16:27 from gooBlog production
なかなかおもしろい分野であります 自分だけ・・ blog.goo.ne.jp/tym943/e/3275f…
16:39 from web
ふうう・・・一番難しいことにチャレンジしています・・・・ふうう
16:40 from web
唯識って、ちょっと愚生には荷が重すぎたかなぁとは思いますが、基本のところはやっておかないと、いけませんからねぇ。
16:43 from web
出家した方が早かったですかなぁ・・・・(^0^)/ウフフ
16:46 from web
無理です、無理。煩悩の塊ですもん。とてもとても、世俗から抜け切れておりませんです。美人が美人に見えるんです。早く骸骨に見えるようになりたいですねぇ。(^0^)/
16:49 from web
今日は英語の勉強ができなかった。家でやることにしましょう。明日は銚子で講義があるからその準備もあります。学生さんのためにも真剣に準備しないといけませんです。それでは院生室からさようなら。
23:23 from web
今日も知人からお電話いただいて、今何している?って言われたので、正直に全部答えましたら絶句していた。それでいうことが良い。「そんなに生活困っているのか?」だって。ありがたいです。心配してくださっているんです。ホントは、週3回しかバイトしていないのに。人の話は最後まで聞くことです。
23:25 from web
時間も全部で週5時間。これじゃぁ生活費の足しにもならない・・(^0^)/ウフフ
23:25 from web
アトは全部大学に捧げております。読書三昧。
23:29 from web
来年、どうなるかわかりませんけど。覚悟しておれ、オレがやとってやるからって言う人もおられて涙が出るほど嬉しかったですね。本当にわたしのカオには、貧乏神がついているんでしょうから。ただし、その貧乏神ちゃまは、時々ニコニコしていると逃げっちゃう時もあるんですよ。いない方がいいから。
23:33 from web
今日は、午前中県立東部図書館で、能楽源流考を借りることができました。憧れの書籍。ところがかなり分厚くて、コピーがとれない。ムム・・・Amazonで買うか・・・かなり高い。しかし、能楽研究の基本書であるから、座右に置くしかないですね。(*_*) マイッタ・・貧乏神から借金しよう。
23:35 from web
あ、午前中というのは、わたくし大学まで電車で通学していますが、そんなに遠くないんです。だから、11時まではいつも自宅で雑用をさせていただいております。草むしりとか、ですよ。楽しいですよ。ホンマに。
by tym943 on Twitter
唯識の原点をさぐる その1
「新装版 講座大乗仏教第8巻 唯識思想 平川彰・梶山雄一・高崎直道編 1982年 春秋社」所載「『瑜伽行派の形成』 高崎直道著」(同書pp.1-42)を読む。
1 はじめに
唯識の伝統を考える上で、「瑜伽行派の形成」は避けて通れないものであろう。
インドの大乗仏教は、中観と瑜伽行の両派につきる。この後者のものが唯識思想である。非常に難解な部分ではあるが、ここをいい加減に素通りすると、後がいけなくなる。
どれだけ理解しているかという自分自身への戒めとしても重要な記事である。
伝統的な唯識学というのは、もっとも精密な理論体系であって、ただ単に法相宗の宗学という規定だけではその枠に収まりきれない。もっとも、私は、特定の宗派をどうのこうのということが嫌いである。幅広く宗教思想を学んでいきたいと思っている。それはまるで信仰とは違うものである。それはそれで理解をしている。あってはならないことであるとも思っている。しかし、追求だけはしていきたいのである。思想として。
だからお許しいただきたい。こんな形でいろいろと書き始めていることを。一人の信仰者としてではないからである。真剣にそれぞれの宗教を信仰なさっている方にはまことに申し訳ないとは思っている。決して信仰をないがしろにしているわけではないからである。
さて、唯識3年、倶舎8年と言われて江戸時代には多くの学僧が奈良に勉強をしにいったものである。倶舎を8年やれば、唯識は3年で済むというのがこのたとえである。
倶舎は、世親の「阿毘達磨倶舎論」(唐 玄奘訳 30巻)であり、唯識は「成唯識論 玄奘訳 10巻」のことである。
この後者の成唯識論は、私の尊敬している岡野守也先生の労作によって何度も読書体験をさせていただいてきた。非常に興味深い分野である。ただし、これまでの私の学習では、正直ここまでの初歩段階であって、まだまだ追求すべき課題が多い。
以下にそのポイントについて述べる。
2 倶舎と唯識
世親の「阿毘達磨倶舎論」は、南都六宗の一つである倶舎宗の論典である。道昭等が法相宗を伝えた時に、「成唯識論」と併せて「倶舎論」をもたらしたのに始まる。その最初から法相宗にあわせもってスタートしたものである。
この時期の「宗」というのは、むしろ学派に近いニュアンスを持っている。したがって倶舎宗は倶舎学というべきものであった。
両者に「性相学」としての共通性があったのである。「性相」とは、法性と法相であって、法性とは共通する本質をいい、法相とは諸法の個別的特色である。倶舎では、あらゆる存在を七五種の基本的要素に還元し、さらに色、心、心所、心不相応行、無為の五種類にまとめ、これを五位七十五法と呼びならわしている。
同様に唯識では、五位百法をたてる。これが法の体系である。言わば法相分類学という意味で、法相宗と呼ばれるのである。天台宗が特に法性に教理の重点を置くのに対して、名付けられたものであった。
性相学であるが、倶舎は小乗に属し、唯識は大乗に属する。
唯識は空性説に立脚しているからである。
3 近代の唯識思想研究
明治時代に入り、近代ヨーロッパのインド学の手法が導入されて、唯識研究の手法も変化してきた。
日本において最初に唯識説に関心を示したのは、宇井伯寿である。宇井は、1916年にケンブリッジに留学中に「『唯識』の原語について」を発表した。(同書 p.4)
その後、宇井は、多くの論文を発表したが、摂大乗論研究によって、真諦の伝えた旧訳の唯識説が、無着・世親の真意を伝えるものとして、一大論争を引き起こした。
宇井の説は、伝統批判を行ったわけであるが、かえって真諦の学説への絶対評価となってしまった。それが法相教学の絶対視につながってしまった。
宇井と並んで唯識学説研究に寄与したのは、山口益である。
山口は我が国の唯識説研究にチベット訳の重要性を唱えたこと、その結果としての後期インド仏教研究が進歩したのである。
戦後も、宇井・山口両碩学の功績は大きい。
4 唯識思想の担い手 瑜伽行派
唯識とは、「一切の法はただ識(=表象)にほかならない」ということで、これを唯識説と呼んでいる。この学説を創始し、継承・発展させた人々は、ヨーガーチャーラと呼ばれている。(同書 p.7)
七世紀の後半にインド仏教の状況として、「大乗は、二種をすぐることなし。一はすなわち中観、二はすなわち瑜伽なり」(同書 p.7)とある。
つまり、中観と瑜伽がそれぞれ中国文献に初出の語である。マーディヤミカ、すなわち「中の派」を中観と呼ぶ。そして、ヨーガーチャーラーは瑜伽である。
5 瑜伽師の系譜
瑜伽師とは、仏教修行者のすべてを指す。(同書 p.8)
しかし、著者の場合は、仏教内部における特定グループを言う。関わりのあるのが、玄奘の「瑜伽師地論」である。この書籍は100巻にも及ぶ膨大なものであって、玄奘一人で成し遂げられたかどうかは不明確であるが、無着(アサンガ)が、衆の前で講じたものであるともされている。むろん、弥勒が無着に授けたものであるという説もある。
この瑜伽行師たちのとった特有の観法が「唯識観」であった。
