小林秀雄「個性と戦う」
趣味の多い一生だよん
昨日、居住地の図書館まで歩いて行って、古文書の影印本を見ていた。崩し字読解辞典を携行して行ったから... blog.goo.ne.jp/tym943/e/8c176…
先ほど朝日新聞大阪版でとりあげられた件を紹介した山本昭宏著『核と日本人』ですが、今度の週末の読売新聞でも書評が掲載される予定です。yomiuri.co.jp/book/review/ne…
【3月刊行予定】佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』buff.ly/1vNY1SR 鳥羽院政期から鎌倉中期に至る王権を対象に,家長権のあり方と王権領荘園の伝領を具体的に分析し,日本中世のあり方を見通す.中世的「家」の成立をめぐる皇位継承と権力の問題から読み解く.
お茶飲みながら読むような記事ではなかった。むせてマジ危険/硬派老舗ヘビィメタルバンドのベーシスト脱退劇に見る「退職ポエム」の新パターン | しらべぇ sirabee.com/2015/02/13/182… via @sirabee_news
宗教、神学の終末論は、それが未来を証明し、存在の目的を掲示する一箇の神託のように、哲学的な明証を「補完」しているかに見えるが、それは信念-憶測が明証性に摩り替わってしまっているだけなのであって、それでは終末論は戦争に発する全体性の存在論を、既に受け入れてしまっていることになる。
今こそ勇気ある人は、逆のことをすべき地点に至りました。新しい価値を見つけ出す、それを勇気を持って提案する、それこそこれからの思想家の課題です。私はそのために闘わなければいけないと考えています。 『三つの鏡』
CiNii 論文?-? 『吾妻鏡』に見える彗星と客星について ─ 鎌倉天文道の苦闘 ─ ci.nii.ac.jp/naid/110009553… #CiNii
長隆寺阿弥陀三尊像:愛知県一宮市の南西部の寺院。無住となったため、現在は本尊の一宮市博物館にある。南北朝期の円派仏師・法橋良円(三条少納言常円の子)による制作である。鎌倉後期の円派仏師による基準作例として注目される。 pic.twitter.com/m1xzt3J6p3
【猫の宮】高畠町で祀られる猫の宮の猫は南陽市日影に住んだ猫だという。ある時、村に祭文語りが来たが、老婆だけ留守番していた。そこに家で飼っていた猫が入ってきて語り物をした。猫は祭文を語ったことを秘密にしてくれと頼んだが、老婆は猫のことを家族に漏らしたので猫は家を出て高畠に逃げた。
【3月刊行予定】都築誠二『有機分子の分子間力 Ab initio分子軌道法による分子間相互作用エネルギーの解析』 buff.ly/1vNXYGo 読者が独力で分子間相互作用を解析できるよう,具体例を示しながら分子間力や計算方法について体系化したテキスト.
南山大学ではガウンが必須らしい。→「卒業式典で着用するガウンの貸出」
“ガウンを忘れた場合は、卒業・修了者として卒業式に参列できません。”
office.nanzan-u.ac.jp/KYOUMU/rishu-s…
うちの大学で着たら仮装レベル…。→東京大学「式典でのガウンの着用について」
u-tokyo.ac.jp/stu01/h15_05_j… pic.twitter.com/csKPSsKY0n
吉野水分神社木造玉依姫命坐像:女神をモデルとした神像。玉依姫は神武天皇の母とも、卑弥呼であるとする説もある。いわゆるタマヨリビメという建国神話に登場する女神を指すのであろう。鎌倉時代の作品。 pic.twitter.com/SOy6PCKioD
酷寒に耐え修験者が「水行」 福島の中野不動尊 | 福島民報 minpo.jp/news/detail/20… @FKSminpoさんから 平安時代から続くとされる修験者の「水行」が15日、福島市飯坂町の中野不動尊で行われ、参加者が一年の無病息災や家内安全などを祈願した。
中国語では「羊」は「ヤギ」と「ヒツジ」の両方を意味するんですね。今週始まる中華圏の旧正月を前にブランド各社からヒツジやヤギグッズがこぞって発売。→【スライド】今年のえと「羊」にちなんだギフトアイテム on.wsj.com/1EAIq82
「中国製」に空前の危機、製造大手の倒産や撤退が相次ぐ=中国メディア - Infoseek ニュース fb.me/2JdFmamRo
2014.6 千葉県南房総市 初夏の房総半島 パラグライダーフライト goo.gl/oelSWo
2014.5.18千葉 九十九里浜&御宿海岸 blue sea&sunset
勝ち組とか負け組の登場
勝ち組とか負け組とかよく言われる。
どこでどうなってこんなくだらない言葉が登場してきたのだろうか。ふと、そんなことを思った。
バブルが崩壊してからそう言われるようになってきた気がする。つまり閉塞状況になってきてからではないのか。何をしたらよいのかわからなくなったから、ボーゼンとして、開いた口を閉じることもなく、「勝った、負けた」とか言っているのではないか。
