高血圧患者に朗報簡単な運動で血圧を下げる方法をためしてガッテンが紹介
腰痛予防のためのストレッチ体操(夜寝る前、朝起きた時にお勧め)
これ結構よろしいようで・・・
カミはカミでも、***ドノのことである
いきなり「オカミさん」のことを書く。つまり古女房ドノのことである。あるいは、女房族一般のことである。そんな簡単にオンナのことがわかってたまるかという方もおられるに違いない。オンナのことを知るためにどっだけ、苦労してきたかという御仁もおられるだろうから。無駄な時間と、無駄なカネを費やして。そりゃそうだ。ましてや、アタシャ、相手は誰でもいいから、甘い恋を語ってきたというような体験もない。だいいち、スキンヘッドである。誰も相手にしてくれない。もしかしたら、古女房ドノだって、私がいつまでも生涯学習を気取って銭と時間の無駄をしているから、もう徹底的に呆れているかもしれない。だからこっちもダメである。相手にされていない。
いや、そんなことではない。
「オカミさん」のことである。これは「カミ」のことである。「カミ」に「オ」をつけたのだ。尊称である。わははははっはは。
ま、冗談はともかく、なんのことを書きたいのかというと、こういうことである。
つまりカミはカミでも、神のことである。特定宗教に関心はないと書いてきたから、そういう勧誘とかのことではない。ご安心を。
宗教一般のことである。一神教の神は存在するかしないかという問題を、今朝起きる前に布団の中でふと思ったのである。仏教は、一神教でいうところの唯一神というのはいない。じゃ、なぜ神の存在が問題になるか。ましてや、神のためには戦争も辞さない民族が世界にはいる。そういうことである。
神がいるかいないかという問題の前に、じゃぁ、神の規定はどうなってんの?とふと疑問に思ったからである。前提である。前提がしっかりしていないと、なんでもそうだが話にならない。
キリスト教のバイブルはこれまで、通読7回完了している。本当である。旧約も新約もである。遠距離通勤をした時もあったので、通勤時間中にやっていた。さらに、電子辞書にデジタルのバイブルもインストールして読んでいた。しかし、結局信仰を得ることはできなかった。楽しかったけれども。
そうなのである。どうしても神の規定、前提でひっかかることがあったのである。信仰するということは、無条件で受容することである。宗教の矛盾をである。不合理を受容できるか、できないかということである。
よく言われることで、高野山の空海が今でも千年の時を超えて生きていなさるから、食事を捧げている。あれも私は前提として、受容できない。不合理だからだ。空海は人間である。まだ生きているということは、人間としての前提から外れている。だからである。だから、受容できないのである。
バイブルでは、「神は偏在している」「全知全能である」「世界の創造主」であるとする。
「神は偏在している」ということではどうなのだろう。ここで、古女房ドノが登場してくる。古女房ドノも偏在している。家の中ばかりではない。世界に君臨している。なんでも知っている。ちょっと私が悪いことをたくらんでも、たちまちのうちにバレてしまう。小遣いが足りないからとちょろまかしていても、必ずバレる。バカみたいにバレる。へそくりができないからだ。参る。まったく参る。あ、この参るという言葉も古典語では、へりくだった語である。下から上へ参上するという意味である。反対が罷るである。上から下へいく語である。まったく参る。
「全知全能である」では、人の理解に関わる全部を包含していることを意味する。これもまた全知全能である古女房ドノと一緒である。彼女はなんでも知っている。食事、家事はいうに及ばず、私の貯金高も知っている。私のパンツのサイズまで知っている。暗記している。ちなみに私は、なんにも知らない。知る必要がない。しつこく古女房ドノにサイズを聞いていたら、そりゃ家庭内セクハラになっちまうからだ。そんな無意味なことはやらない、やれない。