※ 長くなったので、唯識観については、次回の宿題にすることとする (3258字になってしまった、しまったしまった。これじゃ5人しかいないブログの読者が逃げていってしまう・・・とほほ・・・)
往生要集とダンテ「神曲」について
「小佐野重利著 『言葉とイメージ ダンテの地獄と源信の地獄』 2008年 東京大学出版会」 を読む
1 はじめに
源信とダンテの神曲を比較検討するという視点は愚たる衆生である私には持ち得ないものである。まず非常に広範な東西にわたる知識がなくては、このような考察が可能になることはない。非常に困難な歩みである。およそ学際的な学問というものは、この点を克服しなければならないということで、浅学非才の我が身にはおそれ多いことである。
しかしながら、小佐野重利先生の論文の読書感想文を書くことで、少しでも先生の説かれる世界に迫りたいと思う。以下に述べることとする。
2 往生要集と神曲(同書 pp.23-27)
(1)両者のイメージ
10世紀末に源信の著した「往生要集」は、各種漢籍仏典に依拠して、その膨大な知識をバックボーンにして、六道苦界や、極楽浄土の様子を克明に記述している。
つまり衆生にとって(これはわたくしも当てはまる・・)善き死を迎えるための阿弥陀浄土思想の実践教科書である。
これに対してダンテの「神曲」は、特異な体験を描いているのだが、共に天国や浄土への願いを実現させようとする点において、非常に似通った性格を持っている。
視覚イメージを喚起する記述に注目したのは、アーサー・ウィリーもそうである。自ら英訳した「枕草子」の中で彼は源信の作品がダンテ風であると述べている。
仏教では、極楽浄土も、地獄も地方説をとる。「往生要集」厭離穢土には、地獄道は人間の住む地下深くの八層からなる立方体の八大地獄と、各地獄の東西南北の門の外に付随する別処、いわゆる小地獄からなると説く。
一方ダンテは、地獄、煉獄、及び天国の位置、形状をプトレマイオス的な天動説に基づいて地形学的に考えた。地獄は神に反逆した天使の一人が、天界からイエルサムの地に墜落した衝撃で、地球の中心まで及んで倒立円錐型をしていて、それが同心円状の9つの圏谷からなっているとする。
ダンテの描写する地獄の形状や、場所、大きさについては、早くから「神曲」の注解の中で述べられてきた。
同書(p.25)によると以下のとおりである。いくつかを書かせていただく。
①ブルネッレスキの弟子アントニオ・マネッティが、地獄の形態と規模を数学的に正確な数値で割り出した未公刊の研究が紹介されている。
②ボッティチェッリによる「神曲」のための素描の中に、地獄の形状全体を描いた洋皮紙一葉を図で紹介している。(同書 p.26)上層から下層へと渦巻き状に地獄に下っていく様子が微細に描かれている。これは実際に書物を見ていただくか、ITの世界でも紹介されていればいいのだが。
※これから調べるけど
ほかにもいくつかあるが、共通点について小佐野教授は「洋の東西で共通なのは、地獄に入るには川を渡らなくてはならないことだ」と書かれている。(同書 p.27)
この点は非常に興味のある資料である。多くの日本人にとって、まさに潜在意識としてあるいは原体験として、川の存在は大きい。冬の東北地方で、農家の大きいいろり端で、年寄りから聞かせられてきた話の中に、川と地獄の存在はで~んとしてある。(で~んというような書き方をしたら小佐野先生に叱られるかな・・とほほ)
(2)聖衆来迎寺の「六道絵」とボッティチェッリ「神曲」の挿し絵素描(同書 pp.27-34)
滋賀県の琵琶湖西岸にある天台宗の古刹聖衆来迎寺にある国宝「六道絵」15幅は、往生要集に依拠した絵画イメージとして名高い作品である。
源信ゆかりの比叡山横川も霊山院周辺で制作され、織田信長による比叡山焼き討ちの際に、この寺に渡ったとされる。六道絵が描かれている。この読書感想文にはその絵を載せることはできないが、非常にリアリティのある絵である。(もっとも、地獄を直接見たことのある方はおられないわけで・・・)
相違点から見てみよう。
源信の地獄には、個性のない一般人が描かれている。つまり私のような衆生である。ダンテの地獄には、固有名詞が出てくる。
古代の英雄アレクサンドロス大王、ブルートゥス、カシウスとユダなどである。
生前の現実社会と未練を断ち切るのが、源信の世界であるのに対して、ダンテの方は地獄に存在すること自体ある意味自分が選択した結果のことであって、地上の世界と断ち切れないわけである。
この点については非常に興味深い展開がなされている。東西の文明の特色でもあろうと思われる。
(3)臨終行事(同書 pp.35-39)
国宝の法然上人絵伝に、隆覚律師が臨終を迎えている場面が描かれている。
当時、日本には死ぬための作法があったと考えられる絵である。
源信も臨終の作法について書いている。要点を以下にあげよう。
①阿弥陀仏像や仏像から瀕死の人物まで、五色の糸を結びつけること
②用意した道具を使って、自らの極楽往生を観相するように勧めること
③死すべき人は、周囲の人に死の間際の幻視したイメージを語らなくてはならないこと、また看病人も進んで問い、共に念仏を唱えるべしとある。
3 最後に
このような臨終行事が何を物語るのか。
それは日本人の死生観である。特定宗教を取り上げて言っているのではない。そして、そこから我々の祖先たちはなにを考えてきたのかということを、これから私は考えていきたいのである。自分もまた、臨終をこれから迎えるのであるから。
※ちょっと今日は書きすぎました。ここまで読んでいただいて感謝申し上げます。
※今日中に、前職の時書いていたブログは削除します。これからジムに行って、帰ってから行います。いろいろと ありがとうございました。
図解方法と読書 blog.goo.ne.jp/tym943/e/56a23…
22:49 from web
定年後は運動不足になると思って、バンバン歩いていたら、ちょっとやり過ぎたですね。考えたら、毎日通学しているからけっこうな運動量になっていたんです。さらにジムも毎日行っているし。やり過ぎはいけません。なんでもですね。
22:50 from web
今日はスポーツトレーナーとちょっと相談して、上半身のダンベル運動に切り替えました。これからちょとこちら系をやります。柔道の現役のときは、上半身ばかりやっていた・・・とほほ
22:52 from web
バーベル系のパーツをいろいろ触ったのですが、なつかしいこと限りなし。こんなのを持ちあげていたんですね。
22:54 from web
人間の体なんて不思議なものです。いつ壊れるかもわからないけど、やり過ぎるとちゃんとイエローカードを発行してくれるんです。自動販売機みたいです。
23:01 from web
柔道をやらせていただいて良かったのは、そのいつ壊れるかわからないという人間の身体の有限性ということに注意していかざるを得ないことを学んだということでしょうか。所詮、素人武道ですが・・
23:04 from web
それと親切であれということです。他者にです。自分にもです。慮りということでもありましょうか。基本的にそうしたことができないと、どこかで失敗します。自分の成果だけを求めておっては話になりません。もう、そんな世界からは縁を切りましたから。(^0^)/
23:05 from web
困っている人がいたら、なにかできることはありませんかと申し上げます。困らせてくる人がいたら、そっと気づかせてあげます。
23:08 from web
もっとも誰とも会うこともなく、対話もなくということでは、これはいかがなものか。その点、やっとクラスメイトを作っていただいたことは、感謝であります。ずっとひとりぼっちで過ごすのかとも思っていましたから。もっとも、最大でも5人。師匠の演習で3人ですから、決して多くはないですが。
