ある先生に生徒会出版委員会から出ている「絆」という冊子に原稿を書いてほしいと言われたのが、午後の3時。それからつらつら考えておりました。
そしてふと思い出したのが、「こだわり人物伝」です。
これを扱おうと思いました。で、今晩はこのことについて書いています。
NHK教育テレビで「こだわり人物伝」という番組があり、これまで二人の人物について紹介をしていただいています。テキストも安価で売っていますから去年のうちに入手しておりました。
遠藤周作先生のことを最初やっていて、これは全部録画しました。好きな作家ですから。それと思想的にも。この先生のことは、初めて拙ブログに書きました。まだ、記事としてはとっておきましょう。実に思い出多い作家であります。
今回、1月の12日(水)のは宮澤賢治の第二回目でありました。
「自然には物語がある」というテーマでありました。こちらも録画して見ています。
ちなみに第一回は、1月5日(水)でした。これも録画しました。
語り口も実にテレビ番組らしいし、構成も見事であります。タイトルも実にテレビらしい逆説めいた人目をひくものであります。
宮澤賢治は、思想的に扱いの難しい方ですから、内容には触れずに感想を書きます。
最初に、「物語」の部分。
この番組の意図は、言葉が自然から物語を引き出すという意味ではないのだ、むしろ自然が物語を作り出しているのだと言っていると思いました。微妙な問題がありますから、そこのところは避けていきますが、興味を持ったのが言語は物語る、物語ることが可能なのかということです。
言語は物語ることと距離があります。
言語は絶対的に信用できるものなのでしょうか。
そんなささやかな前提があるからです。
これもあまり書くと拙ブログを止めなくてはなりませんから、よしましょう。
さらに宮澤賢治の慈悲という傾向性。
これもまた興味があります。おそらく生涯かけて追い求めたであろう彼の慈悲とはなんであったのかということであります。
彼の作品を読んでいると、先鋭的であると感じてしまいます。行動的なのです。すくなくとも慈悲に関しては。すばらしいことです。慈悲心を持っているということは。それはそれで賛同します。妹のとし子さんのことを書いた「永訣の朝」は、米沢の高校で初めて教えていただき、尊敬する国語の平先生の名講義ぶりに思わず授業中に落涙してしまったこともありました。
行動で追求していったら、これは苦しいことになるだろうと思います。宮澤賢治は、そこを突き抜けて行った稀有な人ではなかったかと思います。むろんわたくしにはとてもできません。
言語で語ることは簡単でありましょう。慈悲という言葉で。しかし、これを行動で示すとなると実に苦しい。苦難の連続になります。
凡夫であるが故に、慈悲心をもってだれにでも接することがわたくしには不可能だからです。だから宮澤賢治を尊敬しているのです。
よく良寛さんのように生きたいと言われる方がいます。不肖わたくしも好きな方です。この方もまた慈悲心を持って、幼子達と接しておられる。ところが、良寛さんの言語というのは実に怖い。ただのんびりと過ごしていた方ではありません。好きではありますが、非常に語ることの難しい方であります。彼もまた行動で示した方であるから、怖いのです。わたくしには不可能なことをなされたからです。
良寛さんの父親である橘以南(1736-95)と若い小林一茶が、慈悲というテーマで俳句の詠み合いをしたそうです。
一茶の方は、
「やれ打つな蠅が手をすり足をする」
と有名な俳句を詠みます。
橘以南は
「そこふむなゆふべ蛍の居たあたり」
と詠みます。
勝負あったりであります。これは確かではありませんが、物の本によると、一茶も参ったのだそうです。
つまり「そこふむな」という究極のことが、慈悲心ということになるからであります。だとすると人間は外に出られなくなります。どこでも蛍のいた可能性が道にも、草にもありますから。
難しいことであります。ある種の閉塞状況を示しているのではないかと思うからです。
天下のNHKがどういうように扱うのか、楽しみであります。
「無知の知」をまた経験させていただきます。
ありがたい限りであります。
また明日!