「世界の創造主」ということではどうだろう。なるほど、私は母から産まれている。確からしい。というのは、記憶にないからである。記憶にないから、後から両親や、周囲の親戚に聞いてそう思ったのである。つまり、人間はオンナから産まれる。オンナがいなくちゃ、世界は産まれない。産まれた本人は記憶が無くても、産んだ母は覚えている。覚えているから、いつまでも、子どもであるこっちをガキ扱いして説教をしてくる。いつまでもガキだと思っているのだ。うっとうしいこと限りなし。しかしである。私の母はもういない。生きていたら、94歳である。残念ながら、還暦をとっくに過ぎたバカ息子に説教をたれることはできない。そういう意味では、私は世界の半分を喪ったことになる。亡母がいないからである。しかし、私の家庭は、古女房ドノによって維持されている。孫までいる。二人もいる。感謝感激である。最近は、孫までかわゆくてならない。さらに、その孫を産んだのが私の長女である。これもまたオンナだ。マイッタね。オトコは関係ねぇのだ。だから、世界の創造主はオンナなのである。
と、またまたくだらないことを書いていたら、もう2000字をオーバーしている。そろそろ止めましょう。
これから千葉市に行く。県立美術館に平山郁夫を見に。当然、一緒に行く人がいる。その名を「オカミさん」というのである。夜は、塾のアルバイトがある。毎日を楽しく生きていきたいものである。もう爺になったのだから。
(^_^)ノ””””
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もう来なくていいと言われるまで、生徒でありたい
毎朝見る新聞の一面にあるコラムで、有名なところでは天声人語とかある。私は、産経だから産経抄である。
毎回楽しみで待... goo.gl/au3iAg
子消し・・・
深沢七郎の「みちのくの人形たち」(中央公論社)を読んだ。
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私たちは、何をどんなにこねくりまわしてみても、「私たちの意識と、この世界なるものとは、ふたつの別物ではない。ひとつに合わさったものである」という事実から逃れることはできません。 『エンデと語る』
博物館のジオラマでいつも残念だなと思うのは、見る方向が限られてしまうこと。ぐるりとまわりから眺められるようにしている所はあるけれど、せっかく精巧に作り込まれてる建物内部などが見づらいことが多い。これなんかもう一歩中へ入りたいな。 pic.twitter.com/LTuCb8J3AL
以前韓国で洛中洛外図の報告をした時、「清明上河図」の研究が参考になるのでは、と言われたことがあります。日本にも後世の写しがいくつか来ていて、汎アジア的な影響力のあった作品ですが、うどん屋看板という風俗の実体面で、ようやく接点を見つけられたように思います。
中国の風俗画と言えば「清明上河図」が有名。二年前に東博で公開された時は、私も並んで見ましたが、人間業と思えない細かさ。細密画ってこういうのを言うんだ、と思いました。宋代の原本には、例の看板はないのですが、明代の「清明上河図」にはそれらしいものが。しかしそれはうどん屋か・・
うどん屋看板の件、台湾のS先生から、興味深いが、これ北方の文化じゃないかな、と意外なご教示。黄河以南は米作地帯なのでまた違うかも、とのこと。なるほど、「中国」と一括りにして考えたらだめですね。文化史は、地域差があるのが当然。看板の伝播経路についても、ヒントになります。
冷酷な現実(これは一箇の冗語法とも響く!)として、物事の過酷な教訓として、戦争は、純粋な存在をめぐる純粋な経験という形で生起する。しかも、幻想という覆いが燃え上がり、まさに閃光を放つその瞬間に生起するのである。-全体性と無限-
私が書く行為は冒険のようなものだ。その冒険が私をどこへ連れてゆき、終りがどうなるのか、私自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身が違う人間になりました。 『ものがたりの余白』
大杉大明神:茨城県の大杉神社に所在。あんば大杉信仰として周辺地域で信仰されていたが、江戸時代に都市部へ伝搬し、ついには江戸市中へ出開帳するに至るほどのムーブメントとなった。 pic.twitter.com/cRESeVfX2T