23:17 from web
来週から8週連続で教授の平家物語講座を聴かせていただきます。東京の紀尾井町です。楽しみであります。こんな老後を過ごしたかったのです。いいものであります。
23:19 from web
そして、6月の11日(月)は、講座のアトに国立能楽堂へ。研修している方々の発表会。これも今日申し込みましたが、抽選だというので、これは困った。それにしても毎週月曜日は実に有意義であります。年金生活者だから、お金は有効に使わないといけません。
23:22 from web
趣味だからです。いいことに使わないといけません。趣味ですから。「趣味が大学に通学すること」なんですから。生涯学習というのは、成果主義に陥っていないというテンで、だから良いものなんですね。ほんとうにそう思います。最終学歴なんてクルクル変わっていっていいんです。
23:26 from web
しかし、今日も世俗的なことで午前中多忙でありました。いつも11時16分の電車に乗るのですが、今日は間に合わないかと思いました。おいしい学食で昼食をいただくのも実に楽しみでありますから。元気で、いきいきとした若者達を見ながらご飯をいただくのもいいものであります。
23:29 from web
そして午後5時頃には求名駅に引き上げます。されど、今日は帰りの電車に10秒で乗れませんでした。走りもしなかったです。別に間に合おうと、間に合わないとて、風の吹くまま生きているんですから、カンケイありません。次の電車に乗ればいいんですから。もっとも、最終だったら焦りますが。
23:31 from web
そんときはそんときで野宿という手があるか・・・(^0^)/ウフフ それは警察に怒られるからできませんな。
23:33 from web
これからもうちょっと読書します。それではまた明日・・・・お休みなさいませ。
by tym943 on Twitter
専門書を図解で読む方法
1 はじめに
専門書の読解にあたっては、最初に注意すべきなのは、初学者を対象にしていないということである。殆どの研究者にとって、当該論文の読者は初学者を想定していない。よって、あらかじめ相当の知識を有しているものを対象としていることを、読ませていただく者としては、ある意味覚悟をしておかなければならない。
しかしながら、専門書読解作業には、必要性が密接に絡んでくる。情報収集作業としての基礎段階から、別の視点で研究対象における必然性を求めて読解作業に関わる場合もある。
上記の視点において、専門書をどう読み解くかということについて、図解活動について以下に延べたい。
2 図解活動について
(1)これまでの読み
専門書の読解について、社会科学系・人文科学系を問わず、これまでの「読み」は困難なものであったと実体験として感じている。
用語の点で最初に躓くこともあった。それは書き手である研究者が、読み手について初学者を想定していないということが理由の最初にあげられる。
次に考えられるのは、解読的な読みや、表面上の読みで終わってしまっているという点である。文章をハイライトする、あるいはマーカーでなぞる、赤鉛筆で線を引く、さらに内容を箇条書きにする、情報カードにメモとして記録を取る、ノートにするというような既存の学習方法だけでは、なかなか徹底した理解までには到達できないことがあった。つまり、文章を段落として大意を把握しているだけでは、全体の構造を把握することは困難であった。論理構造理解をもっとも求められる社会科学系の論文については特に全体構造の理解なしに、その先に進むことは困難である。
(2)図解活動を組み込んだ専門書読解作業
論理構造の理解を主眼とするならば、従来の学習方法で専門書読解作業に困難を覚えている学習者に、図解活動を組み込むことで理解が深化される可能性があるのではないかというのが、工藤嘉名子・山田しげみ両氏のご研究である。(注1)
両氏は、冒頭鈴木明夫(注2)の実証を紹介している。それによると、
①文章中の重要な情報のみに選択的に注意が向けられる
②言語的処理と空間的処理の両方がなされるため、情報が想起されやすい
③関連する情報が空間的に近接、また、同時に提示されるため、読み手の情報処理と保持に関わる認知的負担が軽減される
という3点を紹介している。工藤・山田両氏は、③に注目しているが、他にも、久垣啓一(注3)、門倉正美(注4)両氏の著書も紹介をしている。
(3)工藤・山田両氏の《図解活動》
工藤・山田両氏にとっての《図解活動》とは、【図化】→【ピア学習】→【文章化】の3段階から成る一連の学習活動を指す。
【図化】とは、重要概念の論理的関係性を図解で表す作業のことである。文章の要旨を視覚的に捉える作業である。俯瞰的に、まるで鳥の目でもって全体を眺めることである。
【ピア学習】とは、図解を比較・批評しあう活動を指す。各自が図解の内容を口頭で説明をする。理解も深化する。あるいは理解の修正も可能となる。
【文章化】とは、図解した内容に基づき、文章の要約文を書くことである。図解をもとに、俯瞰的視野に立って、文章の要旨を言語化することである。
しかし、あくまでも文章の要約文を書くことが目的なのではなく、文章の論理構造の理解を深めることが優先されなければならない。大学における論文作成や、プレゼンテーションにも応用できることを両氏は目指している。
事実、同書はこの後の文章において、検証としての実践例をあげている。
(4)久垣啓一氏の図解表現
久垣啓一氏はもっと具体的な手法を述べている。(注3 pp.15-56)
第1講は、「箇条書きを捨てて図解コミュニケーションの世界へ」とある。
①箇条書き信仰をやめよう
②完璧な図解はありません
③議論をすることで図解はさらに成長する
上記の①から③はまさに工藤嘉名子・山田しげみ両氏の方法論と同じである。
さらに久垣啓一は突っ込んでいる。
第2講の「マルと矢印だけで、すべて理解できる」という章である。マルと矢印の具体的な用法が示されている。具体的な手法に富む書籍である。
(5)開米瑞浩氏の図解術 (注5)
開米氏の図解術はさらに具体性に富む。
①最初の一歩はマトリックスから(注5 pp.62-77)
「読み解くことからすべては始まる」とある。当然である。図解ありきではないからである。最初に「読むとく」ことがないと、なんのためにやっているのかわからなくなる。本末転倒であるからである。
ア、解読作業が最初にくる 元の文書に書かれていることを正確に読み解くわけである。
イ、次にアの作業の結果得られた情報にあちこち穴があることがわかる。情報の不足や矛盾である。その結果、得られた情報に質問を試みるのである。わからないことは何かを明らかにするのである。
ウ、最後に他人にわかるように表現してみるのである。
②文章はマトリックスで解読しよう
マトリックスとは日本語でいえば「表」である。学生に指導案を作らせるときも、教科書やテキストからマトリックスを作成させることがあるが、もっとも重要な作業過程である。それだけにこれができるかどうかにストレートな実力が反映されるのである。
マトリックスを詳細化すると、著者の論理の穴がよく見えてくる。エクセルのような表計算ソフトで作成してもいい。あるいは、アクセスでも可能である。
③ロジックはツリーで構造化せよ(注5 pp.100-123)
論理を表す表は一般的にロジックツリーと言われている。主張には根拠があり、理由がある。それをツリー構造にするわけである。枝わかれした木の形にしていくのである。
3 最後に
図解活動を云々する以上、ここまで述べてきたことを別添資料として、図としてまとめてみたい。それでなければ、なにをここに書いているのかまったく意味のない行動になるからである。
