巻 頭 言
校長 外 山 日出男
岐路という言葉がある。
右へ行くべきか、左に行くべきかという地点でどう考えるかということが、岐路に立った時に問題となる。これは生涯にわたって向こうから追いかけてくる課題でもあると最近は感じている。岐路で判断することの連続が人生であるような気がするからである。
発達社会学という切り口から、教育を考えるようになってきた。あなた方のような若い世代の教育も教育。壮年期にも、老年期にも同様に教育は存在すると教えていただいてからまったく世間が広がった。
学校で進路について考えるということは狭い意味では、進学や就職のことであろう。しかし、上記のような意味で考えると、一人の人間の生涯にわたる課題追求の旅という気がしてならない。あなた方の努力する姿を拝見させていただいて、そう思うようになったのである。本校に赴任させていただいて、本当に感謝していることの一つである。
さて、平成22年3月18日(木)に卒業生から進路についてのアドバイスをいただいた。そういう会を企画していただいたことを感謝しつつ、いかに真剣に自分の人生について考えて来たのかを知ることができた。英単語の覚え方、過去問への取り組み方、ノートの取り方等々について講話を在校生にしていただいた。
すばらしい実践である。
このような若さを称賛したいと思う。しかも、なんの衒いもなく、低迷していた学力を徹底的に勉強することによって向上させたと述べられていた。
ここのところがすばらしいのである。
学校秀才というのは、どんなに上辺だけ謙遜ぶっても、どこかに自己欺瞞がある。簡単に言えばうぬぼれがある。考えていることと、言葉に出して言うことが違ってくるのである。誰しもそうなのかもしれないが、卒業生はそういう計算をしないある意味「素の面」を出して後輩の在校生に語ってくださった。
私は、涙が出るほどうれしかった。このように語ってくださる方々を知ることがなかったからである。
母校である高校でもこのような会は何度も行われた。しかし、聞くに堪えない話しかなかった。たいていは自慢話でしかなかったからである。国公立大学に多数の現役合格者を出してはいたが、どこか違和感があったからである。上から目線とでも言ったらよいだろうか。ひねた少年だったので、方法論だけで目的論がないではないか、素の姿を出してほしいと校内弁論大会などで言ってしまったこともあった。ひんしゅくを買ってしまったが。
これ以上は語るまい。貧窮問答歌に出てくるような貧しい私の青春などなんの価値もない。
しかし、あなた方が経験していることは、事実行為として残っていく。
だからこそ、真摯に取り組んでいただきたいのである。時間というものが、もし直線的であると仮定するならば、経験したことはその時間という軸の上に残っていくからである。もっとも時間が円環であるとするならば、またそれは違った意味を持つのだが。
この進路のしおりを活用していただきたい。諸先生方のお骨折りを得て、編集されているもので、過去数年にわたっての貴重な進路情報が満載されている。そして、それを活かすのは「今・この瞬間」を生きている諸君たち自身である。過去のデータをもとにして、過去をふりかえらない人間になるということである。あのときああすればよかった、こうすればよかったという後悔の思いでこれからを生きていくのはたまらないことである。大いにこの「進路のしおり」を読み、先生方と語らい、ご指導を受けていただきたい。
勉強なさいませ。
校長 外 山 日出男
岐路という言葉がある。
右へ行くべきか、左に行くべきかという地点でどう考えるかということが、岐路に立った時に問題となる。これは生涯にわたって向こうから追いかけてくる課題でもあると最近は感じている。岐路で判断することの連続が人生であるような気がするからである。
発達社会学という切り口から、教育を考えるようになってきた。あなた方のような若い世代の教育も教育。壮年期にも、老年期にも同様に教育は存在すると教えていただいてからまったく世間が広がった。
学校で進路について考えるということは狭い意味では、進学や就職のことであろう。しかし、上記のような意味で考えると、一人の人間の生涯にわたる課題追求の旅という気がしてならない。あなた方の努力する姿を拝見させていただいて、そう思うようになったのである。本校に赴任させていただいて、本当に感謝していることの一つである。
さて、平成22年3月18日(木)に卒業生から進路についてのアドバイスをいただいた。そういう会を企画していただいたことを感謝しつつ、いかに真剣に自分の人生について考えて来たのかを知ることができた。英単語の覚え方、過去問への取り組み方、ノートの取り方等々について講話を在校生にしていただいた。
すばらしい実践である。
このような若さを称賛したいと思う。しかも、なんの衒いもなく、低迷していた学力を徹底的に勉強することによって向上させたと述べられていた。
ここのところがすばらしいのである。
学校秀才というのは、どんなに上辺だけ謙遜ぶっても、どこかに自己欺瞞がある。簡単に言えばうぬぼれがある。考えていることと、言葉に出して言うことが違ってくるのである。誰しもそうなのかもしれないが、卒業生はそういう計算をしないある意味「素の面」を出して後輩の在校生に語ってくださった。
私は、涙が出るほどうれしかった。このように語ってくださる方々を知ることがなかったからである。
母校である高校でもこのような会は何度も行われた。しかし、聞くに堪えない話しかなかった。たいていは自慢話でしかなかったからである。国公立大学に多数の現役合格者を出してはいたが、どこか違和感があったからである。上から目線とでも言ったらよいだろうか。ひねた少年だったので、方法論だけで目的論がないではないか、素の姿を出してほしいと校内弁論大会などで言ってしまったこともあった。ひんしゅくを買ってしまったが。
これ以上は語るまい。貧窮問答歌に出てくるような貧しい私の青春などなんの価値もない。
しかし、あなた方が経験していることは、事実行為として残っていく。
だからこそ、真摯に取り組んでいただきたいのである。時間というものが、もし直線的であると仮定するならば、経験したことはその時間という軸の上に残っていくからである。もっとも時間が円環であるとするならば、またそれは違った意味を持つのだが。
この進路のしおりを活用していただきたい。諸先生方のお骨折りを得て、編集されているもので、過去数年にわたっての貴重な進路情報が満載されている。そして、それを活かすのは「今・この瞬間」を生きている諸君たち自身である。過去のデータをもとにして、過去をふりかえらない人間になるということである。あのときああすればよかった、こうすればよかったという後悔の思いでこれからを生きていくのはたまらないことである。大いにこの「進路のしおり」を読み、先生方と語らい、ご指導を受けていただきたい。
勉強なさいませ。