朝飯にさっそくギバサ。うまい。
今日は先日やってきた東北大学がふたたび岩出山訪問で、約束していた農家、マサヒコさんのところへ。
天皇陛下と同級生という年齢ながら現役バリバリ。每日忙しく働き会うといつも穏やかに挨拶してくれる。
前回学生がうちを訪ねて来た時に、建築学科ではあるけれど、昔の暮らしから話を聞きたいとのことで、マサヒコさんにお願いしていた。
私自身楽しみにしていた時間。
本宅は古民家ではあるが、我が家や一般に見かけるそれとはちょっと趣が違い、柱が長く軒が一般的なものよりも一間くらい高い作りで貫禄がある。
横張りの梁?の長さも恐ろしく長い一本材をそのまま使っているので見事。
伊達家が仙台へ藩を移す頃、縛りがゆるくなった時期でもあり当時の棟梁の発想を活かしたものだそう。
使った木材は遠く鳴子の鬼首から、江合川を使って運搬してきたものらしく、、、
そういう話から口伝で家族から聞いてきた昔の暮らしをじっくりと聞かせてくれた。
昔は農業、というと職業という感覚ではなくそれこそ自給自足、生きるための每日の暮らし。
田畑を作るため、集落での結、家を普請したりする為の結のある暮らし。
保険もないので手術の際の借金はその結でお金を工面するほど集落、人と人との繋がりは深かった。
そういった「生きるための暮らし」に経済が入りだし、集団作業から男手がひとりふたりと減りだし、
隣近所との結びつきが変化し、集落、講の形が薄まってきた当時の話。
息子さんが就職する際「農作業で忙しいからと休まれても困るから」と、平気で言われたという時代。
朝から晩までは農作業。
とにかく太いのから細いのまで晩飯食ったあと、ひたすら縄を綯った夜なべ仕事の話。
20歳で親を亡くし戸主となった当時はちょうど農地解放の時でもあり、農業という仕事の将来性、社会であまり良いものではなかったし稼げる道でもなかったという。
けれど、やはり自分が先祖から受け継いだものを守り、今の家族を守るために選んだ農業という道の可能性と奥行き、また一方で壮絶さを聞けた気がします。
お百姓さん、という言葉があるけれどそれこそ生きるため稼ぐためあらゆる事をやった。やらなければならなかったという。
マサヒコさんは米、野菜、花、季節が冬なら削り花や彫り物や竹細工まで、いろんなことを今でも新鮮な気持ちでやっている。
社会が変わっても、対応出来る農業をやりたいとの思いからだ。
今年から長年収入の核であった田んぼに見切りをつけたが、農家であらゆる可能性に一生懸命に生きたからこそ、
宮城のいちごの苗の親株を県から任されるほど、立派に農家一筋で生きている。
今。道の駅だ直売所だということで一番変わったのは「現金収入」があるありがたさだという。
昔はそうそう現金を見ることもなかったらしい。
私は今の農家に足りないのは商売の一つとしての視点だ!そこに気づけば大きな可能性がある、と考えている。
実際、農業でビジネス目線で成功している人が最近は多くなってきた。
が、生きる根っこを支えてきたマサヒコさんの農業を聞いていると、なんだか複雑な気持ちになった。
農家が悪い、政治が悪い、世の中が悪い、、、、とか、
軽々しくは、な〜〜〜〜〜んも言えない。
まつむらくんが送ってくれた「忘れられた日本人」を読んでいてもそうだが、
生活は経済によって豊かになった。
それも暮らしを良くしようという知恵だ。
けど一方で、
暮らしから失った豊かさもあるな、と感じる。
デザイナー梅原真さんの
ナニガユタカナコトナノカ
というコピーがまたアタマをめぐる。
その昔、雄勝の職人が葺いたという板蔵のスレートも見事でした。