参考文献
注1 工藤嘉名子・山田しげみ著 「専門書読解作業における《図解活動》の試み 論理構造を読み解く力を養うために」
2011年 東京外国語大学留学生日本語教育センター論集
注2 鈴木明夫著 「図を用いた教育方法に関する心理学的研究 外国語の文章理解における探索的効率性」 2009年 開拓社
注3 久垣啓一著 「図で考える人の図解表現の技術」 2002年 日本経済新聞社
注4 門倉正美著 「リテラシーズとしての<視読解> 『図解』を手始めとして」 『リテラシリーズ3』 2007年 くろしお出版
注5 開米瑞浩著 「仕事が10倍速くなる 最強の仕事術」 2006年 東洋経済新聞社
・ブログの良い点は、なんだろうかと思うことがある。
・だいたいにおいて、メモが嫌いだし、手帳にはワケのわからない数字もバンバン載っていて、なんだったっけ?という場合がとても多いからである。この間なんか、「pwはちゃめちゃ」とかあってはて?pwとはどこかのお気に入りトイレかと思ったくらいであるから。あ、言うまでもないですが、pwってパスワードのことでした。こんなの手帳に書いていたらいかんと思っているから、さらに暗号化していたんです。だからなんだかわからなくなる・・とほほ。
・このブログのブックマークに旅行の宿泊先もリンクさせてある。こいつは便利である。私は、たいていの宿は気に入ったらもう一度行くからである。予約がインターネットからできるからである。
・しかし、書きたいことがあったら即書くことにしている。高揚することがあったらそれでともかく書き始める。構想は書きながらである。自分のためでもあるが、5人ほどの読者は想定してある。友人・知人・教え子・その他。5人いらっしゃれば十分である。
・なお、家族は想定していない。こんなことをしていると言ってもまったく興味がないそうである。馬鹿なことばかりやっていると言って憚らないからである。そんなことをしている暇があったら、窓の掃除でもしてくれと言われて今日は、ずっとやっていた。午後から町内の役員会があったので、寄り合い所で会議。そしてそれから塾でバイト。今日は、教頭をやっていたときの、成田北高の生徒が来ていた。数学だった。さらに、工業高校生と英語。中学生と数学。なかなかオレもやるわいと自己満足。
・夜は柔道教室に行った。季節も柔道にいい。寒くない。稽古をしているちびっ子をあたたかく見守りながら、お相手をさせていただだいた。稽古のはじめに、ちょっと中学生と寝技をやった。私は変則の寝技をやるので、両脚で相手の首を絞めるのを得意としている。いろいろと指導しながら、楽しんでいた。それで、帰ってきて、23:29このブログを書いているわけである。
・しかし、このブログの記事は、テキストでダウンロードできるから、定期的にやっていると、個人的なデータベースになる。検索語を入れると、一発でカキコした過去の記事を目の前に提出してくれるのである。こいつは便利である。さらにいいのが、読書感想文を書いていると、後で実に有効である。レポートを書くこともあるからだ。だからこれは学ぶモノとしての仁義だが、著者名、出版社、発行年月日、当該ページを書いている。
・正直、読書感想文は難しいことばかり書いているなぁと慨嘆している。自分以外の方が読まれても、わかりやすくないと自分が理解しているとはとても言えないからである。その点は留意しないといけない。
・だからいいのである。私は、専門家でも学者でもないから、初心の方にわからなくてもいい、オレはこんなに偉いんだぞぉ~というスタンスで書かなくてもいいからである。自分が一番の読者であるからである。このブログの。
・自分自身が初心者である。だから、初心者の自分がわかるように書かなくてはならんのである。気取って、まるでインテリでもあるかのように書いていると、分裂する。支離滅裂ってやつだ。これはいただけない。
・第一、アタクシごときが、気取っていたらわらわれます。勘違いをしてはなりませぬ。何にも知らないから、生涯学習で勉強させていただいているんですから。ただし、いい加減にはやらんつもりであります。そして、ダメだったら即撤退します。塾でもそう。あんなじじぃでは不要であるとご指摘を受けたら、即辞職。あたりまえです。もう改善する筈はないのですから。ご迷惑をおかけしたくはない。必要とされないなら、いつでもアタクシは自分を捨てることができるつもりです。
・ブログの効用はもっとある。
・それはある時期においての自分の決意。これを書いておくと、なかなかいい。たとえば、私は城西国際を中退するか卒業するかまだまだわかりませんが、このアトに入学する大学も考えているのです。通信制で。スクーリングで可能なかぎり遠いところがいい。なぜか。勉強イコール旅行になる。京都がいい。なんてことを考えておると実に楽しい。次は、全くの専門外で学部レベルからやってみたい。楽しいだろうなぁ。85歳までやるんじゃい。そうやって書いておくと、意識する。
・潜在意識にインプットされていると、なんだかだんだんほのぼのとしてきます。あ、オレってまだまだ年取っている暇がないんだなと思う。これがいいんです。
・なにがいいか。まず健康に留意する。面倒なつきあいもない。するつもりもない。飲酒を伴う場所には可能な限り行かない。(たまに行くけど・・とほほ・・)だから、私と飲んでくださるかたは、私が心から尊敬申し上げておる方々ばかりであります。共に飲みたくておつきあいさせていただいているのですから。(^0^)/ウフフ
・今日は、孫がちょっと咳き込んでいるとのことでありました。心配で、心配でなりませぬ。明日にでも陣中見舞いに行きたいくらい。でも、長女に馬鹿にされるのがオチ。
・爺のこころ、子知らず。フンフンであります。
・ではこれにて・・・・(今日は文体が乱れている・・否、今日もか)
14:43 from gooBlog production
生き延びるためのセオリー blog.goo.ne.jp/tym943/e/5ec4f…
15:04 from web
院生室にいる。随分はかどっている。読書も。ちょっと厭きたらTwitterとかやりながらである。そしてまた読書に戻る。
15:09 from web
本学で過ごすことが、光明蔵である。宮本武蔵のように。乱暴者であった時代の武蔵と、未だになんの取り柄もない乱暴者のあたくしが重なるのである。
15:11 from web
やはりブログはわたくしにとっては、知的玩具であることよ。読書感想文まで書いていると、まるっきり勉強道具である。楽しい、楽しい。
15:13 from web
さっき学生食堂で「うどんセット」を食べたら量が多くて、眠くてたまらん。参ったね。ま、いいか。。
19:40 from web
院生室で中国の大学の先生(クラスメイト)と、遠藤周作について議論をさせていただいていた。かなり勉強になった。遠藤周作と母なるモノ、そして大連との関わり。。。。。面白そうである。自分もやってみたい分野ではあるが、ワタクシは、唯識学と能にすでに絞ってある。
19:41 from web
楽しいですねぇ。吾以外、皆わこうどでございます。
19:42 from web
趣味で大学に通っているとわかられてしまいました。クラスメートに。(^0^)/ウフフ
19:43 from web
ま、それもありですよ。こういう生き方も。やってみたかったからですから。
23:03 from web
Twitterって、入力ミスをしたら訂正不可能なんですかね・・・(*_*) マイッタ
23:06 from web
「あ」と書きたいのに、「ああ」とダブルになっていました、今日のつぶやき。しょうもないおっさんですねぇ。。。。。。
by tym943 on Twitter
・セオリーということを最近はよく考える。なぜか?
