
このGWは在校生にとっては、なかなか多忙な毎日であったようです。
プロフにずいぶん勉強のこと、模擬テストのことが書いてありました。
まだまだやらされているというのが見えて、微笑ましくもあり、課題だという気にもなりました。その辺が改善点なのでしょうね。あえて言えば。
コメントは避けます。
さて、明日からまた学校です。
頑張りなさいませ。
わたくしは、この期間中充電に努めました。
おかげで、予定していた5種類の教材をほぼ読了できました。
遊んでいたら、時間の無駄です。 残された時間は少ない。 焦ります。まったく焦ります。
ただし、半日だけ茨城百景で関東の清水寺と言われている西光院という寺院に行ってみました。その日の朝、NHKで放送しておりましたので。花のたよりを聞くと、いても立ってもおれなくなります。西行法師の山家集のような心を真似したつもりでいます。いつもそうですが、ね。筑波山の東側になります。さらにおいしい手打ちソバを食べに。ソバ屋さんの裏の花もきれいだと聞いておりましたので、楽しみに行ってきました。猪鍋もやっていました。そんな一度だけ、半日だけの楽しみでありました。
入り口に猪の皮が干してあったので、なんとなく宮沢賢治を思い出してしまいました。好きな作家です。ただし、この作家は解釈の仕方によっては、神秘体験とか、いろいろ出て来ますからこれくらいにしましょう。
あとは読書、柔道、運動の繰り返しです。シンプルなのが一番です。変化ばかり求めていると、その変化自体が恒常的なものとなって、飽きてしまいます。波瀾万丈とかいうテレビ番組がありますが、あれは自分だけ波瀾万丈と思っている可能性もあると、わたくしは疑っております。
疑いということになるとデカルトの右に出る方はありません。われ思う故にわれありとした人ですよね。この場合の「思う」が単に疑うばかりではなく、意志する、考えるというようなものであることも。また、これは「すべての考えるものは存在する」という大前提が省略されている三段論法なのではないかという批判もあります。
このGWの期間中に実に勉強になりました。
「認識は対象に従うべきものである」というデカルトの流れから、カントは「対象が認識に従わなければならない」とやったわけです。これをコペルニクス的転回というのだそうですが、こんなこともわたくしは知りませんでした。
なんともなんとも、もうすぐ60歳になんなんとするのになにも知らない。専門家の方から見たらまったくお話にならんようなことであります。だから勉強するしかないのです。人のことは言えません。生涯学習であります。
裏筑波のソバ屋さんで、どうやらわたくしは「対象」=美しい花たちをどう認識するかという点で実にいい体験をさせていただいたようです。皮になった猪から教えていただいたようなものです。皮が猪か、猪が皮なのかという興味深い観点からも、です。
また、他人をどう認識するか、そういうことをも教えていただいたような気がしました。一昨日、知人の奥様がお亡くなりになって、その通夜に参加させていただいたことも起因しているような気がします。また、その会場におられた方々との関係性においても、実に認識の危うさを思わされました。要するに、自分が思っているほど認識というのは、あるいは関係性というものは確固たるものではなかったということです。
難しいものであります。
では、明日学校でお会いしましょう。
プロフにずいぶん勉強のこと、模擬テストのことが書いてありました。
まだまだやらされているというのが見えて、微笑ましくもあり、課題だという気にもなりました。その辺が改善点なのでしょうね。あえて言えば。
コメントは避けます。
さて、明日からまた学校です。
頑張りなさいませ。
わたくしは、この期間中充電に努めました。
おかげで、予定していた5種類の教材をほぼ読了できました。
遊んでいたら、時間の無駄です。 残された時間は少ない。 焦ります。まったく焦ります。
ただし、半日だけ茨城百景で関東の清水寺と言われている西光院という寺院に行ってみました。その日の朝、NHKで放送しておりましたので。花のたよりを聞くと、いても立ってもおれなくなります。西行法師の山家集のような心を真似したつもりでいます。いつもそうですが、ね。筑波山の東側になります。さらにおいしい手打ちソバを食べに。ソバ屋さんの裏の花もきれいだと聞いておりましたので、楽しみに行ってきました。猪鍋もやっていました。そんな一度だけ、半日だけの楽しみでありました。
入り口に猪の皮が干してあったので、なんとなく宮沢賢治を思い出してしまいました。好きな作家です。ただし、この作家は解釈の仕方によっては、神秘体験とか、いろいろ出て来ますからこれくらいにしましょう。
あとは読書、柔道、運動の繰り返しです。シンプルなのが一番です。変化ばかり求めていると、その変化自体が恒常的なものとなって、飽きてしまいます。波瀾万丈とかいうテレビ番組がありますが、あれは自分だけ波瀾万丈と思っている可能性もあると、わたくしは疑っております。
疑いということになるとデカルトの右に出る方はありません。われ思う故にわれありとした人ですよね。この場合の「思う」が単に疑うばかりではなく、意志する、考えるというようなものであることも。また、これは「すべての考えるものは存在する」という大前提が省略されている三段論法なのではないかという批判もあります。
このGWの期間中に実に勉強になりました。
「認識は対象に従うべきものである」というデカルトの流れから、カントは「対象が認識に従わなければならない」とやったわけです。これをコペルニクス的転回というのだそうですが、こんなこともわたくしは知りませんでした。
なんともなんとも、もうすぐ60歳になんなんとするのになにも知らない。専門家の方から見たらまったくお話にならんようなことであります。だから勉強するしかないのです。人のことは言えません。生涯学習であります。
裏筑波のソバ屋さんで、どうやらわたくしは「対象」=美しい花たちをどう認識するかという点で実にいい体験をさせていただいたようです。皮になった猪から教えていただいたようなものです。皮が猪か、猪が皮なのかという興味深い観点からも、です。
また、他人をどう認識するか、そういうことをも教えていただいたような気がしました。一昨日、知人の奥様がお亡くなりになって、その通夜に参加させていただいたことも起因しているような気がします。また、その会場におられた方々との関係性においても、実に認識の危うさを思わされました。要するに、自分が思っているほど認識というのは、あるいは関係性というものは確固たるものではなかったということです。
難しいものであります。
では、明日学校でお会いしましょう。