勝ち組の上には、さらに勝ち組がいる。逆もまた真なりと言われる。果たしてそうか。何をもって、勝った、負けたと言っているのだろうか。前提はなんなのか。年収か?社会的なステータスか?顔の美醜か?身体つきか?世界ミスコンに出たからか?一流大学を出たからか?根拠はなんなのだ。・・ああ、書いているだけでバカバカしくなっちまう。しかも、負け組の方には、自己責任論まである。天下の暴論である。もっとバカバカしくなる。こっちの自己責任論は、某総理大臣のときから言われ始めたような気がするから、余計しまつにおえない。政治家がそういうことを言っていいのかねぇと思うからである。
そもそも、根本に相互比較がある。
相手を気にしすぎるのだ。いつもいつも相手があって、比較している。比較というのは、少なくともオノレ自身に関しては意味がない。
特に生涯学習にはまったく意味がない。
成果を比較して、あっちに勝ったとか、こっちに負けたとかというような話では無い。好きでやっているのだ。自分勝手にやっているのだから、点数を比較してどーだらこーだらやっていたんじゃ、面白くもなんともない。
目標にするのならわかる。
あっちをこっちを。つまり相手をである。しかし、それは勝負事の範疇ではない。
むろん、評価とは別である。
それは師匠がするものである。
それはそれ。師匠の評価が低かったら、頑張るしかない。当たり前のことだ。
私の人生はそれを繰り返してきた。むろん、師匠の評価が低かったからである。小学校からずっとそうだった。ま、不徳の致すところである。仕方がない。
しかし、師匠の評価が低かったから、なんでも自分で工夫することを覚えた。図画工作も書道も音楽もダメだった。だから、「自分なり」に工夫することを覚えた。覚えさせていただいた。下手でもなんでもいいいから、自分で工夫するということであった。これが一番の財産である。
つまり「自分で考える」という姿勢が身についたのだった。以来、ずっとそれで生きている。
あいつに勝ったとか、負けたと言ってもそれはそれ。例えば、柔道しかり。勝っても、負けても柔道は柔道。むしろ、オノレと勝負していただいたことに感謝すべきである。だからハンダンの基準はオノレ自身というこっちにある。相手にはない。勝っても負けても、オノレの実力の向上や、技を工夫する材料にすればいいのである。
それをである。
結婚していないから、お一人様で暮らしているから、そういう方がたとえ会社でエリートとしてばく進しているからと言っても、少なくとも家庭生活では負け組みではないかというのは、どこか間違っているような気がする。
普通の庶民の生き方がいいのだということを、勝ち組とか負け組派は言っているのだろう。
しかし、普通の庶民派が一番勝っているという上から目線で言っているだけなのではないのか。
そう思う。
つまりどっちもどっちである。
そういう視点から考えると、いわゆる市場原理ということにも疑問を抱かざるを得ない。
ニーズという言葉もある。
市場原理がすべてを支配している。昨今の日本は。選挙もそれである。投票率を異常に気にする。ま、選挙というのは市場原理の最たるものであろうから、それに政治についてはいろいろ差し障りがあるからこれくらいにするが。
しかし、本当にそうか。
市場原理だけで世の中は動いているのか。
利益を生み出さないものは、不要だというのか。
だったら、爺や婆は、要らないのか。
そのとおりだと言うのなら、世も末である。仕事という利益を生み出すツールは、永遠に続くわけではないからである。「生老病死」というではないか。誰でも、老いて、病気になる。そして最後は死ぬ。生きているってことは、そういう四苦を背負っているということである。仕事だって、定年がある。ま、自営の方は、死ぬまで働けるだろう。ある意味、うらやましいことだ。しかし、そういう方はどちらかというと特殊な才能があるから出来るのであろう。農家の方もそうだ。死ぬまでできる。町医者もそうだ。老いてもできる。たいしたものだと私は普段から思っている。
だからごく少数かも知れないが、市場原理からかけ離れている方もいるのである。
それをどう説明するのか。市場原理支持者という「原理主義者たち」は。原理主義に陥ると狭隘な世界に閉じこもりがちになる。周囲が見えなくなる。オノレだけが正しくて、他人はバカに見える。それでいいのだろうか。
あまりにも強固な信念にとりつかれて、他が見えないというのはそれこそ時間の無駄である。
かつて、私は唯心論というのに非常に興味があった。柔道でもそう。気力が一番と思っていたし、気合いを入れて試合するとなんと勝ってしまったことも多々あったからである。
だから、退職するまで、人間はこころのあり方が一番大切であると思ってきたのだ。
しかも、こころは胸にあるとまで思っていた。
こころのあり方がすべてを決定すると思っていた。
こころが不安定だから、生活する上で不都合ができて、いろいろ仕事でも失敗するのだと思っていた。
全部違っていた。
退職して初めて気がついた。
こころは、アタマの中にあったということに気がついてしまったのである。特に、去年である。体調を崩して、11月に入院した。都合3度ほど失神した。それではたと納得したのである。こころは、アタマが支配しているということをである。
鬱病だって、こころの問題ではない。薬を飲めば治ってしまう。
もっと身体的な問題が非常に多く隠されていると、遅まきながら気がついたのである。
もう遅いケド。
じゃぁ~
(^_^)ノ””””