・能楽の鑑賞法というものがあるかということを考えていたからである。人それぞれでいいはずである。
・能楽に決まり切った鑑賞法があったら、こいつはおもしろくもなんともない。ただし、自己流では間違った見方をしている可能性がある。それは謙虚に他者に学ぶしかない。
・思想書にも同じことが言えると思う。思想から、定石を学ぶことによって、我々はものの考え方を個性的にすることができるのである。
・それには徹底した時間の流れがなくてはならない。自分で読むことを忌避していては、話にならないのである。
・絶対量が不足しては駄目なのである。
・そのことは受験勉強にも言えることである。もっとも、他者に説教たれるほど勉強したわけではないからこのあたりで止めとくが。
・昨日あたりで完全に送別会モードから離脱した。ありがたいものであった。人それぞれに私の退職を祝ってくださった。本当にありがとうございました。
・人は別れねばならない時が必ずある。最終は「死」である。必ず死ぬのである。残念ながら。ガンで死ぬか、事故で死ぬかそれは誰も知らない。あたりまえである。しかしだ、死の瞬間が誰もわからないということであって、死ぬということの絶対的事実はかわらないのである。ここに気がついていないと、くだらないことで生涯を棒にふることになるのである。
・だから「別れ」を「祝う」という儀式によって、ヒトという動物は別れを忘れようとしていると思うのである。葬式は誰しも悲しい。別れであるからである。しかし、それはまた儀式でもある。生き残った人々に、決意を迫るものでもある。別れてしまったのだから、生き残りを賭けて生き延びよということでもある。
・このことをセオリーというのである。そう私は解釈しようとしている。正しいかどうかはわからない。しかし、それでもって私は「生き延びて」きたのである。生きてこれたのである。多くの悲しい別れを経験してきたが、何とか耐えてくることができたのである。確かにつらい。それは認める。
・たとえば、能の「百萬」は、女物狂の物語である。かわいい我が子を失ったという悲しみに耐える、あるいは耐えようにも耐えられない一人の母親の悲哀である。ところが、我が子は生存していたのである。
・そのあたりの描写がたまらないほどいい。女性の苦しい心境が、能面から伝わってくるのだ。たとえば私の長女が同じ目にあったらどうなるのだと思う。3月に孫を産んでくれたが、そして現在子育て真っ最中であるが、もし百萬のシテと同じ目にあったら、尋常ではなくなるであろう。
・それを忘れるようにということはたやすい。しかし、人間の煩悩はスパっと割り切れるものではない。
・だからそこに儀式が必要なのである。儀式とは本来そういうものであろう。百萬のシテはその儀式もなにも無く、ひたすら悲しみに浸っていた。結末では救われるのであるが、そこを仏恩という形で決着をつけている。見事なものである。
・卒業式も同じであろう。別れを祝うのである。残された者が生き延びるためにである。学校を卒業したら、殆どの者は、母校を用事がなければ思い出すこともないのではないか。
・そんなものであろう。
・そしてそれでいいのである。相互に生き延びるために必要だからである。また新しい人生に雄飛していけばいいのである。
・拘ることはないというのはまさにこれである。ただし、必要以上にという限定条件つきである。拘らないというポリシーのもとに、あらゆる人間関係に拘らず、そんなのかんけぇねぇってばかり言っていてはならない。そういう人間はある種のニヒリストである。危険である。人間関係を爆破するようなものであるからだ。
・かくいう私がそういう危険性を持っているから、あえて書いているのだ。リセットが好きなのである。だから戒めとしているのである。簡単にリセットしちゃぁいかんでっせと。
・今日は、M教授の演習である。講義をいただきながら、中国の大学の先生がたと厳しくも楽しい時間をすごさせていただいた。遠藤周作と大連の関係についてのお話はたいへんためになった。これでも、遠藤周作さんについては、相当読み込んできたからである。学部時代の卒論は、まさに現代文学であったからである。
・学部卒論など、できが悪くて思い出すのも恥ずかしくてたまらん。しかし、これはこれで生きるためのあるいは新聞奨学生として学ぶしかなかったいろいろな苦しみ、悩みからの解放を願って書いていた卒論であったから、私にとっては記念碑的な存在である。
・この基盤があったから、ずっと生涯学習をやってこられたのだろう。それが、私の「セオリー」であったのだ。
菩提寺駐車場でまだ咲いていました。
わが祖父の眠る墓であります。右脇にもご先祖様が・・・・・
上杉鷹山公とお会いしました。愚生の母校の創立者でもあります
まるでアタマをなでなでしてくださっているようです。光栄であります。
(がんばりました こんな愚生でも)
これもまたリーダーシップの極意でありましょう
これからご出世なさる方は、学ばれたほうがよろしいと思いますよ
愚生には関係ないですが
これからの愚生の指針であります
謙信公であります。すべてを見透かされているようで怖いです。
愚生の精神の根幹に謙信公がいてくださいます・・ありがたいかぎりです
角度を変えて
また帰省の節には訪問させていただきます
宿泊した穴原温泉吉川屋の部屋から見える摺上川です
帰途 中野不動尊にお参りしました。宿のすぐそばにありました
滝もまたすばらしい 洞窟めぐりもありました 仏像がたくさんありました
どんな願いでもかなうのだそうです 孫の無事なる成長をお祈りしました
本堂であります。曹洞宗です。わたしの実家もそうだった・・
・連休ぼけでありました。やっと体力が回復しました。昨日大学にずっとおったのでありますが、なんだかアタマがついていかない。修士の時と違って、自分がしっかりせんといかんのですから、きつい。しかも、読書(研究)のスケジュールが大幅に遅れております。いかんです。このままでは胃と肝臓をやられていかんぞ~になってしまいます。(^0^)/
・時刻は、0:09です。さっきまで、今日千葉科学大学で講義をさせていただくその準備をしておりました。高校の物理の教科書から、運動の法則を選んで、それで指導案構想メモを作っていただくために、資料を三〇枚ほど作成しました。学生諸君に演習をしてもらいます。そうです、自分で作ってもらうんです。講義で寝ている暇もない。もっともワタクシはバンバン指名するので、地獄の特訓ですねぇ。千葉科学大学の学生諸君は全員マジメですから、こんなアタクシ風情の授業でもしっかりついてきてくれます。ありがたい、ありがたい。
・昨日は能楽の岩波講座をほぼ読了しました。ノートも佐藤優せんせい方式でやっていますので、よくアタマに入ります。こんないい方法があったとは、ほんとうに知りませんでした。カード方式が変形してB6厚めの100枚ノートバージョンとでも言った方がいいくらいの安価で、ためになる方式であります。
・電車の中では、「小津安二郎の食卓」(貫田 庄著 ちくま文庫)という文庫を読んでおりました。名映画監督小津さんが、大俳優の笠智衆をなぜ使ったかという部分(pp.125-127)では、まさにまさに。
