と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

奇祭・モットモ爺に怖がる子供

2015年02月12日 12時34分42秒 | 民俗与太話にムチュウ

奇祭・モットモ爺に怖がる子供

わはははっははははっはは!

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天下の奇祭 三谷祭 -蒲郡市-

2015年02月12日 12時30分53秒 | 民俗与太話にムチュウ

天下の奇祭 三谷祭 -蒲郡市-

これまた面白いですなぁ~

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日本三大奇祭の一つ「黒石寺蘇民祭」

2015年02月12日 12時27分48秒 | 民俗与太話にムチュウ

日本三大奇祭の一つ「黒石寺蘇民祭」

奇祭シリーズです。

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みんな過去のヒトの実績にお世話になっているのだなぁ~

2015年02月12日 09時02分12秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

加上説というのにはマイッタ

 

 

現在流布している学問というモノは、以前あった考え方というもの、あるいは説というものに加えていったというのが富永仲基である。文科系の学問の世界では天才肌の大学者だ。こんな凄いヒトはなかなかいない。町人学者で、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日(1746年10月12日))で活躍した。

ウキペディアには「江戸時代大坂の町人学者、思想史家。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている」と書かれている。

否、話題はそんなことではない。

彼が唱えた「加上説」というのに興味がある。特に仏教についてである。鎌倉新仏教は、それ以前の旧仏教を下地にしているというのは、いかな不肖私でもわかるようなことである。しかしである。その旧仏教にもそれ以前の古来信仰があったのではないのか。それを土俗というのだが、我が房総にもあったのではないのか。神道でもない、仏教でもないというものが。はっきりした宗教ではなかったかもしれないが。そんな気がするのである。毎日、walkingで「カコチャン神社」に参拝しているからである。多いときは日に二回行くこともある。祈願することは「健康」だけである。

じつに楽しい話題である。

おっと、私だけかもしれない。こんなことに興味を持っているのは。

しかしである。

加上説というのは、なんでもそうではないか。他人の論文を読むことが好きで、日本中世専門のTwitterで論文を紹介してくださる方がいるから、そこからリンクを辿っていって、論文を拝読させていただいている。それがなによりも楽しみである。印刷もする。だから、書庫のファイルが山のようになる。古女房ドノが怒るわけである。その山となったファイルは捨てるに捨てられないからだ。私が死んだら、処分されるだろうけれども。生きて居るうちは、そういう論文を読むことが趣味だから、捨てないでおこうと思っている。

そして、その論文にも「先行研究」という章段がたいていは存在する。先行している研究を参考にして、さらに自説の展開を図っていくということである。

ある意味当然であろう。

完全にオノレのオリジナルだと言っていたら、おおいに怪しい。そんな天才にはお目にかかったことがない。天才はやたらにいないから天才なのである。

独創というのは、それほど困難なモノである。そう思っている。

だから、概論を述べる、あるいは書いているという方の講演とかを聞くことがあるが、あれはいかがなものかと思っているのだ。

せっかく銭を使って東京あたりまで行って、講演会を聞くことがあるが、たいていは失望してくる。概論講演会が多くて、なんじゃこりゃという失望をさせられるからだ。

もっともあれか。

聞いている方のレヴェルにあわせて、ご高説を発信しているのだろうから、ハラも立たない。あたりまえである。私には聞く資格がないからだ。

ご高説を賜る相手だって、「加上説」なのである。

完全にオノレのオリジナルではないのだ。先行研究があって、それにご自分の勉強を足しているからだ。その典拠を明らかにしていないから、あたかもご自分の説のように講演を展開できるわけである。しかし、それはいかがなものかと思う。やっちゃいけないのではないのか。(^-^)/

私は聞く機会は山ほどあるが、話す機会はないから、ありがたく聞いてくる。しかし、油断なされない方がいい。素直に聞いていると思ったら大間違いである。私のような爺もいるからだ。

個性というのでもない。

そもそも個性なんて信じることができない。ま、このことについてはまだ書いたことがないから、別の機会に書いてみたい。それは個性教育ということで書いてみたい。そもそも、それには反対だからである。

それはそれとして、加上説である。

加上するのだから「前提」というものがある。

前提に加上するわけである。

たとえば、恋愛である。

恋愛の相手に飽きないという前提は正しいのかどうか。絶対にそうか。絶対に飽きがこないのか。私は疑問に思う。そうわかっていいのか。飽きのこない人生なんてあり得るのか。わかってよいのか。

