今日は安全教育としての降下訓練でありました。
講話と実技を行いました。
一年生のみであります。
熱心に拝聴しておりました。
この写真は飛翔館という建物の中です。
降下訓練も安全性に十分注意して行っています。やはり経験がないと、いざというときに役に立ちません。もっとも中学校でも十分このことはやっておられることでしょう。思うに、明治以来ずっと教育はいろいろなことを試みてきたわけです。例えば、廊下を走るなという戒め。学校教育発祥の時代から100年以上にわたって指導されてきている戒めの一つであります。先祖代々廊下を走るなということは、何代にもわたって言われ続けるわけです。他にも、年配者には丁寧な言葉を使えとか、藩校の学監には尊敬をとか、親に孝とか、道は右側をさっさと歩けとか、袴をはいたら立ち居振る舞いに留意とか、いろいろな戒めがあるわけです。地域性もありますが。
それができないから戒めとしてあるわけです。できるようにせよ!という教えであります。愚生わたくしも、謹厳な祖父から相当厳しく教えてもらいました。不肖の孫であります。できないから厳しくしつけていただいたわけです。今でも感謝しているのは、いわゆるため口というのがわたくしはできません。年長の方にため口をきいているのを見たり聞いたりするとまったく情けなくなります。同輩ならまだ許せるのでしょうが、ね。後輩にも極端に偉そうにもの申している輩がいますが、それもどうなのでしょうか。
一度目の前で、おもしろい体験をしたことがありました。ある方と話をしていたら、そこに割り込んできた方があって、最初は丁寧にクチをきいていたのです。ところが、わたくしの相手の人が割り込んできた方の大学の後輩とわかったとたん割り込んできた方は、後頭部が床につきそうになるほどそっくりかえってしまいました。しかも営業職で、ため口になってしまった。大笑いしました。人間観察にうってつけの事例です。底の浅さが完全に露呈してしまった事例です。さっそくノートにつけました。ビートたけし師匠のようにです。
道徳律というのは、出来ないから戒めとしてあると考えるとこれはなかなかよくわかる。愛が大事だとされるのも、なかなか愛がないからであります。思いやりもそう。なかなか無いからであります。親切もそうです。また、禁じられるから破ってみたくなる。若いうちは確かにそうでしょう。反逆のこころで一杯になる。なんでも反対のポーズをとることで、ある種の天才を意識するわけです。つまらん大人とは違っているんだとでも言いたげに。まるで手に取るようにわかります。それから一歩一歩成長していくことです。だから学校は指導を継続するわけです。学校だけでなく、社会生活でも、家庭生活でも指導はしていかなくてはならないわけです。この3点がバランスを欠くとたちまち悪くなります。バランスを欠いたら立っていられなくなります。柔道はそういう隙を相手に作らせて投げるわけです。
安全教育もそうです。なかなか守ることができないから、学校でも、社会でも、家庭でも行うわけです。永遠に続くのかもしれません。
命の大切さということが安全教育では絶対的な至上課題です。
当たり前です。この当たり前のことを守っていただきたい。交通事故で亡くなった家族の哀しみというものがとても耐えられないからです。突然の死に、家族の方々は混乱し、受容できなくなります。このところ真剣に勉強させていただいているグリーフケアという学問でも扱います。命の大切さを破られた時に、どのように受容していくかということが最近のわたくしの課題にもなっています。
それが若年層であった場合には家族は絶対に受容できないわけです。壮年期もそうです。病気であっても、不慮の事故であってもです。ほんとうにそういうことを真剣に考えているし、考えていただきたいと思っております。慎重な行動と、思索。軽はずみなことをしてはなりません。こころからそう思っています。
命は大切にしましょう。
また明日!