・笠智衆という俳優は、人によく思われたいとか、そんな衒いがまったくなかったからであるという指摘でありました。ほんとうだろうなぁと思います。
・さらに笑ったのは、小津さんの映画によく出てくる退職した、あるいは定年で辞めた教師たちが出てくることへの分析。たいていはとんかつ屋とか、ラーメン屋のオヤジで、さえないオヤジを演出しているというのであります。これには院生室で、電車の中でも大笑いをしていました。今のアタクシがまさにさえないオヤジでありますからねぇ。
・小津さんの教師という職業についてのある種の偏見があるようです。そう言えば、小津映画で教師役で格好のいいのは全部旧制帝大の教授ばかりでありました。ま、どうでもいいような話ではありますが。
・夜も更けました。
・おやすみなさいませ。
20:36 from Mobile Web
今日は福島県の穴原温泉にいます。墓参の帰りです。亡父と亡母の墓と、祖父の墓に
20:38 from Mobile Web
さらに上杉神社に行って、上杉鷹山候にご挨拶を。また新たな発見がありました。私の原点であります。この米沢という土地は。
20:45 from Mobile Web
きょうの宿泊しているホテルは天皇陛下もご宿泊された由緒ある宿であります。格式のある宿であります。そういう意味では、箱根の竜宮殿もよかった。去年の秋に行きましたっけ。やはりそれなりの格式の宿はなかなかのものがあります。
20:47 from Mobile Web
愛車が、もうちょっと格式あるクルマなら、疲れないんでしょうがね。ちょっと小さいのと、速くて、おっかない?
20:49 from Mobile Web
あ、それと菩提寺の近くにあった、龍上海というラーメンがおいしかった。並んでいないと食べることができないラーメンでありました。ようやく食べることができたんです。昭和33年開業ですから、子供のときにここに来ていたんですねぇ。忘れていた・・
20:51 from Mobile Web
なんでもかんでもみんな記憶のかなたに行ってしまっています。ふるさとなのにです。ある意味、悲哀があります。
20:52 from Mobile Web
さっき、ホテルの夕食で会津の酒だと思いましたが花春という銘酒を呑みました。実においしい。いいものであります。少量の日本酒と美味なる料理を味わっておりました。これから再度温泉に入って、世阿弥芸術論集を味読します。
20:56 from Mobile Web
摺上川の水音が、心地よい。そうした環境の中でこそ、よきこころが育つのではないでしょうか。なんでも少量、欲張らず、せかせかとならず、です。
21:00 from Mobile Web
生涯を草の枕を友として、雑書を携えて歩いていきたいものであります。たわいもない、老人のたわごとでありますが。
21:04 from Mobile Web
そうした雰囲気を味わわせていただきますのもまた一興であります。長年おつきあいいただいた配偶者への感謝のつもりでもあります。
21:05 from Mobile Web
明日はまた千葉県から発信させていただきます。それではお休みなさいませ
by tym943 on Twitter
孫と共にお宮参り goo.gl/vdizb
10:52 from web
ありがたいものであります。今日は、これから愚生の仲人をさせていただいた、いわゆる教え子という知人たちから退職祝いの会。隣町でやっていただくのだそうです。ありがたいかぎりであります。
10:53 from web
人間だけが、そういう祝辞の念、贈与の念をもっているのだそうです。なんの利害関係もないからでありましょう。純然たる祝いの会であります。
10:53 from web
裏表がない。これでなくては交際する価値はない。
10:54 from web
もっとも、裏表で酒席を共にするというのは、一番ハラが立つ。
10:55 from web
今日は、アルコールを解禁。久しぶりですな。(^0^)/ウフフ
10:57 from web
あらゆる宴席から逃亡してきたので。。。。昨日だって一滴も呑んでいないんです。運転があったし。ま、次回はムコドノの居住地にホテルをとって呑みますがね。大きな街ですから。
10:59 from web
お若い方はこんなじじぃの真似はせんほうがよろしいですよ。偏屈になるから。もっともそれでいいなら、おおいにやった方がよろしいのです。
11:21 from web
さっき、老犬を懇意にしている獣医の先生に預けにいきました。
11:21 from web
なんと先生の診療所の屋形門のところで、先生の見ている前でひっくりかえってしまった。
11:23 from web
心臓が弱っているのだそうです。それに人間でいうなら、超高齢犬。生きているのが不思議なくらいだそうです。
11:23 from web
幸い、先生のところです。二泊三日のペットホテル暮らし。
11:24 from web
おおいに羽を伸ばして、休暇です。悪いところがあったら、点滴です。
11:25 from web
ほんとうにあやかりたいものであります。私も言われたい。「生きているのが・・・」ってね。たぶん言われるでしょう。60の青春を生きているんですから(^0^)/ウフフ
by tym943 on Twitter
・私は一流好みのまるっきり反対側の人間である。クルマがそうだ。一流好みでは無いのである。走ればいいと思っているだけである。しかしである。友人たちに評判が悪い。なぜあんな安いクルマに乗っておるのだと言われる。放っておいてほしいと言うのだが・・(^0^)/
・私は気に入っているのである。国産の、広島に本社のある会社である。アテンザというクルマである。日本では全く売れない。そこがいいのだ。希少価値がある。しかも、壊れない。確かに安価である。性能の割には。しかも、頑丈である。ユニークなデザインである。速い。ただし、燃費はそこそこである。まるで私のようではないか。こんなメーカーのような、アテンザのような無骨な生き方をしたいと思ってきたのである。
・荷物もスポーツカーのカテゴリに入っているわりには、積むことができる。ここも気に入っている。たまに、街乗りに使い、古女房ドノと遠距離で温泉にいくくらいである。あ、ホントにたまにちびっ子の柔道大会にも行く。陰ながら応援に行くくらいだ。つまり通勤には使わない。当たり前である。通勤する場所がないからである。天下の素浪人である。
・昨日、孫のところに行ってきた。初宮参りである。ムコドノの居住地である。むろんこの私のアテンザである。速いので、難渋した。そうである。ワタクシは42年間無事故・無違反なのである。だから、その歴史を維持したいために、アクセルはそっと踏むことにしているのだ。当たり前である。この栄冠は捨てがたいからである。
・いな、否、・・・そんなことではない。
・孫が、一週間見ない間にニコニコと笑うようになっていた。爺馬鹿である。かわゆくて、かわゆくてたまらんのだ。こころなしか、いい男に見える。わらっちまいますねぇ。こんなにめろめろになるとは、思ってもみなかったです。
