第8回 心と命のフォーラム「生きる作法・死ぬ作法」
内田樹が語る、政治か?教育に介入してはならない理由(ラシ?オフォーラム#81)
I am with you 【東儀秀樹】 平山郁夫画伯を偲んで
なんだかわからないうちに
最近、「生老病死」ということをよく考える。これは、人生の分類であって、なにも仏教の専売特許ではないとまで思っているのだが、ここまでいうとさすがに言いすぎである。熱心に信仰されている方々から叱られる。だからここまでにする。しかし「分類」であるという実感はかなりある。仏教というのは、まだまだよくわからないけれども、非常に優れた思想哲学のような気がするからである。なにしろ西本願寺の中央仏教学院でちょっと勉強しただけであるから、なにも言えないケド。
つまり、なんだかわからないうちに生まれたというのが「生」。
なんだか知らないうちに、年をとって老人になったし。
病院に呼ばれて、わけのわかないうちに病人だと宣告されたし。
そして、死にたくないのに、わけがわからないままに死ななくちゃならない。後がつかえているとか言われて。
これも「分類」ではないのだろうか。
しかしながら、我々は「生」しか考えていない。利潤の追求しかアタマの中にない。そりゃそうだろう。毎日精一杯生きていかなくちゃならんからである。私だって、そうだ。乏しい年金で、やっと生きているだけだ。バイトだって、なかなか生活費の足しにはならない。書籍代しかならない。だからいろいろ工夫しながら生きているだけである。100円ショップメインの買い物をするとかである。そのほかの内容は書けないが。書いたら恥になるから。
「生」しか考えていないというと、不倫のことが突然私のアタマに浮上してくる。
愛には終わりがあるという書籍「愛はなぜ終わるのか 結婚・不倫・離婚の自然史」を紹介したことがある。拙ブログで。バレンタインデーの翌日に書いた記事である。タイトルは「求愛行動のパターンが、バレンタインデーだった?」というものである。以下、ちょっと紹介する。
なぜ結婚するか。
なぜ不倫をするか。
なぜ離婚するか。
なぜ再婚し、もう一度運命を試してみようとするのか。
なぜ他のヒトでは無く、ある程度の相手を恋するのか。
一目惚れとはなんなのか。
昨日はチョコレート会社の売り上げに協力する日であったらしい。千葉市に出かけたので、愛車のラジオがそうがなり立てていた。それこそバカの一つ覚えみたいにである。クルマの中で、どの番組もどの番組もそうやって、バカをやっていたので、とうとう書き出しのようなことを考え始めてしまった。
世界42カ国の文化圏の不倫データについて研究したヘレン・E・フィッシャー女史が書いた「愛はなぜ終わるのか 結婚・不倫・離婚の自然史」(草思社 1993年3月)を思い出したからである。
この本は、愛もへったくれもない。実に自然科学的な書籍である。この本を読むと、文学なんて吹っ飛んでいってしまうくらいの迫力がある。マイッタと思う。
つまり、人間の行動は動物と一緒だといっているようなものだからだ。不倫をなぜするのかということでは、なかなか感心した。それは種を保存するためのある種の「保険」であるというのである。例えば、動物のメスは、配偶者が突然死んでしまったときのことを考えているという。自分の子どもと、自分自身を守ってくれるものがいなくなったら、安全では無いということになる。だからである。だから、群れから離れてひっそりと森を脱出して、気に行った別のオスと不倫行為を行うことになるというサルの分析である。
人間も共通している。
そもそもオスの方だって、ハーレムを作りたがる。自分の遺伝子を数多くばらまきたいという欲求からである。だから、相手のメスは多いほどいい。それだけたくさんの自分のコピーができるからである。
人間も同じである。
さ、そこでだ。
分類ということが、俄然興味の対象になる。私には。不倫の分類である。動物との違いもむろん興味の対象になる。こっから先は、エルンスト・マイヤー先生の「ダーウイン進化論の現在」(岩波書店)の説を参考にしながら考えていたのだが、なかなか難しい。
生物の専門家から見たら、バカみたいな読解力しかないからである。私には。
しかし、素人の私でも、分類が必要だというのはわかるような気がする。
マイヤー先生は、四つほど種の概念を別けておられる。それを紹介するのは避けよう。所詮素人だからである。(①類型学的種概念 ②唯名論的種概念 ③進化学的種概念 ④生物学的種概念と私のノートには書いてあった)
悪いアタマでノートにとっていると、だんだんこういう分類でもって、世の中成り立っているのかもしれないと思うから奇妙である。奇妙なのは、すべてである。すべて、奇妙なものである。
冒頭に返ると「生老病死」もまた実に奇妙である。つまり、「なんだかわけのわからない」うちに、時間がたって、それこそ「生老病死」を経験して、一巻の終わりになってしまうからである。
サルもまた同じである。
