栄町市場おばぁラップ/栄町市場おばぁラッパーズ
最高ですね~。
おばぁ。
手入れの袋を増やしていきまひょ
オンナは、なぜ毎日飽きもせず化粧なるものをしているのか。毎日、1時間も2時間もしている。一般的にである。一般的。それを時々不思議に思うことがある。すっぴんというものを、極端に嫌う。ま、それはそれでいいだろう。オトコにはわからない心理であろうから。
化粧というのは「手入れ」である。つまり放っておいたら、悪化するから。オンナがそうだといっているのではない。放っておいたら荒れるのは、「大自然」の方である。田んぼもそう。畑もそう。放っておいたら、草ボウボウになる。それが悪化しているということに当てはまるかどうか、もしかしたら草ボウボウの方が自然なのかもしれない。しかし、私は「適度に」「手入れ」されているということを問題にしたいのだ。
だからどうなんだ?と叱られるかもしれない。
しかし、田舎暮らしをしていると、しみじみ大自然のありがたさがよくわかる。都会には無い魅力がたくさんある。太平洋もきれいである。晴れていれば。だいいち、天候次第で見え方が違う。これが最大の魅力である。しかも、九十九里浜の隣はアメリカなのだ。
時々、冗談でいうことがある。「隣はアメリカで~す」って。だいぶ遠いが。で、私の居住地でそんなことをいったらバカにされる。そんなの当たり前だからだ。
じゃ、どこでそういうバカな冗談をいうか。
都会である。たまに出かけて行く。そして、宴会があったときに言っていた。「隣はアメリカで~す」って。相手が都会人だとウケた。
しかし、もう宴会にも縁が無くなってしまった。そうなのである。Alcoholが嫌いになったのだ。去年の11月からである。体調を崩した時から一滴もである。においも嗅がない。嗅いだら死んでしまう。オンナの香水と一緒である。さらに、Doctorにもalcoholと離婚するようにとありがたくないadviceをいただいたからだ。ま、自業自得である。仕方がないから、呑まない。
さて、里山も大自然である。
しかし、太平洋とはちょっと違う。規模が違う。それに、里山は「手入れ」がなされている。適度にである。これがいい。これがあるから、森林が活きる。適度に活きる。だから、水がきれいになる。知ってのとおり、森林があるから、昆布がうまくなる。川もそうだ。川の両岸に適度に森林があるから、川も美しくなる。森林がないと、泥だらけの川になる。黄河が有名である。日本では中途半端な川が泥だらけになる。つまり田舎の度合いが中途半端なのだ。もっと言えば、都会化が中途半端だということである。しかし、私は、都会化というのがあまり好きではない。自然がない。どこに行っても、アスファルトである。道路がである。あれじゃぁ面白くもなんともない。
地面は柔らかいから楽しいのである。毎日のwalkingでも柔らかい地面を踏みしめて歩くから楽しいのである。足にもいい。クッションになる。ただし、雨が降ったらしょうがないから、避けて通るしかないが。
そういうのを考えると、人間なんてちっぽけな存在であるし、大自然に生かされているってことである。よく考えるのだ。そういうことを。
都会の人間は大自然ということを考えることがあるのだろうか。
メリットとか、デメリットとか、そういうことしか考えていないのではないのか。ずっと疑問に思ってきたことである。利益があがることが最優先というのでは、なんとも寂しい人間観ではないのか。デメリットがあるからやらないと堂々と言っていた輩もずいぶん知っている。否、知っていた。もう私の周囲には、そんなことを言う輩はいない。
生涯学習をやり始めた時には言われた。今更、そんなアフォ~なことをやってメリットがあるのか?って。時間と銭の無駄だって。
その時からずっと大笑いしていた。じゃぁ、おめぇーさんのメリットってなんじゃ?と。
出世か?
銭か?
生きがいか?
・・・・・・・・・・・違う、違う。
メリットだけで生きていったら、実に侘しい人生である。そのままの人生がいいと言っているのではない。適度な「手入れ」がある人生の方がいいというだけだ。
手入れというのは、生涯学習とある意味、通じるところがある。それはオノレのアタマである。アタマを手入れしていれば、毎日が楽しい。
あ、カミの毛の「手入れ」ではない。私にはそんなもん、まったく無い。縁もゆかりもない。ナイナイのパーである。
ハゲはどっから見ても、ハゲである。だからまったく気にしない。誰かが、私のアタマを見ても、気にならない。気にしないから「手入れ」をしない。する必要もない。
そういうことではない。
アタマの表面ではない。
そうなのだ。中身である。アタマの中身。確かに記憶力が衰えてきている。(もともとそうだけど)
なかなか他人の名前が覚えられない。特に、美女の名前と顔が一致しない。なぜか。それはそういう美女と出会う機会がまったくないからである。ただの田舎爺であるから、パーティなんていうのにも行かない、行けない。そういうチャンスもないし、自分から求めていないからだ。そんなの関係ねぇ~である。
英語もそうだ。
中国語もそうだ。
覚えた気になっても、すぐ忘れてしまう。
ノートをとっても、ノートをどこに置いたか忘れてしまう。だから、目的別に袋を用意している。それぞれの袋に参考書とノートが入っている。塾専用というのもある。在籍大学専用の袋もある。古文書専用というのもある。講師専用というのもある。だんだん少なくなっていくだろうけれども。4月からの老人大学専用というのが、増えるか。楽しみである。楽しみ。老人クラブというのも増えるなぁ。オトコの料理教室というのも増えるな。みんな楽しみじゃ。
結局、「手入れ」ということはそういうことなのである。
手入れの袋が増えることである。
高齢者生活を生き延びることのコツである。
じゃぁね~!
(^_^)ノ””””
田樂師(デンガクシ)の演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口(チユウモングチ)」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた
此神人――中臣・齋部の官人を尊者と稱することはせなかつたけれど、祓へをすました後、事に與つた人々は、それ/″\饗應せられて別れる定めであつた
大殿祭の日の明け方、神人たち群行(グンギヤウ)して延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫(ミカムコ)等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るのであつた
後世、饗宴の風、其宴席の爲に正客を設け、名望ある長老を迎へる事を誇りとする樣になつたが、古代には尊者の爲の饗宴であつて、饗宴の爲の正客ではなかつたのである
後に言ふ朝覲行幸・おめでたごとと同じ系統の壻入りをうちゃげ(宛て字宇茶下(ウチヤゲ))と美濃國で稱へてゐたと言ふのは、疑ひもなく拍上(ウタ)げである
「説明されればわかるだけの能力がオレには、アタシにはある?」
説明されればわかるということがよく言われるようになってきた。世間では、説明責任が流行している。特にお偉いさ... goo.gl/7AhYAi
Facebookのアルバム「オトコの料理講座 平成27年2月10日(火)」に写真を5枚アップロードしました fb.me/3pbUU1ia0
13:25帰ってきました。
ケガ無く帰ってきました。
それがなによりであります。
痛い思いはしたくなかったので。
全部で21名。高齢者ばかり。
むろん男子ばかり。 goo.gl/ipCOqg
世界の製造業 「拠点」が中国からベトナムに?=中国メディア - Infoseek ニュース fb.me/7hfQtSjYc
大甞(オホムベ)は大新甞、相甞(アヒムベ)は相新甞で、なめが獨立して居ないことは、おほなめ・あひなめと正確に發音した文獻のないことからも知れる