・びっくりしたのが、地元の神社に行ったとき。平安時代から続く、由緒ある神社である。なにしろ太平記に出てくる。史実である。太平記はこっちも随分読み込んでいるから神社の解説が楽しかった。明治天皇陛下のお写真も掲げてあった。さらに、うら若き女性の神職であった。これはいい。かわいい赤ちゃんには祝詞の響きが心地よく聞こえたのではないだろうか。言葉も男性と比べてはっきり聞こえた。最近はこちら系にもはまっておるので、じぃ~っと拝聴しておったのである。
・孫の健やかな成長を祈っていた。
・しかし、キモの座った孫である。太鼓のど~ん、ど~んという音にもまったく驚かない。これは頼もしい。手足もでかい。母子手帳に手足をスタンプするページがあるのだが、はみ出したくらいであるから。ムコドノも、アタシノ長女もでかいから、大きくはなるだろうが、楽しみでもある。あとは、二人の育て方しだいである。
・昼食をムコドノの親族と一緒に食べさせていただいた。(酒類はいっさい呑んでいませんです)
・地元の料亭であった。ここも城下町らしい歴史ある佇まいであった。会場に、能の絵があった。さらに魯山人の作品もあった。そちらの方にも興味があったので、経営者の方といろいろお話をさせていただいていた。そしたら、なんと山形県の新庄のご出身であるとのこと。これは懐かしい。世間話にハナが咲いた。
・孫には、私が命名をさせていただいた。治憲とつけさせていただいた。いわれについて、宴席の冒頭に説明をせよと言われたので、知ったかぶりをしない程度にご披露させていただいた。あんまり期待度を高めてご披露したら、わらわれっちまうですからね(^0^)/
・午後2時にはおいとまをした。千葉に帰らなくてはならない。
・今日も、宴席である。今日のは、地元のU中学校時代に、3年間担任をさせていただいた生徒で3組同級生婚をした方々と(全部ワタクシの仲人)、高校の柔道部の選手で仲人を務めさせていただいた方と一緒である。愚かなワタクシの退職の祝いであるそうな。こころのこもった祝いの席になるだろう。ありがたいことである。
・そして、月曜日には米沢に帰る。上杉鷹山公の墓前に参る。退職のご挨拶にである。こんなできの悪い最劣等生でも無事に退職をさせていただいたことを、ご報告に参る。鷹山公創立の母校米沢興譲館高校での学びが無かったら、教師もできなかった。あの3年間の、徹底して学問の分野で、柔道場で、ハイレヴェルな鍛えをいただかなかったら、本当にここまでくることはできなかったからである。むろん、亡き父母の墓前にも参る。祖父のところにも。10くらい先祖代々の墓がある。それぞれの方々の命を受け継いで今の愚生があるからである。
・アテンザがちょっとかわいそうになってきた。ごくろうさまです。大事にしてあげますからね。もうちょっと頑張りましょう!
00:09 from Tweet Button
Twilog始めました
09:23 from web
Facebookとか、Twitterとかいろいろと仕組みの理解に戸惑っています。難しくてたまりません。Twitterの名前も、ブログと連動させて、氏名を変更したんですが、これまたたどたどしいこと。
14:37 from Tweet Button
また地震でした 千葉で震度3 - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/affairs/news/1…
16:07 from web
良い一日を過ごしました。読書感想文を書いていました。内田百�せんせいの研究書を県立図書館から借りてきて、読了。感謝です。感謝のみあります。著者のご経歴を見たら、さらに魅力的な方でありました。最近はわたくしよりも年下の先生方が多く、学問は経験とか年齢ではないと感じております。
16:09 from web
これから読書感想文をアップして、老犬ととぼとぼとお散歩です。お互いをいたわりながら、です。それからジムへ行きます。体調がすこぶるよろしい。昨日、ジャケットとズボンを買いに行ったのですが、ウエストがまた細くなりました。(^0^)/ウフフ楽しみ、楽しみ。
16:10 from web
明日は、孫のお宮参りです。ムコドノの居住地に行きます。
16:11 from web
一週間も会っていない孫を見るのが楽しみであります。重くなっただろうなぁと。早くだっこしたいです。
16:12 from web
日々これ好日であります。誰になんと言われても、です。
16:17 from gooBlog production
ほんとうに好きな文人であります blog.goo.ne.jp/tym943/e/ea173…
22:35 from gooBlog production
こういうのを読むとまるで自分のことを言われているようで blog.goo.ne.jp/tym943/e/07bf9…
by tym943 on Twitter
・こんなタイトルで書くことができるほど、武道に精進しているわけではない。もっとも、人に自慢できるような得意な分野はない。まったくない。およそ、すべてが素人芸でしかないのだ。されど、なぜこうやって読書感想文めいた駄文を書くのか。それは、書くことによって深まるからである。知識が、である。あるいは、知らないことが明らかになるからである。
・実は、専門分野の本ばかり読んでいたいのだ。しかし、20代のころから乱読病にかかっている。我慢できないのだ。いろいろな分野の本を同時並行で読んでいる。もっとも、人文科学系がもっとも多いが。
・だから、研究で身を立てることができないのである。これまでも、これからも。それはそれで仕方のないことである。大望はない。あくまで、知らないことを教えていただく、あるいは自分で学ぶというスタイルであるからである。
・しょうがない。世渡りも下手であるし、なかなかごますり根性も身につけることができなかったからである。つまるところ、かわいげのない男ってことである。
・今日は、同時並行で「よみがえる武士道」(東京大学大学院人文科学研究科助教授 菅野覚明著 PHP)なる書を読み終えた。なかなかである。日本倫理思想史がご専門で、葉隠の研究で名高い先生である。
・こういう先生の存在自体が私にはありがたいのである。
・「武士の仕方のすすどさよ」という序章に(pp.1-4)に近松門左衛門の「堀川波鼓」が紹介されている。誤って不義を犯した妻が自害するのを、武士である夫がとどめをさしてやる場面である。冷静で(しづしづ)で、しかも果断な(すすどさ)武士の仕方は、限り無く深い。
・近松門左衛門も当然抱いていた武士のあるべき姿というものは、どこからくるのか。それをこの書籍は明らかにしている。それは、武士の「自己」と「実力」という問題にかかわる。柔道をやってきて、まさにこのことは個人的に喫緊の差し迫った問題でもあったから、切実である。
・いろいろ疑問も感じるからである。柔道についても。なぜフランスのようにできないのかとか、競技人口がフランスより少ないのはなんで?とか、本当にいろいろ感じている。しかし、書けない。素人であるからである。4段になって30年。これじゃぁ、発言禁止。稽古をしていない証拠であるからである。(^0^)/ウフフ
