世阿弥が「風姿花伝」の中で、<時分の花>を<まことの花>と峻別していることについて、思うことがあります。
在校生諸君もわたくしの普段の話しぶりから感じるでしょうけれども、およそ現代の新しい歌手とか芸能人、役者について殆ど知らないのであります。覚えようという気もない。
ところが、そういうわけですから、あまりにも華美なる格好で出てこられるそういうたぐいの方を家人といわゆる電子映像機械(テレビ)で見ると、冒頭の世阿弥を思い出してしまうのです。嫌な性格をしているなぁと感じてはいるのです。しかし、仕方なし。
世阿弥は能役者で、若々しい勢いを持った役者を<時分の花>としています。そのみずみずしい若さで、時流に乗れば多くのファンを持つことでありましょう。それはそれで結構です。
しかし、世阿弥は、若さだけ、みずみずしさに頼っているだけでは芸の大成は望めないとも言っています。
結論は、<まことの花>を目指していきなされということなのです。
現代の若者文化を見ていると、世阿弥の心配していたことが当たっているかもしれないと感じてしまいます。安易さに流れていってしまっているのではないかと思うのです。「成熟の文化」ということをどこかに置き去りにしてしまったのではないかとも思います。万人が若やいだかっこうをし、わたくしのような年齢よりも老けて見られる人間のことを嫌う文化というのはいつできたのでしょうか。そこには成熟を厭う文化がありはしませんかと思っているのです。軽薄や、おもしろおかしみのみを重視するばかりではいかがなものか。
落語を聞くのを趣味としています。
あの世界は、やはり成熟の文化です。若い落語家では聞くに堪えない。芝浜でも、立川談志の芸にはしっとりとした趣さえ感じてしまいます。主人公の魚屋さんの女房役を演じたら天下一品。20代の頃から、ずいぶん落語には通いましたから。
また歌舞伎でもそう。成熟の文化がある。これはどうしようもない。
俳句や和歌の世界でも、成熟しているか否かはすぐわかります。小説でもそうです。
いいかげんにしましょう。
こんなことを書き始めたら終わることなし。
本来大好きな分野でありますから、
これらのことについては、また別の機会に記事にします。
ともかく、自己脱皮を常に図り、成熟することへの意欲を持ち、強靱な心身を鍛え、<まことの花>になっていただきたいと思うからであります。
過去に安住し、惰性化し、停滞した後に、あっと言う間に消えてしまう<時分の花>ではいかがなものかと、ささやかながら考える時もあるからです。
こういう視点から、電子映像機械を見ておりますと、わたくしの知っている歌手、芸能人というのは、本当に少ししかいないことに気がつきます。
もっともこれはただ単に向老期にむかっているわたくしの嘆きでしかないのかもしれませんが。しかし、このことは学校における学問、健康体力養成、人物の向上を目指す活動においても同じことなのではないでしょうか。
もっと煮詰めて考えてみたいことの一つでもあります。
これからも。
明日は更新不可能だと思いますので、明後日お会いしましょう。