ヒントは江戸時代にある
ある経済評論家が、なぜ地方は疲弊するかということを経済誌のサイトで書いていた。結論からいうと、効率を求めていないというのと、補助金行政ばかりで利益を生み出す仕事を構築していないからだと書いていた。おっしゃることはよくわかる。確かにいわれるとおり、一回だけの補助金を配ってそれっきりでは話にならない。もらう方の地方行政だって、もらいっぱなしではしょうもないだろう。仕事そのものを創生していないというご指摘はあたっていると思う。
地方の創生は、地方の名産物販売でもできない。不可能である。ごく少数の例外を除いては。よくあるではないか。地方の名産物を宣伝して、地方活性化を図るというのは。なぜなら名産物はあまり売れないからである。一回性のものである。知っている人は知っていて、時々買いにくるだけである。必要な時だけ来る。買い物に。必要なときに買うというのは、当然である。誰でもそうしている。不必要なときは買わない。そりゃそうだ。
買いにくるヒトの範囲を広げればいいということであろう。それには地方だけでは無理である。
さらにここから面白かったのだが、都会に人口が集中して何が悪いか?と書かれていた。
効率が良いから、都会に人口が集中するのであると堂々と論陣を張っておられた。
つまり効率を追求していない地方が悪いと言わんばかりである。これにはさすがに?がいろいろと灯った。
そもそも江戸という大都会は、旅宿人の集まった場所である。大学者である荻生徂徠が言っている。江戸の人間というのは、居所や職業を簡単に替えて、はっきり言えば無責任だと言っている。現代の都会人もそうだ。住処を簡単に替え、職を替える。キャリアアップと称して。
キャリアアップというと思い出す。生涯学習をやっているのは、キャリアアップのためだろうと聞かれたことがあるからである。バカも休み休み言い給えと返答した記憶がある。キャリアアップというのは、前提に就職というのがある。あるいは上昇志向というものが。いまさらそんなもん、クソの役にも立たない。そんな気はサラサラないからである。第二の人生をおくるためというのもどっかおかしい。第一の人生で十分ではないか。第一の人生で思い切り生きてきたのである。悔いはないからである。人生に第一も、第二もない。人生は一度きりである。さ迷ってはならない。さ迷うとお釈迦様に笑われる。真実を知りなさいって。真実というのは、「生老病死」である。まもなく死んじゃうのである。我々全員が。死なないヒトはいない。全員である。いつまでも生きたいと頑張っても、死が待っているだけである。だから、今現在を大切にして努力しなくちゃならないのである。私はそう思っている。それが生涯学習のテーマでもあるからだ。
話は変わるが(いつも変わってばかりだけど)、現代という時代は、こぎれいなマンションとかいうものに住むことが、ある種のステータスになっている。
さらに一軒家を建てまくる。若夫婦二人と、子どもたちだけの生活を宣伝しまくる。CMもうまい。建築会社のである。マイホームローンを組めば、簡単に家が建つ、あるいはマンションが買えるとやっている。
こぎれいな、スイッチをひねるとすぐお湯が沸いて出てくるような、まるっきり天国のようなマイホームを実に上手に宣伝する。冬暖かいし、夏も涼しく快適なように描かれている。これはもう「天国」である。テレビやコンピュータをつければ、世界中の情報がわかる。天国以上の快適さである。
あ、まだ私は天国なるものには行ったことがないけれども。まだまだ天国も地獄も行きたくない。地獄はもっと行きたくない。
それはともかく、都会というのが、快適な場所だというのは間違いがない。しかし、田舎だって快適である。現代の田舎は、そうなめたものではない。東京という名の江戸に出ていくのにちょっと時間がかかるだけである。
それを効率一点張りで、論陣を張っていいのだろうか。
なにも東京に難癖をつけているのではない。おめぇーさんは、田舎にしか住んだことがないから、いろいろ文句を言っているのだろうと言われてもいい。東京に住むのは、仕事が無いからだというのはわかる。確かに、田舎には東京にあるようないわゆる「格好のいい仕事」はない。自然相手の、力仕事もまだまだかなり多い。だからいい処だと私なんぞは思っているのだが。自然相手というのは、なにしろ快適である。都会では経験できないことだからだ。このことが、独自性を生む。独自性こそ、これからの時代を生きていく若い人たちには絶対必要である。(爺にも必要だけど)
独自性というのは取り替えがきかないからだ。そういうことをもっと学ばれたほうがよろしい。誰でもいい。取り替えがきくような仕事で一生を終わるのは寂しいものである。だから、私は生涯学習に取り組んできたのだ。そういうことを考えるために。時間と金の無駄だと言われてもそれが私のやりたいことであったからである。
さて、仕事というとサラリーマンを筆頭にあげることができよう。サラリーマンというのは、江戸時代でいうと時代劇に出てくるような、商家の丁稚さんとか番頭さんのようなものである。後は、武士階級がいた。さらに、職人と農業人たち、山や海に生きる人々である。しかし、江戸そのものは、サラリーマン都市であった。中心部はである。
故に、時代劇をみると現代の諸相がはっきりと現れてくる。民間企業というのは、まさに江戸時代の商家と変わることがない。銀行だって、金貸し業として描かれる時代劇の商家である。もともとは。
良いとか、悪いと言っているのではない。おもしろいと言っているのである。楽しいではないか。時代劇は。
組織とか、サラリーマンとしていかに生きるか、あるいは経営効率とか、なんだかんだとかというようなものは、江戸時代から言われていたのだと私は思っている。江戸時代というのは未開社会ではなかった。平和が続き、なにしろ安定していた。文化的にも相当のレヴェルにあった。寺子屋や藩校に代表されるように、教育もすばらしかった。文化的にも優れた時代であった。
今、私は急速に江戸時代に引きつけられている。
都会人問題というのが、私の潜在意識に張り付いてきたからである。もっとも、私の周囲にいる碩学たちから主として古文書講座によって、いろいろ教育をいただいているからでもある。面白い時代であったと思うからである。
あ、またまた書きすぎた。
どうせ不人気ブログである。しかし、これだけ長く書くと読んでいただけなくなるから、これくらいにしよう。もっとも、文章の最後にこんなことを書いてはならない。
ここまで読んでいただいた方には感謝である。
ありがとうございます。
(^-^)/
それでは。。。。。。
(^_^)ノ””””