愚生の茅屋の書庫を改修します。
ブログも改修します。
そろそろ3年目に入ります。
固定しては広報の役に立ちません。エビのように脱皮して行かなくてはなりません。
思うところがあって、このブログも根本から改修工事です。
来月は衣替えですしね。
十分活躍してきましたし。
もういいでしょう。身辺雑記になってきましたから、方針変更です。
さて、この土・日は雑書の整理で腰が痛くなりました。明日は起きられるかどうか心配しています。土曜日も腰が痛くなって、ジムも柔道教室も欠席しました。かわいい子供たちとの稽古ができませんでした。これは実にさみしいことでありました。
30年間も放っておいた雑書がありましたので、もう処分しようと思い立ったのがきっかけです。思いつくままにいろいろな雑書を蒐集してしまいました。段ボールに積んで7回買い取り専門店に行きました。引き取っていただいて、段ボールをカラにしてまた積んでくるわけです。一回のクルマに段ボール4個載りましたから、相当数を処分しました。
それと、いい加減原典主義でいこうと思ったからでもあります。年齢的にも味わいのあるものを大切に読んでいきたいと思っています。これからは古典中心でいきます。かつてお仕えした先生で、原文・原典中心の先生がおられました。ほんとうに尊敬できる方であります。わたくしのように雑書は読みません。もしそういう本を手に取られてもたちどころに理解できるような俊秀であります。
愚才のわたくしは、なんども繰り返して読むしかありません。簡便法を説く方も世の中にはおられますが、眉唾ものであります。学問に王道なしと聞いたことがあります。まだまだわたくしごときが、学問について講釈をすることは許されませんが、地道にやってきたことは確かであります。
こんな体力勝負の二日間でありましたが、この数日かけて藤沢周平の「雲奔る 小説・雲井龍雄」を読了しました。
米沢藩士・雲井龍雄。鷹山公の改革で一息ついた米沢十五万石ではあったが。七公三民の苛政を改めるには至らず。龍雄が生まれた徳川末期の維新の足音が聞こえつつあったころでもそれは変わらなかった。五石二人扶の下級藩士の生まれでもあった龍雄の生家も例外にもれず半士半農の生活というよりは、農民が脇差を挿した生活と言ったような暮らしぶりだった。
龍雄は俊才と言われるほどの勉学の才を見せ、藩の探索方として京を舞台に幕末の志士たちと交わる。米沢藩の示した奥羽越列藩同盟の薩摩を討つ思想に傾倒し「討薩ノ檄」を懐に奔走する。
しかし、禁門の変、長州征伐につづく明治維新へと時代の移り変わりにも関わらず薩摩から新政府打倒の思想を変えない龍雄の二七歳の短い人生を綴る。
こんなストーリーです。
実は、山形県高畠町を舞台にしており、わたくしの生まれ育った町の隣なのです。藤沢周平の文庫を初めて買ったのがこの本でありました。それ故にこそでありましょうか、どうもついていけないと思ったのでした。今回、書庫を改修していて、この文庫が出てきたのです。まるで、読んでくれとでも言っているようにです。米沢藩士でもありましたから、米沢の市内も出て来ます。藩校の興譲館も出て来ます。まるっきり先輩なのです。だから嫌がったと言うと作者の藤沢周平に叱られそうです。しかし、事実そうでした。
もうそれだけこの書庫のある土地になじんだということなのでしょう。
時間も随分たってしまいました。
東京から2時間で行くことができるのになかなか帰省することもありません。両親ともわたくし30代はじめで亡くなってしまいましたから、本当に時折の墓参りのみであります。代々の先祖の眠る寺院から見る置賜平野は、まさにこの雲井龍雄の世界であります。
なじんだ土地で書庫を改修して、いつまで持つのか。
あと何年の刻限であるのか。
人生に残された時間との闘いのような気がします。
なんにもならないかもしれません。徒労という言葉も浮かびます。
しかし、多くの俊秀に書物を通して勉強させていただいたことは、わたくし個人の体内で生き続けるのではあるまいかと、淡い期待を持っているところであります。
頑張りましょう!
学校で。
あなた方も、わたくしも、多くの俊秀に教えていただきながら、やるしかないようです。
また明日!
