と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

チャンスは後ろ髪のようなもの

2010年05月07日 20時29分43秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は、民間の会社と専門学校を経営されている方のところにお伺いして、開かれた学校委員会のことでお願いをしておりました。四方山のお話をさせていただくことで、本校への評価を知ることができます。ありがたいことであります。

 印象に残ったのが、自ら学ぶ意欲無しに社会人生活は成り立たないということでありました。教えてくれないから、仕事ができないという言い訳を言う若者が増えているそうであります。自ら学ぶことなく、努力することなく、教わって来た時間だけが長ければ必然そうなるのは目に見えているわけです。自ら学ぶ力のある生徒が多くいる学校は、やはりまったく違います。経験上。学び方は教えることができますが、マスターしたかどうかは、これは本人でなくてはわかりません。学校では評価をしてそれを知りますが、ね。

 前の学校では、「くれない族」と言っていました。そういう完全受け身の学習形態をしている人を。「***してくれないからできない」という思考パターンでは、本当にどうしようもないのです。

 本校のように、通学制をとっている学校なら受け身であってもある程度まで勉強は可能なのでしょうが、通信制の学校はこの自ら学ぶ意欲という点ではシビアーです。自分から何でもやっていかないと、絶対に単位はとれません。わたくし自身いくつかやってきたから、経験上ほんとうにそう思っているのです。多種多様な体験をさせていただきました。何を学んできたのかは、退職してからあきらかにしますがね。

 自分でやらなくてはどうしようもないのです。通信制の教育は。待っていたって誰も教えてくれません。積極精神の持ち主でないといけません。

 このことはいくら言っても理解できないでしょうけれども。通学生であるかぎりは。

 飛び込んで行って、教えていただくしかないわけです。積極的に。それをじっと待っていて、勉強もせずに、ゲームや遊技等々をしているのではもうお話になりませんぞ。遊びの費用ほしさに、勉強をほったらかしていてもなりません。

 チャンスはつかまえるのです。後ろ髪のようなものです。つかまえないと、成長はありません。もっともわたくしのように後ろ髪すら無い人間もいますから、そういうときは前に立ちふさがってでも教えてくれと、弁慶のように言うしかありません。

 いろいろ古典を読んでいると、そういう師弟関係というのは、まことにおもしろく、いくら師匠に懇願しても、まだその段階にあらずと拒否した英傑もいたそうですから、通学制の学校に学んでいる在校生諸君は幸せです。

 通学制の学校でも積極的にドンドン先生方に聞くことです。ただし、自分でも勉強してからおやりなさるともっとよろしい。

 努力しないで、「ここがわかりませんが」というのでは情けない。道路に迷って、その土地の人に質問をする時「わたしはどこに行ったらいいでしょう?」と聞く人はいませんからね。やはり目的地を持っているから、その道を歩み始めるわけでして、無目的に歩き始める人はいません。

 柔道教室でもヒントは与えてあげます。高校生くらいの選手ですと、時々謎かけをしてあげます。1・2・3で技に入るとの、1で入るのと当然スピードは違ってきます。このヒントを与えてあげるのですが、道場の隅っこから見ていると自分で工夫している。悩んで成長するのです。それが糧となるのです。最初から全部教えてあげると、絶対に自分のものにはなりません。もっとも最初から全部教えてあげても、まったくマスターできないのもいます。人を見て法を説けではありませんが、そこのところは教え方が違って参ります。一番いけないのが、聞く耳を持たないという人です。

 強くならないのは師匠のせいだという修行者はいません。武道界においては。それは師匠に対して失礼です。わたくしは師匠ではありませんから、そこのところは諄々と諭してあげます。それがわたくしの使命です。体験はあっても、体力がないのですから。

 

 今日はそんなことを思いました。

 また来週!

 

 
 
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来月ブログを閉じられる・・

2010年05月06日 20時41分37秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 今日は机の上に毎日新聞があり、本校の書道部の活躍が載っておりました。マーカーで色をつけてある部分です。
 写真を掲載させていただきました。

 また、陸上部は10種目県大会に出場するということが、朝の打ち合わせて披露されました。

 ほんとうに喜んでおります。
 陸上部の活躍は生徒のプロフで当日の夜には知っておりました。生徒の喜びにこちらもじわっときました。あまり個人情報を出すようですと、直接指導させていただきますけれども。それはそれです。

 他の部活動も頑張っております。
 期待していてください。

 さて、本ブログでもブックマークさせていただいている大阪國學院中高の理事長校長先生が、来月先生のブログを閉じられると、昨日の記事に書いておられました。

 前にも書いたことがあったのだそうですが、意外でありました。3年たったからだそうです。

 それを知って、わたくしも引き際を考えなくてはならないと感じました。いつまでも拘泥していてはみっともない。時間的な制約からは、どうあがいてもあと1年10ヶ月。後任の先生に託して行かなければなりません。ご迷惑でないうちに、そういうことも考えなくてはならなくなりました。やりやすい環境も大切ですからね。

 自分だけやりたいことをやっていたのでは、申し訳ありませんから。物事はバランスが大切です。

 大阪國學院中高の理事長校長先生も仰っていましたが、まことに教育界というのは、ハードなところです。部活動も休み無しであります。本校の先生方にも心から感謝しております。わたくしですら、この35年間土日も無く、生徒と接してきました。また、部活動の顧問ができなくなってからは、社会体育で実践をしてきました。ですから、たまに和歌に出て来るような花が咲くと、ちょっとの時間をそれに割くわけであります。