森から出ていって、支配者のボス以外のイケメンオスと不倫をしていても、終わりはくる。いかな子どものために保険をかけているといってもダメである。そもそも、そういう行為を行っている二匹だって、愛の分類からは逸脱している。だからである。だから、愛なんて存在しないということなのである。種の保存行為だとするなら、ただの生殖行動でしかないとまで私は感じたのだ。
人間もまた同じである。
動物だからだ。
だからこそ、愛を尊いものとしている宗教も存在するのであろう。動物だからこそ、汝姦淫することなかれと説くのであろう。つまり守ることが不可能だから説教されるのである。愛もまた同じ。終わりになるから、放っておいてはいけないという教えなのであろう。
そう思うのである。
なんだか知らないうちに爺になってしまった私には、いろいろと理解できないことが多すぎて最近は困ってしまう。
スマホ然り。
テレビもなかなか難しい。
昨日の晩、私の家のテレビとノートパソコンをYoutubeで同調させて、パソコンで探したYoutubeの動画を無線LAN経由のテレビで見ることができるという。おもしろそうだからチャレンジしていた。しかし、これがとてつもなく難しいのだった。
結果的には見る事ができた。こたつにあたりながら、古女房ドノと一緒に台湾に行くので、台湾動画をノートパソコンのYoutubeから調べて、テレビと同調させて彼女と見ていた。
これだと、活字だけで台湾について勉強しているよりもいい。いい使い道を知ったものである。
でもあれか。
これもまた、なんだかわけのわからないうちに、テレビを見ていたっていうのと大して変わらないか。
世の中は、わからないことだらけだ。
整然と分類するなんてできない。それが、世の中なのかもしれないからなぁ~。
今日は、市のスポーツセンターでママさんバレーボール大会があるそうだ。Gymはやってくれる。駐車場が満車になるかな?マイッタな。Gymの帰り、お目々の保養のために、美しいママさんたちをちょっと見てくるけど。2階から。まさか、きゃ~不審者だと言われないだろうな。それだけが心配である。
今日も爺の戯れ言から始まりました。絶好調でございます。今日の天候と一緒。快晴、快晴、ゼッコーチョー。
サラバ。
(^_^)ノ””””
*16:21、gymから帰ってきたら、バレー大会は大会でも、なんと中学校の大会でありました。明日は卓球大会だそうな。報告です。
うわぁ~、おめでとう!
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想像力の問題は人間の自由の問題と切っても切り離せない。その存在の前提条件において、人間は決して自由ではないのだから。なぜなら、過去が形となったのが存在の前提条件なのだ。人間が自由なのは、自らの中から創造的に何かを生み出し、そうして自分の未来を形成することにおいてである。
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812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない(スッタニパータ)
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【地蔵ころがし】尾花沢市北郷の小正月の行事。北郷地蔵堂の地蔵を縛って引き摺り、各家庭を訪れる。手荒に扱うのは親交の証とされ、地蔵像を雪まみれにする。家の玄関先で雪を落とし、この時、雪が散らかる方が縁起が良い。嘉永年間に菅野惣八が四国などを行脚した時に背負っていた地蔵だと伝わる。
エトガル・ケレット著『突然ノックの音が』(母袋夏生訳)、見本ができあがりました。イラストは竹田匡志さん、本谷有希子さんに推薦文をいただきました。27日発売ですが、都内では配本日の25日中に店頭に並び始めるところも多いと思います。 pic.twitter.com/LPyGozSVKC
蝋人形の陳列室では、想像上のものやフィクションと、現実との境界がまさに消えているわけで、そのために見物人がショックを受ける。そういうのは、どう転んでも芸術とは程遠いしろものだ。そういうのは、嘘でしかない。嘘というのは自分をフィクションだと知らせないフィクションのことだからね。
西新井大師・總持寺 塩地蔵:東京都足立区に所在。江戸時代から身体のいぼ取りに霊験ありと伝えられている塩にまみれた仏像。功徳があった場合、倍の塩をお返しするところから塩地蔵といわれるようになった。 pic.twitter.com/dKGW68Tqe4
ジュノ・ディアス「モンストロ」(都甲幸治・久保尚美訳)は都甲幸治著『生き延びるための世界文学』に、円城塔「Printable」は『GRANTA JAPAN with 早稲田文学 01』に収録されています。
よかったねぇ~、この番組。
成田駅前にもこういう店があったっけ。
帰り、電車を待っている時間帯に、ちょいと一杯やっていたのだった。 fb.me/7oqjx9iFb