寂しかった西行・・和歌はそういうものだったのか
西行法師というと、苦い思い出しかない。
なんでか?っていうと、学部の時に、どうしても単位が取れなかったのだ。山家集の講義であった。歌人の教授に教えていただいていだのだが、オレは18歳の学部生の時は、まだまだ和歌を味わう心境に達していなかったと今になって思う。
現実の生活と離反したところの、風流な、生活の苦しみの無い貴族のたしなみとか思っていたのだ。だから、苦学していたオレとしては、和歌と聞くといらいらしてばかりいた。和歌なんぞ詠んでいい気なものだと思っていた。つまらねぇ、こんなのやって何になると思っていたから余計始末に負えない。ある意味現代小説への反発にも通じているのだけれども。
文学というのは、救済の叫びだと心底思っていたし、事実、ドストエフスキーによってそれは確信に変わっていったのだ。ま、現実の生活が苦しくて、オレはそう思わざるを得なかったのかもしれない。
しかし、還暦を過ぎてから、西行の和歌に非常に興味を感じている。それは、あの西行が、恋の歌を歌っているのだということにようやく今になって気がついたからである。しかも、その恋は、殆ど「寂しさ」から来ている。そうだとすると、西行という男は実に面白くなる。
「寂しさ」というのは、今のオレにもある。
非常にある。
ざっくばらんに云えば、大学に行っていても、当然、オレより若い学生、院生ばかりである。クチをきいても、話があわない。これは実に寂しいことである。
もっとある。定年退職したから、もう職業生活で、バリバリ働くこともできない。こいつはとてつもなく寂しいことである。特に、オレはある意味、仕事中毒人間みたいなものだったから、余計そうなのだ。
だから大学に行っているのかもしれない。
定年近くなった時に、仕事しながら大学院に入学して修士課程で人間学の勉強を始めたのも、退職後は精神的にアブナイかもしれないと思ったからやり始めたのである。ま、その前にも放送大学大学院で教育学の勉強もしていたけど。放送大学は、幕張にある。放送大学のトナリにある教育センターに勤務させていただいていたので、興味はあった。学食もよく使わせていただいたし。
寂しさというのは、重要なキーワードである。
寂しいから、人間は家族を作るのだろうと思っている。そして、そのために恋愛をするのだろう。そういうものだろうと思っている。恋愛が先で、家族が後にくっついてくるというのではなさそうだと思っている。鬱も、寂しいからなるのではないかと教育実践の中から感じてきた。臨床的に、ということにでもなるのだろうか。医者ではないので、あまり極端なことは云えないが。
老後の寂しさもこれから出てくるだろう。
仕方ないではないか。
そういうときに、文学があるのだ。
いいものをやってきたのだなぁと、しみじみ思う。
今日は、そんなことを考えた。
以下に西行についてメモを記述しておきます。オレのメモであります。
「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』)
「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」
「大方は、歌は数寄の深(ふかき)なり。心のすきて詠むべきなり」(「深」を「源」とする本もある)
「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)
「西行法師常に来りて物語して云はく、『我歌を詠むは、遥かに尋常に異なり。花・ほととぎす・月・雪、すべて万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの言句は、皆是真言にあらずや。花を詠めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興に随ひ詠み置くところなり。(中略)此の歌即ち是如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此の歌によりて法を得ることあり。もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし』と云々」(『明恵上人伝記』)。
月(六首)
しらざりき雲居のよそに見し月のかげを袂にやどすべしとは(617)[千載875]
【通釈】あの頃はまさか知らなかった。空の遥か彼方に見た月の光を、涙に濡れた我が袂に宿すことになろうとは。遠くから憧れるだけだったあの人の面影を慕い、常に袖を涙で濡らすことになろうとは。
弓はりの月にはづれて見しかげのやさしかりしはいつか忘れむ(620)
【通釈】弦月の光から外れて見たあの人の姿の優美だったことは、いつ忘れることがあろうか。
面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて(621)[新古1185]
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。
あはれとも見る人あらば思はなむ月のおもてにやどす心を(618)[玉葉1484]
【通釈】今私と同じように月を見ている人がいたなら、せめて哀れとでも思ってほしい。月に恋人の面影を偲び続け、その面(おもて)にいつまでも留まっている私の心を。
なげけとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな(628)[千載929][百]
【通釈】悲しみ嘆けと、月が物思いをさせるのだろうか。いやそうでなく、物思いの原因はつれない恋人であるのに、月に向かって、かこちがましくこぼれる私の涙であるよ。
くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな(644)[新古1268]
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。