NHK出版から1998に「モリー先生との火曜日」という本が出ていました。一度買ってざっと読みましたが、当時はまだわたくしがこのような本を読む心境ではなかったので、書庫に入れておくこともないと感じて、手放してしまったのです。ところが、縁は異なもの。再度古本チェーンから100円玉と5円を足して、安価でまたわたくしのところに戻ってきました。
社会学の教授であるモリー先生が難病になられて、亡くなるまでの期間を大学の教え子である作者と交流をしたという作品です。
今度は、よく理解できました。
加齢のせいもあるのでしょうが、なかなか読みごたえのある作品でした。恩師の最後の授業には、教科書はなく、単位ももらえません。毎週火曜日にジャーナリストである作者と、死の床で「人生の意味」について語り合うという文章です。
印象に残ったのが、「死するまで教師たりき」と墓石に彫ってと老教授が言われる場面はすばらしいと思いました。
クルマのこと、家を買うということ、結婚まで話題が及んでいます。
あまり書くと、著作権を侵害しますから、これくらいにします。
最近、通勤のクルマの中で、老年看護学というMP3の講義録を入手しましたので、聞いています。15時間あります。
つまり、上記の書籍と関連するわけです。看護学の大学の先生が講義をしていらっしゃり、素人のわたくしには実にありがたい。そして、そこには発達教育学が出てきますから、どんなに加齢を重ねても、発達はできるということであります。あまりに専門的で、ついて行けないのですがね。
実際、わが身もお世話にならならないといけないのですから、他人事ではありません。
くりかえし出てくるのが、生涯を俯瞰した発達教育でありました。予想通りでありました。幼児期、少年期、青年期、壮年期、老年期とあるわけですから。いい経験をさせていただいています。
まだまだ不勉強ですから、学ぶしかありません。本当に知らないことが多すぎます。看護学のこともそう。なにも知らない。世間には、ほんとうに学ぶべき対象がごろごろ転がっていて、しかも、格好をつけて専門外だからと言って逃げていたと反省をしています。教育とも密接に結びついていることすら気がつかなかったのですから、なんという懶惰な人生でしょうか。
ビルマの竪琴という小説があります。
肩に鳥を止まらせながら、ビルマを歩く姿が印象的です。
モリー先生はちょっとだけそれに触れます。
肩の鳥に聞いてみたいとおっしゃるのです。
今日かね?と。
何を聞きたい?
それはこの本を読むしかないようです。
また明日!
社会学の教授であるモリー先生が難病になられて、亡くなるまでの期間を大学の教え子である作者と交流をしたという作品です。
今度は、よく理解できました。
加齢のせいもあるのでしょうが、なかなか読みごたえのある作品でした。恩師の最後の授業には、教科書はなく、単位ももらえません。毎週火曜日にジャーナリストである作者と、死の床で「人生の意味」について語り合うという文章です。
印象に残ったのが、「死するまで教師たりき」と墓石に彫ってと老教授が言われる場面はすばらしいと思いました。
クルマのこと、家を買うということ、結婚まで話題が及んでいます。
あまり書くと、著作権を侵害しますから、これくらいにします。
最近、通勤のクルマの中で、老年看護学というMP3の講義録を入手しましたので、聞いています。15時間あります。
つまり、上記の書籍と関連するわけです。看護学の大学の先生が講義をしていらっしゃり、素人のわたくしには実にありがたい。そして、そこには発達教育学が出てきますから、どんなに加齢を重ねても、発達はできるということであります。あまりに専門的で、ついて行けないのですがね。
実際、わが身もお世話にならならないといけないのですから、他人事ではありません。
くりかえし出てくるのが、生涯を俯瞰した発達教育でありました。予想通りでありました。幼児期、少年期、青年期、壮年期、老年期とあるわけですから。いい経験をさせていただいています。
まだまだ不勉強ですから、学ぶしかありません。本当に知らないことが多すぎます。看護学のこともそう。なにも知らない。世間には、ほんとうに学ぶべき対象がごろごろ転がっていて、しかも、格好をつけて専門外だからと言って逃げていたと反省をしています。教育とも密接に結びついていることすら気がつかなかったのですから、なんという懶惰な人生でしょうか。
ビルマの竪琴という小説があります。
肩に鳥を止まらせながら、ビルマを歩く姿が印象的です。
モリー先生はちょっとだけそれに触れます。
肩の鳥に聞いてみたいとおっしゃるのです。
今日かね?と。
何を聞きたい?
それはこの本を読むしかないようです。
また明日!