ブログも改修します。
そろそろ3年目に入ります。
固定しては広報の役に立ちません。エビのように脱皮して行かなくてはなりません。
思うところがあって、このブログも根本から改修工事です。
来月は衣替えですしね。
十分活躍してきましたし。
もういいでしょう。身辺雑記になってきましたから、方針変更です。
さて、この土・日は雑書の整理で腰が痛くなりました。明日は起きられるかどうか心配しています。土曜日も腰が痛くなって、ジムも柔道教室も欠席しました。かわいい子供たちとの稽古ができませんでした。これは実にさみしいことでありました。
30年間も放っておいた雑書がありましたので、もう処分しようと思い立ったのがきっかけです。思いつくままにいろいろな雑書を蒐集してしまいました。段ボールに積んで7回買い取り専門店に行きました。引き取っていただいて、段ボールをカラにしてまた積んでくるわけです。一回のクルマに段ボール4個載りましたから、相当数を処分しました。
それと、いい加減原典主義でいこうと思ったからでもあります。年齢的にも味わいのあるものを大切に読んでいきたいと思っています。これからは古典中心でいきます。かつてお仕えした先生で、原文・原典中心の先生がおられました。ほんとうに尊敬できる方であります。わたくしのように雑書は読みません。もしそういう本を手に取られてもたちどころに理解できるような俊秀であります。
愚才のわたくしは、なんども繰り返して読むしかありません。簡便法を説く方も世の中にはおられますが、眉唾ものであります。学問に王道なしと聞いたことがあります。まだまだわたくしごときが、学問について講釈をすることは許されませんが、地道にやってきたことは確かであります。
こんな体力勝負の二日間でありましたが、この数日かけて藤沢周平の「雲奔る 小説・雲井龍雄」を読了しました。
米沢藩士・雲井龍雄。鷹山公の改革で一息ついた米沢十五万石ではあったが。七公三民の苛政を改めるには至らず。龍雄が生まれた徳川末期の維新の足音が聞こえつつあったころでもそれは変わらなかった。五石二人扶の下級藩士の生まれでもあった龍雄の生家も例外にもれず半士半農の生活というよりは、農民が脇差を挿した生活と言ったような暮らしぶりだった。
龍雄は俊才と言われるほどの勉学の才を見せ、藩の探索方として京を舞台に幕末の志士たちと交わる。米沢藩の示した奥羽越列藩同盟の薩摩を討つ思想に傾倒し「討薩ノ檄」を懐に奔走する。
しかし、禁門の変、長州征伐につづく明治維新へと時代の移り変わりにも関わらず薩摩から新政府打倒の思想を変えない龍雄の二七歳の短い人生を綴る。
こんなストーリーです。
実は、山形県高畠町を舞台にしており、わたくしの生まれ育った町の隣なのです。藤沢周平の文庫を初めて買ったのがこの本でありました。それ故にこそでありましょうか、どうもついていけないと思ったのでした。今回、書庫を改修していて、この文庫が出てきたのです。まるで、読んでくれとでも言っているようにです。米沢藩士でもありましたから、米沢の市内も出て来ます。藩校の興譲館も出て来ます。まるっきり先輩なのです。だから嫌がったと言うと作者の藤沢周平に叱られそうです。しかし、事実そうでした。
もうそれだけこの書庫のある土地になじんだということなのでしょう。
時間も随分たってしまいました。
東京から2時間で行くことができるのになかなか帰省することもありません。両親ともわたくし30代はじめで亡くなってしまいましたから、本当に時折の墓参りのみであります。代々の先祖の眠る寺院から見る置賜平野は、まさにこの雲井龍雄の世界であります。
なじんだ土地で書庫を改修して、いつまで持つのか。
あと何年の刻限であるのか。
人生に残された時間との闘いのような気がします。
なんにもならないかもしれません。徒労という言葉も浮かびます。
しかし、多くの俊秀に書物を通して勉強させていただいたことは、わたくし個人の体内で生き続けるのではあるまいかと、淡い期待を持っているところであります。
頑張りましょう!
学校で。
あなた方も、わたくしも、多くの俊秀に教えていただきながら、やるしかないようです。
また明日!