昨夜は、柔道教室の小学校6年生の卒業を祝う会でありました。
この日はジムに行けませんでしたので、運動がてらブラブラ隣の駅まで歩いておりました。そしたら、指導者の先生(高校柔道部監督時代の教え子)から見つけられてしまって、強制的に会場まで連れ去られました。かなり早く着いてしまいました。ウオーキングもできませんでしたが。
それにつけても、あんなにちっこかった、かわいい表情の幼児たちが、中学校に入っていくわけです。また、中学になっても道場に稽古に来て、この4月から高校に入って行く子どもたちも来ました。
いいものです。じつにいいものです。それぞれ、立派に修行されて、保護者の方々のご期待に応えて、志を新たにして、新天地にスタートするわけです。
指導には直接関わっておりませんから、わたくしのことを知っている保護者もあまりいません。土曜日に来て気合の入っている変なじいさんくらいしか認識がないと思っています。一番わからないのが保護者のお名前。子どもたちの名前を言っていただいて、やっと結びつきました。笑い話のようですが。
こういうのは子どもたちの成長ともいうのでしょうけれども、わたくしは、また一つの事象変化が現れたと理解することにしています。
すべては、時間とともに変化をしていくわけであります。不変のものはありません。
反面、こちらはそれだけ歳をとっていくわけです。
そして、忘れられていくわけです。たまに、思い出して、そういえばそんな人いたっけなぁと。
そんなものだと思っています。
しかし、ともかく祝いの行事です。それはそれでまことにめでたいことであります。
指導をなされている先生方は感無量であったでしょう。
柔道部監督時代の教え子も指導者にいますので、わたくしとしては、むしろそちらの方がうれしかったわけです。立派な指導者になられたなぁ、と。あとは邪魔にならんように、隅っこで寝技でもやっているしかありません。たいしたことはないのですから。もう、40代のように、ベンチプレスで130キロも上げていたのが信じられません。変わり果てた姿でありまする。これもまた笑い話のようなことですがね。
お祝いの会に出席する前に、県立図書館で、本をお借りしました。工事がはいるのでしょうか、ちょっと長期に借りられるということを聞いたものですから。
5冊ほど、お借りすることができました。
「死生学」(東大出版会) これはシリーズで出ていますので、全部読んで、ノートにも取りたいのですが、とりあえず第1巻だけを。
「アクティブエイジングの社会学」(ミネルバ書房) これもわたくしの課題ですので、読破します。ちょっと難しいのですが、ノートを取りながらだと可能でしょう。
キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」という本も。
そして家の汚れた書棚を見たら、フランクルの「苦悩の存在論 ニヒリズムの根本問題」があったので、これも読まなくちゃならんと次から次への本との転戦。
実は一貫したテーマを持っております。
レポートを書きたいからです。
師事させていただいている先生との約束であります。
教育との関連項目でありますから、教育界への恩返しにもなります。当然、在校生諸君にはいろいろな場面で、ちょとだけにはなりますが、お伝えしたいと思っています。
退屈しないわけだなと思いました。
幼児たちと適当に運動させていただいて、スポーツジムにも通い、駄文を書き散らしているのですから。なにしろ柔道もただの4段ですし、文学でも素人同然。小説も書いたことなく、短歌も俳句もできません。茅屋には、家族に叱られるほどの雑書があるだけで、床が危なくなってきました。溜まるだけの雑書。置き場がないからです。
それでもありがたいと思っています。
これもまた周囲の方々あらばこそであります。家族も含めて。
感謝です。
感謝する以外ありません。
また明日。
この日はジムに行けませんでしたので、運動がてらブラブラ隣の駅まで歩いておりました。そしたら、指導者の先生(高校柔道部監督時代の教え子)から見つけられてしまって、強制的に会場まで連れ去られました。かなり早く着いてしまいました。ウオーキングもできませんでしたが。
それにつけても、あんなにちっこかった、かわいい表情の幼児たちが、中学校に入っていくわけです。また、中学になっても道場に稽古に来て、この4月から高校に入って行く子どもたちも来ました。
いいものです。じつにいいものです。それぞれ、立派に修行されて、保護者の方々のご期待に応えて、志を新たにして、新天地にスタートするわけです。
指導には直接関わっておりませんから、わたくしのことを知っている保護者もあまりいません。土曜日に来て気合の入っている変なじいさんくらいしか認識がないと思っています。一番わからないのが保護者のお名前。子どもたちの名前を言っていただいて、やっと結びつきました。笑い話のようですが。
こういうのは子どもたちの成長ともいうのでしょうけれども、わたくしは、また一つの事象変化が現れたと理解することにしています。
すべては、時間とともに変化をしていくわけであります。不変のものはありません。
反面、こちらはそれだけ歳をとっていくわけです。
そして、忘れられていくわけです。たまに、思い出して、そういえばそんな人いたっけなぁと。
そんなものだと思っています。
しかし、ともかく祝いの行事です。それはそれでまことにめでたいことであります。
指導をなされている先生方は感無量であったでしょう。
柔道部監督時代の教え子も指導者にいますので、わたくしとしては、むしろそちらの方がうれしかったわけです。立派な指導者になられたなぁ、と。あとは邪魔にならんように、隅っこで寝技でもやっているしかありません。たいしたことはないのですから。もう、40代のように、ベンチプレスで130キロも上げていたのが信じられません。変わり果てた姿でありまする。これもまた笑い話のようなことですがね。
お祝いの会に出席する前に、県立図書館で、本をお借りしました。工事がはいるのでしょうか、ちょっと長期に借りられるということを聞いたものですから。
5冊ほど、お借りすることができました。
「死生学」(東大出版会) これはシリーズで出ていますので、全部読んで、ノートにも取りたいのですが、とりあえず第1巻だけを。
「アクティブエイジングの社会学」(ミネルバ書房) これもわたくしの課題ですので、読破します。ちょっと難しいのですが、ノートを取りながらだと可能でしょう。
キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」という本も。
そして家の汚れた書棚を見たら、フランクルの「苦悩の存在論 ニヒリズムの根本問題」があったので、これも読まなくちゃならんと次から次への本との転戦。
実は一貫したテーマを持っております。
レポートを書きたいからです。
師事させていただいている先生との約束であります。
教育との関連項目でありますから、教育界への恩返しにもなります。当然、在校生諸君にはいろいろな場面で、ちょとだけにはなりますが、お伝えしたいと思っています。
退屈しないわけだなと思いました。
幼児たちと適当に運動させていただいて、スポーツジムにも通い、駄文を書き散らしているのですから。なにしろ柔道もただの4段ですし、文学でも素人同然。小説も書いたことなく、短歌も俳句もできません。茅屋には、家族に叱られるほどの雑書があるだけで、床が危なくなってきました。溜まるだけの雑書。置き場がないからです。
それでもありがたいと思っています。
これもまた周囲の方々あらばこそであります。家族も含めて。
感謝です。
感謝する以外ありません。
また明日。