 世の中には社会的な位置関係や、名誉に多くの方々が拘泥されています。あるポジュションをいただくとそれにすがりつきます。武道をやっていて、しみじみそう思いました。病気で体力を失ったにもかかわらず、段位にすがりついていてはならんぞとわたくしは自分を戒めて参りました。簡単に言えば、要するに実力が無くなったのです。ですから指導者面をしない。幼子達とのコミュニケーションだけを楽しみに生きて参ります。
 
 拘泥してはならんのです。
 まだまだ露骨に書きたいことはたくさんありますが、これくらいにしておきましょう。人生経験はたくさんしておりますので。

 本当に公立高校に在職しているとまったく何も書けません。中立を守らねばなりませんから。一番熱心に学んでいる分野についても、わたくしは一切明らかにできません。周囲をぐるぐる回っているだけです。情けないですが、これもまた運命。諦めるしかないようです。

 知人の奥方様の通夜に行ってから、まことに歯の抜けるようなということを感じました。わたくしは、全部自分の歯ですが。知人の感じ方はまた別なのであろうと思います。

 桜花爛漫という言葉がありますように、見事に咲く花は散り際もまた見事であります。

 一瞬の光輝にすべてを託すか、そうでないかということは個人的な問題になるのでありましょう。


 ずっと読むことを課題にしてきたテキストでお気に入りの文章があります。「老年学の視点」ILCの「虫の眼から」です。

 リタイアした老人が、地域からも受け入れられず、どの集団からも歓迎されていなかったという現実と、機能によって分割された全体の中の一部分ではなく、独自の理想と原理を持つ個として、海に山に向き合っていた・・・という文章です。それを虫の眼から大きなシステムとして明らかにしていくというものです。

 わたくしもまたちっぽけな虫でしかないのですが。
 虫は虫で、もう少しだけ、このブログをやってみようと思っております。
  



 また明日!
 

 
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認識は対象に(花)従うか

2010年05月05日 19時54分23秒 | 先公ごっこ2008年から2012年



  このGWは在校生にとっては、なかなか多忙な毎日であったようです。
  プロフにずいぶん勉強のこと、模擬テストのことが書いてありました。
  まだまだやらされているというのが見えて、微笑ましくもあり、課題だという気にもなりました。その辺が改善点なのでしょうね。あえて言えば。

  コメントは避けます。

  さて、明日からまた学校です。
  頑張りなさいませ。

  わたくしは、この期間中充電に努めました。
  おかげで、予定していた5種類の教材をほぼ読了できました。
  遊んでいたら、時間の無駄です。 残された時間は少ない。 焦ります。まったく焦ります。

  ただし、半日だけ茨城百景で関東の清水寺と言われている西光院という寺院に行ってみました。その日の朝、NHKで放送しておりましたので。花のたよりを聞くと、いても立ってもおれなくなります。西行法師の山家集のような心を真似したつもりでいます。いつもそうですが、ね。筑波山の東側になります。さらにおいしい手打ちソバを食べに。ソバ屋さんの裏の花もきれいだと聞いておりましたので、楽しみに行ってきました。猪鍋もやっていました。そんな一度だけ、半日だけの楽しみでありました。
   入り口に猪の皮が干してあったので、なんとなく宮沢賢治を思い出してしまいました。好きな作家です。ただし、この作家は解釈の仕方によっては、神秘体験とか、いろいろ出て来ますからこれくらいにしましょう。

   あとは読書、柔道、運動の繰り返しです。シンプルなのが一番です。変化ばかり求めていると、その変化自体が恒常的なものとなって、飽きてしまいます。波瀾万丈とかいうテレビ番組がありますが、あれは自分だけ波瀾万丈と思っている可能性もあると、わたくしは疑っております。

  疑いということになるとデカルトの右に出る方はありません。われ思う故にわれありとした人ですよね。この場合の「思う」が単に疑うばかりではなく、意志する、考えるというようなものであることも。また、これは「すべての考えるものは存在する」という大前提が省略されている三段論法なのではないかという批判もあります。

   このGWの期間中に実に勉強になりました。

  「認識は対象に従うべきものである」というデカルトの流れから、カントは「対象が認識に従わなければならない」とやったわけです。これをコペルニクス的転回というのだそうですが、こんなこともわたくしは知りませんでした。

   なんともなんとも、もうすぐ60歳になんなんとするのになにも知らない。専門家の方から見たらまったくお話にならんようなことであります。だから勉強するしかないのです。人のことは言えません。生涯学習であります。

   裏筑波のソバ屋さんで、どうやらわたくしは「対象」=美しい花たちをどう認識するかという点で実にいい体験をさせていただいたようです。皮になった猪から教えていただいたようなものです。皮が猪か、猪が皮なのかという興味深い観点からも、です。

   また、他人をどう認識するか、そういうことをも教えていただいたような気がしました。一昨日、知人の奥様がお亡くなりになって、その通夜に参加させていただいたことも起因しているような気がします。また、その会場におられた方々との関係性においても、実に認識の危うさを思わされました。要するに、自分が思っているほど認識というのは、あるいは関係性というものは確固たるものではなかったということです。

   難しいものであります。

   では、明日学校でお会いしましょう。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/