自分なりのテーマを持って、ある課題に挑戦することは大変大事なことだと思っております。
できればそれに師匠がいるともっといいのです。
独善では、方向性を見失います。
師匠というのはそういう意味ですばらしいのです。
資格をいろいろと取るのもまたいいものです。
事実、わたくしもいろいろ持っています。
そういう時期がありましたから。
ライセンスを持っているとある意味心強いでしょう。
しかしながら、長いことやってきた仕事からはもっと大きな影響を受けています。
このところ、レポートをいくつか書いてきてしみじみ思いました。やっぱり、教育がもっとも好きなんだということです。柔道教室もそう。実力は病気をしたせいで、格闘家としてはまったく通用いたしません。それでも、おさなごたちの一生懸命稽古している姿に涙してしまいます。
ある意味、計算づくの世界から離れているから、おさなごたちの姿に感動しているのかもしれません。
しかし、それも人生の前半期だからこそであります。
教育というものが、人生の前半期だけのものであったとしたら、これはなんという底の浅いものでありましょうや。
そんなものではないと思うのです。
今日は、休暇をとっておりました。わたくしでも病院に行くときはあるのです。笑い話のようですが、30年間歯医者にも行ったことがないのですが、ね。
そして、帰り、実に寒々しい思いになりました。
ある私立中学校の入学試験に出くわしました。
難関大学への進学率の相当凄い中高一貫校であります。
母親と一緒に小学生が、携帯電話で予備校の先生にできばえを歩きながら報告していました。わたくしはただの通行人。どんな通行人にも聞こえるように大声で、「早**、合格していますから、なんということも・・・」と、今受検してきた学校のことを言っているのでした。小学生がですよ。そんなことは道路でわざわざ携帯で言うことなのでしょうか、ね。わたくしなら、携帯と言えども、他人に聞こえるようなところでのご報告は致しかねます。マナーもなにもないのですねぇ。
学校に入るだけがテーマなのでしょうか。
学歴というのは、会社にいる時だけの、働いているときだけのものでしかないのでしょうか。生涯を俯瞰した発達社会学という学問があるということを教えていただいたのも、こういう現実があるから貴重なのです。人生はスタートだけで勝負できるほど甘いものではありませぬ。
人生をトータルにとらえていくことはできないのでしょうか。
論文まがいの駄文をいくつか書き始めております。
こんなわたくしにも、指導してくださる師匠がおられるからです。
わたくしは、人生役割喪失期のことを高校生のころから考えてきました。倫理社会という科目の先生を師匠と慕い、古代印度哲学に憧憬しました。師匠のご専門であったからです。しかしながら、その師匠は、遙か彼方のスーパー秀才。隠者的なお人柄ではありましたが。高校の先輩でもありましたし、本当に大好きな先生でありました。ついて行けなかった我が身の浅学非才を恥じております。
今日も、帰りの電車の中で、大阪の淀川病院のドクターが書かれた書籍を読みながら帰ってまいりました。ホスピスの先生であります。死生学と、老年学とドッキングしたところの発達とか教育というものを考えておりますので、本当に涙ぐんでその本を読みました。(「NHKブックス 死を看取る医学」)
ある意味、わたくしの生涯教育になるのかもしれません。
また明日。
できればそれに師匠がいるともっといいのです。
独善では、方向性を見失います。
師匠というのはそういう意味ですばらしいのです。
資格をいろいろと取るのもまたいいものです。
事実、わたくしもいろいろ持っています。
そういう時期がありましたから。
ライセンスを持っているとある意味心強いでしょう。
しかしながら、長いことやってきた仕事からはもっと大きな影響を受けています。
このところ、レポートをいくつか書いてきてしみじみ思いました。やっぱり、教育がもっとも好きなんだということです。柔道教室もそう。実力は病気をしたせいで、格闘家としてはまったく通用いたしません。それでも、おさなごたちの一生懸命稽古している姿に涙してしまいます。
ある意味、計算づくの世界から離れているから、おさなごたちの姿に感動しているのかもしれません。
しかし、それも人生の前半期だからこそであります。
教育というものが、人生の前半期だけのものであったとしたら、これはなんという底の浅いものでありましょうや。
そんなものではないと思うのです。
今日は、休暇をとっておりました。わたくしでも病院に行くときはあるのです。笑い話のようですが、30年間歯医者にも行ったことがないのですが、ね。
そして、帰り、実に寒々しい思いになりました。
ある私立中学校の入学試験に出くわしました。
難関大学への進学率の相当凄い中高一貫校であります。
母親と一緒に小学生が、携帯電話で予備校の先生にできばえを歩きながら報告していました。わたくしはただの通行人。どんな通行人にも聞こえるように大声で、「早**、合格していますから、なんということも・・・」と、今受検してきた学校のことを言っているのでした。小学生がですよ。そんなことは道路でわざわざ携帯で言うことなのでしょうか、ね。わたくしなら、携帯と言えども、他人に聞こえるようなところでのご報告は致しかねます。マナーもなにもないのですねぇ。
学校に入るだけがテーマなのでしょうか。
学歴というのは、会社にいる時だけの、働いているときだけのものでしかないのでしょうか。生涯を俯瞰した発達社会学という学問があるということを教えていただいたのも、こういう現実があるから貴重なのです。人生はスタートだけで勝負できるほど甘いものではありませぬ。
人生をトータルにとらえていくことはできないのでしょうか。
論文まがいの駄文をいくつか書き始めております。
こんなわたくしにも、指導してくださる師匠がおられるからです。
わたくしは、人生役割喪失期のことを高校生のころから考えてきました。倫理社会という科目の先生を師匠と慕い、古代印度哲学に憧憬しました。師匠のご専門であったからです。しかしながら、その師匠は、遙か彼方のスーパー秀才。隠者的なお人柄ではありましたが。高校の先輩でもありましたし、本当に大好きな先生でありました。ついて行けなかった我が身の浅学非才を恥じております。
今日も、帰りの電車の中で、大阪の淀川病院のドクターが書かれた書籍を読みながら帰ってまいりました。ホスピスの先生であります。死生学と、老年学とドッキングしたところの発達とか教育というものを考えておりますので、本当に涙ぐんでその本を読みました。(「NHKブックス 死を看取る医学」)
ある意味、わたくしの生涯教育になるのかもしれません。
また明日。