東京物語(小津安二郎監督)のDVDを昨日の夜、茅屋のテレビで見ていました。白黒の抑制のきいた映像は実にいいものでした。
昨日の記事の自己認識を思い出しました。
また、この映画はあなた方のような10代後半に見ることもいいものだと思います。家族とは何か、親になるとは何か、親子関係とは何か、教育とは、福祉とは、高齢化社会とは・・・いろいろなことを考えさせてくれる映画です。
小津監督の手法は、見事です。同じカットを映しながら、人や物の配置等の工夫でいろいろなことを考えさせてくれます。この映画には彼のテクニックが詰め込まれています。なんだか、市教委時代に鍛えていただいたことを思い出しながら見てしまいました。
心象風景を扱うということでは、最高だと思います。少なくとも絶叫型ではないのが実にいい。こういう静かな流れ方をする脚本は最近あまり見かけませんから。
老夫婦が東京に来てから少しずつ際立つ子どもたちとの違和感、生活に投げかける波紋が丁寧に描かれます。
高齢化社会と老年期の過ごし方という現代的な問題がもうこの時期に(1953年)扱われています。誰でも直接接する問題であります。関係のない人はいません。ある意味福祉にも通じます。
老夫婦の子供たちとて歓迎したくないわけではありません。ただ忙しいだけ。だが、その「忙しい」という言い訳がどこまで通用するのか。小津監督の追及は厳しい。
長女しげを演じる杉村春子の演技はあまりにも見事です。自分勝手で、人間の醜さを演技したらこの女優さんの右に出る方はいないと思っています。殆ど同様な体験をしている方々も多いことでありましょう。
対照的に原節子演じる戦死した二男の嫁紀子は、どのように人々の自己認識に影響を与えるのでしょうか。こちらは難しい。まるで理想的な価値観で描かれている。ドストエフスキーの作品群に出て来る理想的女性のようでもあります。しかし、最後は「私、ずるいんです」という彼女の一言は見るものすべてに止めを刺します。それがずるいのなら、わたくしたちはどうなのだ?という設定です。それが笠智衆演じるおじいさんの自然さと対比されて、彼女は救われる。すくなくともわたくしはそう思いました。
と、ここまで書いてきて、現代文の授業にも通じるものがあると気がつきました。西郷竹彦先生にイメージ化の国語授業を学んで、いろいろと実践をしてきたことを思い出しました。
「意味を問う教育」 西郷竹彦著 明治図書
文芸教材をゆたかに、深く読む
「宮沢賢治『やまなし』の世界」西郷竹彦著 黎明書房
実は先生の全集を持っております。
義務教育の教員時代に、拙い歩みではありましたが、勉強させていただきました。文芸研という研究団体もあるようです。入会してはおりませんけれども。
こういうことを思い出すことが、自己認識の新たなスタートということでありましょうか。
根幹に人生でやりたいことがあって、こうした映像や文学を鑑賞する中からなにかのきっかけで大きな影響を受けることもまたよし。
東京物語で、老夫婦が熱海の海岸でじっと海を見つめながら、子どもたちに迷惑をかけていることに気がつき、尾道に帰ろうかとつぶやくシーンは忘れられません。
このシーンが、わたくしに学びの意欲を与えてくれたようです。
高齢化社会と老年学、ターミナルケア、グリーフケア、死生学と興味は広がっています。おそらくわたくしの人生最後のチャレンジになることでありましょう。
それもまた新たなる自己認識でありましょうか。
また明日。
昨日の記事の自己認識を思い出しました。
また、この映画はあなた方のような10代後半に見ることもいいものだと思います。家族とは何か、親になるとは何か、親子関係とは何か、教育とは、福祉とは、高齢化社会とは・・・いろいろなことを考えさせてくれる映画です。
小津監督の手法は、見事です。同じカットを映しながら、人や物の配置等の工夫でいろいろなことを考えさせてくれます。この映画には彼のテクニックが詰め込まれています。なんだか、市教委時代に鍛えていただいたことを思い出しながら見てしまいました。
心象風景を扱うということでは、最高だと思います。少なくとも絶叫型ではないのが実にいい。こういう静かな流れ方をする脚本は最近あまり見かけませんから。
老夫婦が東京に来てから少しずつ際立つ子どもたちとの違和感、生活に投げかける波紋が丁寧に描かれます。
高齢化社会と老年期の過ごし方という現代的な問題がもうこの時期に(1953年)扱われています。誰でも直接接する問題であります。関係のない人はいません。ある意味福祉にも通じます。
老夫婦の子供たちとて歓迎したくないわけではありません。ただ忙しいだけ。だが、その「忙しい」という言い訳がどこまで通用するのか。小津監督の追及は厳しい。
長女しげを演じる杉村春子の演技はあまりにも見事です。自分勝手で、人間の醜さを演技したらこの女優さんの右に出る方はいないと思っています。殆ど同様な体験をしている方々も多いことでありましょう。
対照的に原節子演じる戦死した二男の嫁紀子は、どのように人々の自己認識に影響を与えるのでしょうか。こちらは難しい。まるで理想的な価値観で描かれている。ドストエフスキーの作品群に出て来る理想的女性のようでもあります。しかし、最後は「私、ずるいんです」という彼女の一言は見るものすべてに止めを刺します。それがずるいのなら、わたくしたちはどうなのだ?という設定です。それが笠智衆演じるおじいさんの自然さと対比されて、彼女は救われる。すくなくともわたくしはそう思いました。
と、ここまで書いてきて、現代文の授業にも通じるものがあると気がつきました。西郷竹彦先生にイメージ化の国語授業を学んで、いろいろと実践をしてきたことを思い出しました。
「意味を問う教育」 西郷竹彦著 明治図書
文芸教材をゆたかに、深く読む
「宮沢賢治『やまなし』の世界」西郷竹彦著 黎明書房
実は先生の全集を持っております。
義務教育の教員時代に、拙い歩みではありましたが、勉強させていただきました。文芸研という研究団体もあるようです。入会してはおりませんけれども。
こういうことを思い出すことが、自己認識の新たなスタートということでありましょうか。
根幹に人生でやりたいことがあって、こうした映像や文学を鑑賞する中からなにかのきっかけで大きな影響を受けることもまたよし。
東京物語で、老夫婦が熱海の海岸でじっと海を見つめながら、子どもたちに迷惑をかけていることに気がつき、尾道に帰ろうかとつぶやくシーンは忘れられません。
このシーンが、わたくしに学びの意欲を与えてくれたようです。
高齢化社会と老年学、ターミナルケア、グリーフケア、死生学と興味は広がっています。おそらくわたくしの人生最後のチャレンジになることでありましょう。
それもまた新たなる自己認識でありましょうか。
また明日。