と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

空海と森敦は、同じ土俵の上にいるのではないのか

2017年08月17日 08時07分01秒 | とーま君の流儀2017

空海、いわゆる弘法大師の著書は多い。単行本は言わずもがな、文庫本でも相当なものである。それをいちいちノートにとったり、文庫本に書き込みをしたりしていた。しかし、どうしても理解できない部分がほとんどであった。

当たり前である。専門の学者でもないし、研究者でもない。それでも理解したかった。成田山新勝寺にも行って、仏教講座を聴いているのもそれである。

なぜか。

真言宗の寺院に墓地を買ったからである。つまり、死後の居場所は決まったからである。だったら、この宗派のことをもっともっと理解したいではないか。なんでもいいというわけにはいかない。それこそ、死後墓地から這いずりだして読書でもするしかない。

マジに、そう思っていた。

しかし、空海はそういう文字からの理解を戒めておられる。最澄との闘いがそうだ。最澄は、空海の持っている経典や書物(密教関係)を借りたがっていた。実際、自分でもその当時京都にいた空海のところに出かけている。弟子にして欲しいと言ったのである。当時、最澄の方が僧侶としての位は高い。それでも最澄は、自分から出かけていった。知的欲求が高いのである。たいしたものだと思う。

しかし、空海は密教は実践によるとして、ある時期から最澄に書物を貸し出さなくなった。

このことは、非常に凡人を励ましてくれる。

実践なのである。

僧侶にいろいろと聞くことも、なるほど勉強になる。書物もそうだ。それでもって、自分なりに工夫していくことが大事である。

そういうことを森敦に学んだ。

曼荼羅のことも実にわかりやすく書いてくださっていた。

「一即一切 一切一即」という対談集から得るとこと大であった。

一度はまると次から次へと興味が出てきてしまう。

今回も森敦である。それに、彼はドストエフスキーを高く評価している。これもまたボキの感触とあっている。

今も、自宅コンピュータから図書館に予約を入れた。森敦の書物である。

 

こういう態度を空海は戒めているのだろうけど。

 

わははっはははっははっはははっははっは。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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8月16日(水)のつぶやき

2017年08月17日 05時52分50秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/