今日は天気がいい。だから、おもしろおかしく生きていきまひょ。
おもしろがって生きることが大事である。しみじみ、そう思う。加齢とともにそう思う。爺になって、世の中を斜めに見るのも一興。こんな「垂れ流しブログ」を書いているのも、一興。ま、中には、こんなくだらないブログを書いてなんになるのだ?=便所の落書き以下ではないかとか、僻み・嫉みのオンパレードだとか(嫉み・嫉みといううよりも、嫌味といったほうが正解だ)、だったらもう止めればぁ~、生涯学習と一緒でカネと時間の無駄だという人もいる。だったら見なければいい。実際の私は、おもしろがって生きているだけであるから。
これが、私はインテリである、エリートである、イケメン爺で、モテテモテテでどうしようもないと書いていたらどうなるか。それこそ嘘のオンパレードである。バカである、バカ。
私は、それに素直でないという性格でもある。耳も悪い。ワルクチが聞こえない。先天的に聞こえない。
しかし、私は、他人のワルクチは言わない。そもそも他人に関心がない。実際、私に会ったら、びっくりなされるだろう。文章とあまりにも違うからである。そうなのだ。私は言葉づかいが実に丁寧である。ため口をきかない。誰に対してもそうだ。
文章を書くのが下手だからというのもある。つまり、私は「断定短文」であるからだ。実に短く書いている。だから、かなり乱暴な性格だと思われるかもしれない。しかし、クチのききかたは丁寧にしている。こういうのは、論文体には適してない。論文体は、もっとねちねちと書かないとならない。一番苦手である。私には。
論文と言ったって、私のは雜文である。エッセー風、ブログ風といってもいい。だから学会の査読で落ちる。
むむむむである。
文体ということでは、野口武彦センセの「三人称の発見」という好著がある。(筑摩書房 1994年6月)
「江戸時代は、三人称を知らなかった」という有名な書き出しから始まっている。日本語は、終助詞の働きで人称を現しているという。一人称、二人称、三人称の区別がなかったとも書かれている。それをいろいろな資料を駆使して論証されている。浄瑠璃も、平曲も、幸若舞も出てくる。徂徠についての言及も楽しいモノである。今まで、こういう視点から人称のことを考えてみたこともなかったから、目から鱗である。
しかもだ。野口センセは、「以下のエッセイは・・・」とご自分の著書を紹介している。マイッタね。こんなレヴェルの高い、御著書をなんという謙虚な言い方なのだろうと思った。
断定短文ということでは、志賀直哉も思い出す。実にいい。文章がである。しかし、彼は何を書きたかったのであろうか。倫理の問題であったのだろうか。有名な「暗夜行路」だって倫理のことではじまり、なんだかワケのわからない終わりかたで、すすすうすすーと終わってしまう。倫理道徳の具体的検討であると書いたら、志賀直哉ファンに叱られるか。漱石も、ちょっと倫理の臭みがある。「三四郎」だって、「ころろ」だってそうだ。
文学は倫理ではないと言われる方もおられるだろう。しかし、文学はそうではないというフリをしただけだと私は感じている。実際は、倫理を書いているではないか。自然主義文学だってそうだ。明治大正の文学は、痛々しいほど倫理的である。セクハラで責め立てる現代のマスコミ以上である。マスコミも倫理の問題を扱う点では凄いものがある。もっとも、売れるからというのもあるだろうから。それに、文学もマスコミも韜晦に陥っている。
そこで深沢七郎のことを書く。
彼は、不気味である。なに、私が言ったのではない。かの有名な三島由紀夫が言ったのである。三島は典型的な知的な枠組みで書く作家である。緻密で、作品も実によくできている。しかし、三島には、深沢七郎のような作品は書けない。
なぜか。
三島には自然がない。都会人である。しかも人工的な、知的な作業としての創作がある。
深沢七郎は違う。
自然がある。育った環境も違う。有名な「楢山節考」もそうだ。自然を正面から扱っている。そして老いも正面から捉えている。逃げていない。「死」からである。老いというのは、動物も含めて、自然界では当然のことであるからだ。これは深沢七郎の人生観でもなんでもない。「楢山節考」の方は、老いた自分の母親を姥捨て山に捨てにいく。しかし、残酷だというのでもない。
捨てられる母親だって、なんと言って息子に背負われていったのか。それをもう一度確認したいものだ。
中世的な認識があったのだ。つまり「生老病死」である。昔の人には常識であったことだ。その中で、「老い」と「死」をみつめたのが深沢七郎である。現代社会から排除されているテーマである。だれも自分が老いて、死ぬとは思っていないからである。
全部、他人の話であって、まさか自分だけは死なない、病気にもならない、老人にもならないと思っている。残念だけれども、全部反対である。誰でも、死ぬし、病気にもなるし、老人になっていくのだ。残念ながら。だから、他人のワルクチなんか言っている暇があったら、いささかの時間を使ってもうちょっと考えることである。ご自分の行く末を。こんな垂れ流しブログなんか見ていないで。
先日、このブログで「みちのくの人形たち」を紹介したが、あれもまた老いと死と自然を扱っている。間引きのことである。産婆をしていたみちのくの旧家で、両手のないおばーさんが先祖にいると書かれている。間引きのことで、両腕を自分で切断したとも書かれている。ちょっとこの設定は無理があるが、ま、書かれているのだから仕方がない。さらに、逆さ屏風のことも書かれている。屏風を逆さにするということは、死を意味する。
後は、ご自分で読まれたほうがよろしい。
さ、今日は天気がいい。
おもしろおかしく生きていきまひょ。
ノートでもとりながら。
わははっはははは。
(^_^)ノ””””