と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

今日から平常授業

2010年04月12日 22時40分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 入学式以来和歌の本を眺めておりました。
 
 苦手な分野ですので、ゆっくりと学ぶしかありません。
 このようなわたくしでも、桜の美しさはわかるようです。

 味わいのある自然観を身につけたいものです。
 なかなか困難な歩みではありますが。

 花吹雪を訪問しながら、旅でもしてあるく境涯になりたいものです。
 風流とは、そういうひとときを大切にするところから可能になるのでしょう。
 事実、山桜の美しい場所がたくさんありました。この週末はそういうところを和歌集を片手に巡っておりました。山家集の西行法師を気取って、です。笑われてしまいますが、ね。



 学校は、今日から平常授業になりました。
 もう、そういうモードに突入です。
 在校生諸君は、今日の嵐のような雨にもかかわらず一生懸命であります。
 
 わたくしも在校生諸君に学んでいます。
 意欲、迫力、元気さ。
 全部かないません。
 たいしたものであります。

 授業態度もずいぶんすばらしい。

 こういう真摯な姿勢がすばらしいのです。

 いくら面倒見がよいと言っても、自分にやる気がなければ話になりませんからね。

 柔道でも、ちょっと技がかからなくなるとすぐに教わろうとする人もいます。これはいかがなものか。クチで教えてすぐできるようなら、修行はいりません。
 自分で工夫してこその、修行であります。なんでも人のせいにするなと、わたくしはこと武道に関してはそう教えてきました。

 今日は、わたくしのお師匠さまから、宿題を出されていますので、考えておりました。理性を疑うということであります。「明証的に真であると認められるもの以外は一切受け入れられないのか」という宿題であります。

 理性と、疑うということ、われ(自我)ということ。
 そんなことをしみじみと考えておりました。

 教育とも密接に関連いたします。
 多少理屈っぽいのかもしれませんが。 

 ですから、何を言いたいかと申しますと、こういうことを考えるには、安易に教えていただいては自分の力にならないわけだということです。

 考えるしかないのです。

 ご自分で。
 わたくしも、老骨にむち打って考えるしかないわけです。完成していないのですから。


 入学式のメッセージについて、プロフでいろいろ考えている生徒もおりました。
 また、時間が長くてしょうもない校長だという生徒もいたことでしょう。
 実際書き込みはだいたい把握できていますが。
 それはそれ。
 何を言われても、わたくしはお伝えするしかないのです。
 
 見ざる、言わざる、聞かざるで、さらに何も考えない、読みもしないではいかがなものかと思うからです。そうではいかんですぞ、と申し上げるのが務めであります。



 また明日!

 
コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/