昨日、出張して朝から晩まで、昼食は30分で、ずっと高校生の生活をめぐるアンケートを作成しておりましたので、書き込みができませんでした。ちょっと寂しくなりました。
中学生の方々や、在校生諸君の顔をイメージしながら、書いていると実に楽しくなりますので。お伝えしたいことがたくさん出てきますし。やはり根っから「先生」が好きなんですね、と思います。
さて、昨日一緒になりましたほかの学校の校長先生から、「伸びしろの大きな学校」ということで、学校広報に使った原稿を見せられました。その原稿に、上杉鷹山と細井平洲先生のことが、かなり書いてあったのです。
やられたと思いました。(笑)
あさって、わたくしはその上杉鷹山のところに報告のため帰るからです。鷹山公の墓所にお参りします。前にも言いましたが、わたくしの茅屋で、額の中からずっと見守ってくださっているからです。やさしい温顔であります。
わたくしの母校を作ってくれた方が、上杉鷹山。初代校長が細井平洲先生。1学期の始業式でも紹介しましたが、果たして何人覚えていますかな?
岩波の日本思想大系に細井平洲先生の珠玉のような御文章があります。菊作りと大根の作り方にかけて、教育の根本を説いておられるものです。「嚶鳴館遺草」というものです。
ちょっと平洲先生のことを紹介しますと、↓
「細井平洲(ほそいへいしゅう)は、江戸時代の儒学者。米沢藩(今の山形県米沢市)中興の祖と言われる上杉鷹山の師として、多くの教えを残しています。
細井平洲は、享保13年(1728)6月28日、尾張国知多郡平島村(愛知県東海市)に農家の二男として生まれました。幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き3年間にわたって中国人について中国語を学びました。
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾を開き多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになりました。
実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とした彼の教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、西条(愛媛県)、人吉(熊本県)、紀州(和歌山県)、郡山(奈良県)などの藩の賓師として迎えられました。
明和元年(1764)、平洲が37歳のとき米沢藩(山形県)の藩主となる当時14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれ、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、細井平洲を当代最大の学者と紹介しています。」
以上です。
アメリカのケネディ大統領も絶賛していますのが、鷹山です。環境問題や、自堕落な現代日本にあって、これからもっと注目されるべき人物だとわたくしはこころから思っております。
このブログは携帯からも投稿できるように仕組んでありますので、上杉家菩提所などを実況中継しましょう。
たまには歴史的人物などを図書館で探索してみるのも一興ですよ。
それと余計なお世話ですが、千葉県にある全国的にも有名な某進学校の生徒たちは、図書館の利用率が非常に高いのを知っていましたか?日々の放課後の生活でもそうなのです。ましてや、長期休業中ではなおさらそうです。
わたくしの居住地にある県立図書館でも、朝から晩まで勉強している生徒たちがたくさんいます。
真似しましょう。
よいことはどんどん真似しましょう。
中学生の方々や、在校生諸君の顔をイメージしながら、書いていると実に楽しくなりますので。お伝えしたいことがたくさん出てきますし。やはり根っから「先生」が好きなんですね、と思います。
さて、昨日一緒になりましたほかの学校の校長先生から、「伸びしろの大きな学校」ということで、学校広報に使った原稿を見せられました。その原稿に、上杉鷹山と細井平洲先生のことが、かなり書いてあったのです。
やられたと思いました。(笑)
あさって、わたくしはその上杉鷹山のところに報告のため帰るからです。鷹山公の墓所にお参りします。前にも言いましたが、わたくしの茅屋で、額の中からずっと見守ってくださっているからです。やさしい温顔であります。
わたくしの母校を作ってくれた方が、上杉鷹山。初代校長が細井平洲先生。1学期の始業式でも紹介しましたが、果たして何人覚えていますかな?
岩波の日本思想大系に細井平洲先生の珠玉のような御文章があります。菊作りと大根の作り方にかけて、教育の根本を説いておられるものです。「嚶鳴館遺草」というものです。
ちょっと平洲先生のことを紹介しますと、↓
「細井平洲(ほそいへいしゅう)は、江戸時代の儒学者。米沢藩(今の山形県米沢市)中興の祖と言われる上杉鷹山の師として、多くの教えを残しています。
細井平洲は、享保13年(1728)6月28日、尾張国知多郡平島村(愛知県東海市)に農家の二男として生まれました。幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き3年間にわたって中国人について中国語を学びました。
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾を開き多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになりました。
実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とした彼の教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、西条(愛媛県)、人吉(熊本県)、紀州(和歌山県)、郡山(奈良県)などの藩の賓師として迎えられました。
明和元年(1764)、平洲が37歳のとき米沢藩(山形県)の藩主となる当時14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれ、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、細井平洲を当代最大の学者と紹介しています。」
以上です。
アメリカのケネディ大統領も絶賛していますのが、鷹山です。環境問題や、自堕落な現代日本にあって、これからもっと注目されるべき人物だとわたくしはこころから思っております。
このブログは携帯からも投稿できるように仕組んでありますので、上杉家菩提所などを実況中継しましょう。
たまには歴史的人物などを図書館で探索してみるのも一興ですよ。
それと余計なお世話ですが、千葉県にある全国的にも有名な某進学校の生徒たちは、図書館の利用率が非常に高いのを知っていましたか?日々の放課後の生活でもそうなのです。ましてや、長期休業中ではなおさらそうです。
わたくしの居住地にある県立図書館でも、朝から晩まで勉強している生徒たちがたくさんいます。
真似しましょう。
よいことはどんどん真似しましょう。