日本語専攻という留学生は凄い能力だよん
幸田露伴の五重塔を久しぶりに手に取ってみた。漢字が多くて、これじゃぁ現代人には、読まれないだろうなぁと思った。見ているだけでアタマが痛くなるということを書いていた某有名思想家もいたっけなぁ。思わず笑ってしまったが。
知人のTwitterにも、短文でわかりやすくないと、相手にされないよんと書かれてあったが、それにはちょっと納得しない。短文で、わかりやすくということだと、限りなく言文一致体になる。さらに言えば、スマートフォンなんかに見られるような、短縮入力にちょっとした危惧を感じる。つまり、省エネルギー型の手法が蔓延しているからだ。
そうだとすると、万事、省エネである。なんでもかんでもである。
このことは、例えば、小説でも入り口がわかりやすくて、出口もはっきりしているというのと同じである。
論文が良い例である。
はじめにの部分で、仮説と結論が最初に書かれている論文もある。だとしたら読まなくていいと言っているのではない。それをどうやって論証していくかというのが、私なんかは興味があるので、読む。途中が、面白いのである。
入り口がわかりやすいというのは、村上春樹である。しかし、この作家は評価が極端にわかれる。好きな人と、嫌いな人とわかれる。なぜか。それは村上春樹の場合は、深みがあるからである。出口が複数ある。つまり一筋縄ではいかないからである。入り口から村上春樹ワールドに入っていくと、あっと言う間に、複数ある出口からどうやって出ていくつもりなのだ?と聞かれているような気がする。村上春樹の術中にはまることになる。はまりたくないから、私は、すぐ出口から出ていくことにしている。私の出口は簡単であるからだ。自分しかわからない出口だけども。
それで、冒頭に戻る。
幸田露伴の五重塔である。
実は、この作品は、耳で聞くのが一番いい。朗読である。拙ブログにもそういうことをされている方がおられるから、リンクを貼っておいた。露伴ももしかしたら、そういうことを意識していたのかもしれない。
日本語というのは、漢字仮名混じり文という特異な言語である。漢字だけでもない。仮名だけでもない。さらにカタカナまで入ってくる。外来語もある。日本にやってくる留学生で、日本語を専攻している友人も在籍大学でたくさんできたが、よくまぁできるものだとある意味尊敬している。凄い頭脳である。
日本語というのは、目で見る言語なのである。漢字かな混じりということは、耳で聞くことを前提としていない。だからである。だから、露伴の五重塔が難しくなるのだ。
これが、朗読を通して耳で聞くと、そんなに難しいわけではないということに気がつく。
私は、日本書紀とか古事記も耳で聴く。ゆっくりと聴く。文字だけを追っていてはならないと思っている。そもそも、これは古事記を語った稗田阿礼のような超人の記憶から出てきた物語である。基盤は、聴くことで成立しているとすら思っているからだ。
だから私は、スマホのような短文主義はいかがなものかと感じているのだ。Twitterも同様である。FaceBookもである。FaceBookで時々長文の投稿をされる方もあって、むしろ私はそういう方に注目する。書きたいことがあるから書くわけである。私のような暇つぶしで書いている方は少数であろう。
さらに、私の場合は理解力がない。ないから、駄文を書きながらあれこれと考えながら生きている。才能もない。文才という才能がである。
拙ブログのアクセス数も気にしない。
だから途中で何万回アクセスありがとうございますというご挨拶もしない。
究極的には、自分だけ読んで、自分だけ納得していればいいからだ。つまり相手を意識していない。人気とりを考えていないのである。自分だけのメモでもあるからだ。ま、読んでいただけることは感謝している。でもそれだけである。そこから発展して、新たな人間関係を期待しているわけではまったくない。
生涯学習仲間との連絡という目的はあるけれども。
今日も寒いなぁ~。
でもwalkingはやる。
自分のためである。
体重管理だ。
でもあれだねぇ・・・歩いていて、交通事故で死んでしまったら、洒落にもならない。もっとも洒落だけで生きてきたからなぁ。そんなもんだよん。そんなもん。
(^_^)ノ””””