そういうのは真実の愛ではないということも出来る。しからば、なぜ離婚とかがあるのか。トラブルで別れるのか。

恋愛もまた加上説なのではないのか。これまでの経験に付け加えていくのが加上説であれば、恋愛もまた経験の積み重ねではないのか。しかし、この経験は危険である。常に、下半身の病気と関連してくる。ま、これ以上は書かないけれども。

前提を大切にしないヒトは、危ない。人生をなめている。思い切り突っ込んで、死んでしまうヒトもいる。

海外旅行だって、前提を大事にしないから、危険地帯に行ってみたりする。危険だというのは、自分でハンダンしてはならない。あくまで第三者がハンダンするのである。いろいろ情報があるから、危険だというのである。

「君子危うきに近寄らず」という。

私は君子でもなんでもないただの田舎爺である。しかし、そんな私でも、危険なところには近寄らない。用心しながら生きている。

対象になるのは美女である。危険極まりない。美女の周囲には、危険がいっぱいある。近寄ってはいけない。

昨日、テレビでベトナムの旅番組を見ていたら、絶世の美女が出てきた。世界ミスコンのベトナム代表だそうである。あまりにも美しいので、見とれてしまった。しかも、あのアオザイというのを着ておられた。Styleも抜群である。

ほほえみもいい。実にいい。

しかし、テレビで見ているほうがいい。お会いしたら、いくらかかるかわかったもんじゃない。危険そのものである。

それでも、私はベトナムにも行ってみたい。ほほえみを見てみたい。それほど魅了するからである。

それもまた、これまでの経験に加上していくだけかもしれない。

 

 

またまたつまらないことを書いてしまった。

今日は、高校入試だ。

関わっている塾の生徒たちの健闘を祈ってくる。「カコチャン神社」へ。Walkingのかたわらである。

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

 

 

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2月11日(水)のつぶやき その2

2015年02月12日 07時55分07秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

過去三百年間の発展がもたらした数多くの問題を解決するためには、新しい認識方法や新しい意識のありようへ達しなければならないと確信している。社会的領域でもそうだし、経済の領域、文化の領域でもそうだ。 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

ああ、魂がなんだというのだ!魂など、とうの昔に道すがらどこかで忘れてきてしまった。未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう。そう思いませんか? 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

美とはその本質において超越的なものだと、私はいいました。つまり此岸のこの世界だけではまるで把握できないものなのです。いわば別の様々な世界からこの世に降り注ぐ光であり、その中で全ての事物の意味が変わります。 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

どんどん外に出ることですよん。
爺になったら。 fb.me/4eXFoIvVN


電気シェーバーでスキンヘット?を実演してみる 1/3 blog.goo.ne.jp/tym943/e/fd6d3…


栄町市場おばぁラップ/栄町市場おばぁラッパーズ blog.goo.ne.jp/tym943/e/82760…


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2月11日(水)のつぶやき その1

2015年02月12日 07時55分06秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

手入れの袋を増やしていきまひょ

オンナは、なぜ毎日飽きもせず化粧なるものをしているのか。毎日、1時間も2時間も... blog.goo.ne.jp/tym943/e/70877…


スキンヘッドにしてみた:やり方や感想など! goo.gl/meeJDt


僕の本では「汝の欲することをなせ」は人生の規則ではないということだ。「はてしない物語」ではこの言葉はあそこだけ、この言葉が相応しいと僕が思うところだけ、つまりファンタージエン、想像の王国、芸術やポエジーや夢の王国だけで有効なのだ。 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

シュタイナーの芸術思想は、どうしても私は受け入れることができないし、今でも間違いだと思っています。なぜかというと、一言でいうならば、「暗黒が欠けている」と、言えるからです。 『ものがたりの余白』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

日本の友人と話をすると、いつも感じます。ヨーロッパ人がするように、物理的なもののなかに、そんなに深く入り込むことを好まないようですね。日本語での話も、いつもちょっと上を漂っているようで、暗示にとどまるようです。 『ものがたりの余白』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

アジア人は自分の身体の中に、それほどしっかり座っていない。すべてはもっと通過性がある。もっと、さらに、そう、柔らかいというより、もっと透き通っているのです 『ものがたりの余白』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

子どもがどのようにして学ぶのか、これが私にとり、この世に存在する最大の謎なんです。大人たちが話している音に、なにか意味があるとわかる。そして、「なおさら」のような、難しい語の意味を、子どもは本能的に把握することを学ぶ。 『ものがたりの余白』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