・「実力とはなにか」という章がある。ここもおもしろい。武士の実力とは何かというのである。著者は「それは、自己の持っているものすべての力である」(p.43)と書いている。腕力、武芸ばかりではない。知識、才覚、身体能力、財産、家族、肩書き、容貌、性格、気質から・・・いろいろと上げてある。肉体も、精神も武士達には武器であった。だって、闘って負けたら一瞬のうちに死んでしまうのだから。
・古くは「つわものの威」と呼び習わしていたのだそうな。私の好きな「今昔物語」にもいくつも説話文学として出てくる。
・「なぜ大将と僧侶は気が合うのか」(pp.70-85)も面白い。沢庵和尚とかに興味を持っている私には、である。「甲陽軍艦」の文章をもってきて、著者は説明をされる。越後の謙信公が、曹洞宗の僧侶法興和尚に会ったときのことを例にあげておられる。栗を10にせよという謙信公の言い分に、ごりごりで10にしたという一休さんのとんち話のようなことが書いてある。(謙信公だけ尊称させていただくことをお許し願いたい・・私事ではありますが、米沢の人間ですので)
・領地拡大にむかってひた走った武士であるからこそ、名利にはことのほか拘ったであろう。しかし、名利をも超えたミチに至ってしまっては、武士というあり方の逸脱になる。一種の逃避であり、武士としては、あるいは大将としてはあまりにニヒリストすぎる。家臣団としては危険である。こういうのが、大将では。
・名利にも拘る。しかし、またいつでも何の未練もなく一切を捨てきれるのもまた武士の本質である。この点武田信玄の出家の理由もまた著者の見識が光る。「人は落ちるのが当たり前である」というのが信玄の覚悟であったのだそうだ。(p.83)・・・見識である。実にいい。だから信玄は、防御の天才であったのだろう。
・「国を滅ぼす馬鹿大将」という章も楽しい。(pp.88-137)なかでも、「得意とするところで醜態をさらす」というところは実に楽しい。まるで私のようだ。得意技は自信のよりどころであろう。しかし、かえってそれであるが故に失敗もする。体力や気力が衰えてくるとなおさら得意技に頼ろうとする。
・なるほどである。まったくいいことを言われる。
・「馬鹿大将は多芸・万能」(p.96)もいい。なんでもできることを自慢しているスーパーエリートが世の中にはごまんとおられるが、「甲陽軍艦」はそれも戒められる。うなる。自分は一国一城の主であるという自負が、多芸・万能に導いてしまうのである。
・家来に知恵を盗まれる大将もいけないと戒めてくる。家来は自分の主君がなにを考えているのかをなによりも知りたいのである。隠すべき内側を家来に知られてはならないと戒めてくるのがやはり甲陽軍艦である。
・「一生を見事に暮らす」のが、究極の生き方なのであろう。いろいろなさむらいたちの生き方を通して、まさに著者の思想を教えていただいていたが、この書籍は繰り返し読んでこそ味わいのあるものであろう。
・現役時代に読んでおけば良かったと思う。
「大谷 哲著 内田百聞論 他者と認識の原画(2012 新典社)」を読む
・研究の目的と意義について、冒頭に著者がふれている。つまり「初期幻想小説として一括りにされる第一創作集『冥途』と第二創作集『旅順入城式』所収のテクストを中心に研究対象化したものである」(P.7)とある。
・この考察はなかなかのものである。さらに、「百聞文学の<近代>における<文学>としての<物語>への志向性の一側面と、その意義を論証的に整理分析すること」とも書かれている。書き出しに非常に惹かれた。
・ということである。私の好きな視点での分析である。誰しも、物語を基盤として、考え・感じているからである。
・またまた好き勝手に書かせていただく。
・百聞先生は、いろいろなエピソードを豊かに持っておられる。実にすてきな方である。
・漱石の門下、借金の名人、酒仙、美食家、汽車旅行好き、琴を愛する。推薦された芸術院会員を「イヤダカラ、イヤダ」の名言で辞退。・・・なかなかの怪人である。不肖、と~まのもっとも尊敬している風流人でもある。
・こんな生き方がしたいもんである。もっとも、あたくし風情では、なんとか会員だの、ぐちぐちの賞だのというのとは無縁である。まったくもって、その程度の能力しかない。しかも、成果も上げていない。まったく無縁の世界で生きてきてしまったからである。
・あたくしは、学歴もなんにもない。金もない。腕力もない。なんにもない。学歴って言ったって、通信教育オンリーできた強者である。だから、知識人としての世間的な相場からはある意味正反対の立ち位置にいる。わかっていて言っているのである。そんなのが何になるんだってことを、である。
・ある意味バカである。心底からのバカである。これまでいろいろな賞状をいただいてきたが、全部要らないのである。だから周囲にご迷惑をおかけしてきた。捨てようとしたからである。この3月にこのあふぉ~な性格を知り尽くしておられる方々が、ある賞状をガクに入れてくださったのは、捨てないようにというあたかかいご指導であったのだ。ほんとうにご迷惑をおかけしている。今でもである。申し訳ないくらいである。
・元に戻ろう。
・「冥途」では、漱石の「夢十夜」との関連を筆者は取り上げ、またいろいろな学者の分析を表にして紹介もしておられる。(p.30)
・ユングとの関連性を私は思った。あるいは、死生学とのも。無意識の世界が、百間先生の作品には広がっているからである。
・冥途というタイトルから受ける感覚についての分析も鋭い。(p.105)
・冥途について、まずは山折哲雄先生の説を紹介してから一気に引き込まれる。
・山が、仏教以前から死者の霊が立ち上る特別な地域と考えられていたと言われる。柳田國男も同様な指摘をしていて、日本人は古くから死ぬと魂が遊離して山に登っていくと信じられていたという。
・感覚的に非常に思い当たるところがある。
・折口信夫の「マレビト考」からの海上他界の説も紹介している。
・折口は「なぜ人間は、どこまでも我々と対立して生を営む者のある他界を思ったか、他界を願望したのか」ということである。
・他界という物語をなぜ人間は持ち続けてきたのかということであると、私は読み替えたが、まさにこの点こそ、この大論文の言われたいことであったのではないかと思う。
・非常に構造主義的であると私は感じるのである。
・いわば、現世と異郷において、この世とあの世の境界を物語ることになるわけである。このあたりの指摘は非常に興味深い。著者も指摘しているとおり、文化人類学的な複合的な視点からの分析をされていたのである。
・この点が、この本を手に取った最大の理由である。
・冥途とは、観念の操作である。つまり物語である。観念から、物語は構成される。当然、それは他者になりすまして構成することも可能になる。であるからして、内田百間先生の作品群で、決して間違ってはならないことが、語り手=作者ではないということを意識して読まなくてはならないと思うのである。
・それにつけても、この書の研究方法はみごとなものである。真摯なる姿勢と、地道な研究の精進ぶりに感服つかまつった。
・感謝である。