、
呻きだす雪壁にトリガー弾けない、だって恐い。
もし弾いたら崩れるに決まってる、逃げる時間なんてない、そして死なせてしまったら?
『周太、北岳草を見せてあげるよ、』
ほら記憶ですら笑顔まぶしい、あの笑顔が雪山に輝く瞬間が好きだ。
あの笑顔だけ見つめて自分も幸せだった、あの幸福すら今、自分は砕くのだろうか?
―撃てない、英二がいるのに、
逃げて、ここからいなくなって?
だって今また気づいてしまった、唯ひとり全部ひきかえだっていい。
あなた一人を救えるのなら何だって構わない、こんなことワガママでも嫌だ。
―死なせられない、英二だけは…誰よりもあなたはだめ、
誰より、あなたは幸せになってほしい。
唯それだけだ、そんなこと今この瞬間に気づいてしまった。
唯一発を撃てば雪の底へ呑みこまれる、こんな死線で気づいた願いが瞳こぼれた。
―撃てない、英二が…このひとだけは死なせたくない、
死なせたくない、唯ひとり。
唯ひとり唯ひとつの想い、そう見つめた初めての秋からどれくらい経つ?
もう一年以上が過ぎて、その時間は幸せよりも泣いた数多いのが現実だ。
秘密いくつも挟まって、離れた時間も幾夜つまれ隔たって、でも嫌だ。
―英二だけは笑ってほしい、だって僕を救ったのは、
だって英二、あなたの笑顔ひとつに救われたんだ。
『湯原、飯行こ?』
警察学校の日常、あなたは食事に誘いに来た。
『湯原、ちょっと教えて?』
ノックに開けた扉、あなたテキストとノート持って笑った。
ジャージ姿でベッド座りこみ真剣で、そして笑ってくれた。
『そう考えると解かりやすいな、湯原やっぱ頭良いな、』
湯原、そう呼んでくれた時間は6ヶ月。
あの半年がいつのまにか名前で呼ばせて、そして秋は幸せだった。
『周太、奥多摩の秋を見せるよ?』
蔦の紫紅、楓の朱赤、落葉松の黄金、錦秋あざやかな山の道。
雄渾はるかな黄昏、銀色またたく紺青ふかい夜、朝陽まばゆい雲海と富士の青。
下山の道は初雪が舞った、黄葉の林ぬけて苔やわらかな森の底ココアを飲んだ、そして一本のブナ。
『俺の特別の場所だよ、後藤さんが譲ってくれたんだ、』
黄金きらめく大樹、その光は森の冠。
大らかな梢いっぱい空を仰いで抱く、あのブナは幾星霜を超えたのだろう。
そのふりつもる時間ごと大樹はまぶしかった、あの美しい場所へこのひとを帰したい。
『周太、名前で呼んで?』
黄金きらめく樹下、初めて呼んだ想い忘れられない。
―英二、やっぱり生きて、
願い鼓動あふれて叩きつける、もう逆らえない。
想い捻じ伏せる方法なんて知らない、ただトリガーの指は凍えてゆく。
明るみだす視界に小屋の窓だけ映る、その人影ただ見つめるまま大好きな声が言った。
「大丈夫、俺が隣にいる、」
隣にいる、って。
『周太の隣が俺の居場所だ、』
そうだ、あなたの居場所はここだった。
それで自分も約束してしまった、そのままに今も居ればいいの?
そう願いたい、それが間違った願いごとだとしても唯ひとつ約束と想いに指が動いた。
銃声、そして雪嶺また一弾が響いた。
「…行け、」
銃声ふたつ、そしてスコープにアサルトスーツ独り跳びこむ。
「っ、」
危険だ、あんな至近距離は何されるか解らない。
しかも単独で跳びこんだ、こんなルール違反はらしくない。
「…だ、」
割れた窓ガラス、鈍く光る狙撃銃と小柄なくせ広い肩、そして倒れこむ登山ウェア抱える。
抱えられた男は腕から赤色ゆるやかに流す、けれど手元きらり光った。
「伊達さんっ、」
声勝手に呼んで、だけど聴こえない。
ひび割れる音、崩れる音、轟音は鼓膜ひっぱたき視界が消えた。
(to be continued)
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