私たちはみんな、ゲーテが「精確なファンタジー」と呼んだ能力を発達させなければならない。私たちはまったく新しい概念や観念を学ばなければならないし、あるいは従来のそれを全く新しい、今までとは異なる関連付けをすることを学ばなければならない。 『だれでもない庭』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

「魔術」とは、物であってはいけないものを物にすることを意味する―もっとはっきりと言えば、無償であげることだけがゆるされるものを、お金と交換に売ること(貨幣価値、つまり権力)。それは勿論、私たちの商業化した文化では、絶え間なく、至る所でおきている。 『だれでもない庭』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

芸術家はどんな場合でも孤独です。成功して世間に受け入れられても、成功せず受け入れられなくても、です。 『闇の考古学』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

僕には、「汝の欲することをなせ」がヨーロッパの歴史全体を通じて響いているような気がする。あの、もう一つの言葉「グノティ・セアウトン」の、いわばその片方として、そもそもこの二つの言葉は対だったのかも知れない。「汝自身を知れ―そして、汝の欲することをなせ」 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

批判能力は直接育てたり、教えたりできるものではない。そうではなく、それとは全然違う発達プロセスの、後の成果でしかありえないのだ。子どもたちに適当な尺度と必要な見通しが与られるプロセスである。 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

”ほのかな暗示”という、この演劇形式の基本要素は、観客の知性と感受性と創造的な想像力とを、当然としてあてにしている。こうして能は観客に最高の敬意を表するのだ。 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

本当は、批判的な姿勢から子どもたちは何も学びとらない。世界も知識も技も尺度も得ることがない。その逆で、子どもたちがそれらを得ることが妨げられる。そして、本当に身につけることがなにもないため、子どもはいつか、一種魂の栄養不良に苦しむことになる。 『エンデのメモ箱』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

「~からの自由」と「~への自由」。前者のような意志は、まだゼロなのです。中身のない自由意志は、空虚な能力です。意志が動因となるためには、目標が必要です。意志を、何らかのイメージと結びつけることが必要です。 『芸術と政治をめぐる対話』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

ジェイムズ・ジョイスは、よく言われるように、ヨーロッパ現代文学の父です。ですが、ジョイスの文学、ジョイスの文学理解は、まさに私のとは違うものです。とても重要な役割を果たしたけれど、もう過去のものだと思います。 『芸術と政治をめぐる対話』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

(シュタイナーなどは、芸術家ということになりますね?という問いに対して)いいえ、芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。 『芸術と政治をめぐる対話』

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シュタイナーの著作を読むときには、決して彼を現代の大学教授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。彼自身、再三それを警告しています。しかし現実には、やっぱり彼の願ったのとは反対のことが行われている。 『エンデと語る』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

認識の所作とは反対の所作が、芸術の所作ということになります。芸術家は認識するものではありません。芸術はいまここで、もっとも広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。 『闇の考古学』

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人間には神話が必要なのです。神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれますから。人はそれを指針にできる。 『ものがたりの余白』

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死の力はすでに超越的な力で、これは生の力とはちがい、まるで異なるものに働きかけています。 『ものがたりの余白』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

人間の死とは、生涯において私が私の身体に対しておこなう破壊行為の総和なんです。しかし、この破壊行為は、そもそも私が人間として生きられる、その前提条件なのです。 『ものがたりの余白』

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シュタイナー自身の辿った非常に論理的かつ哲学的な準備過程を抜きにして、彼の秘教的側面だけを取り上げると、宗教か神秘主義かオカルティズムの奇妙な一派が、また一つできたというだけのことになります。そのやりかたでは、新しいものは何も得られないし、何の救いにもなりません。『エンデと語る』

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「妖術」とは、無償の贈り物としてだけ受け取っていいものを、得る、あるいは得ようとすること。この意味では、私たちの今日の科学や技術の大部分は「妖術」といえる―力ずくで、許可もえず自分のものにすること。および精神的な関連を物的利益のために利用することだ。 『だれでもない庭』

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

私たちは、わが子や孫に向かい、来る世代に対して、容赦無い戦争を引き起こしてしまった。私たちは砂漠と化した世界を子孫に残すことになるだろう。子孫がそこで生きることはたやすいことではない。だが、子孫は応戦できないから、私たちはこのまま更に進めてゆく。もはや、これ以外のことは出来ない。

Waishan Richunanさんがリツイート | RT

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/