・ちょっと前までは、連休というと楽しみであったのだが、エブリディ・サンデーではまったくどこにも行くあてもなし。いく気にもならない。退屈なだけである。
・だんだんものの見方が皮肉っぽくなってきているのが、爺らしくて実に面白い。こんな爺になるとは、予想もしなかった。(半分くらいヨソウはしていたけど・・)
・普段から、そういう傾向にはある。だから、こんなふうに無事平安で生きていられるのであろうと思う。思うだけであるけど。ただし、忘れっぽいので、随分気をつけるようにしている。銀行に行ってカードをわすれたりしていては、いかんですからね。(これ戒めです・・)
・これで、生涯教育を志していなかったら、ほんとうにあたしゃアブナい。なんにもすることがなく、一日中、ひなたぼっこしていたんでは、危険である。
・良かったと思う。本学に入学させていただいて感謝である。こんなあたくしを入れていただいたということ、これがなにより嬉しいのである。城西国際大学は大英断をくだしてくださったのだ。ありがたいことである。
・生涯学習というのは、なにも他人に自慢したいからやっているのではない。自慢するなら、もっと別のやり方がある筈である。勉強って自慢するためにやっているっていう人がいたら、そいつは永遠の自慢地獄に陥るではないか。いわゆる進学校というのが、数値の争いにこだわるなら、自慢地獄をひた走るしかなくなる。危ない、危ない。
・あたしゃ、比較対象する相手もいないから、そんな気もないけど、なにを今更社会の中で、這い上がって行こうという気もない。まったくない。そんな娑婆っ気は消え失せた。もういいのである。もうごめん被る。どんな美人が来ても、まったくこころ動かされることもない。何故なら、あっちに無視されているからだ。(^0^)/ウフフ
・我が家の老犬を見ていると、しみじみいい境涯を生きているなぁと思う。17歳の老犬である。還暦の老人が、同じく老犬を散歩させているんだから、なかなかこれは絵になる。お互いにいたわりあいながら、とぼとぼと歩いているのだ。他者との共生である。もっとも、ワンコが他者になるかどうかはまた別問題ではあるが。
・ところがである。その共生相手が、一昨日散歩中に気絶した。前足を空中に泳がせて、失神したのである。あ、ついにくるべきものがきたかと覚悟した。心臓が弱っている。獣医の先生からお薬をもらっているのでそれは呑ませていた。しかしである。失禁までしていた。
・我が姿を見るようであった。いつ何時こうした状態から最期になるかわからないので、携帯を普段は持っているのだが、その日は持っていなかった。
・そばに私もうずくまって、よしよしと撫でていた。もう少ししたら、涙も出たかもしれなかった。
・しかしである。私の愛撫がきいたのかもしれない。よいしょと、よろよろではあったが、立ち上がったのである。直ったわけではないだろう。たまたま、倒れたのかもしれない。
・以来、元気に過ごしているのであるが、だんだんとこうやって元気がなくなっていくのであろうなと思った。しょぼしょぼと火が消えていくようにである。
・誰だって、そういう運命にある。100%である。死は平等にやってくるのである。それを忘れてはならない。
・刹那的に、今さえ良ければいいという生き方ではいかがなものか。
・往生要集を読んでいた。ノートも関連の書物をまとめてある。この書物が、ヒントになって、死生学にかかわるようになったからである。他にもいろいろ影響を受けたが、ケン・ウイルバーとか、岡野守也先生などには本当にお世話になっている。書物の上で。ウイルバー老師、岡野守也老師と申し上げたいくらいである。
・毎日、毎日深夜まで読書をしている。深夜にそうした世界に遊んでいると、宮澤賢治のような世界にはまり込みそうである。いいものである。書庫の小さな窓辺に夜ごと、いろいろな動物たちが遊びにきてくれそうな錯覚に陥りそうになる。来たら大歓迎である。セロ弾きのゴーシュみたいである。
・宮澤賢治というのは、老年になってはじめてその世界が味わえるのではなかろうか。私は、20代のころは、なかなか賢治の世界はわからなかった。最近である。いいなぁと思うようになった。幸い、書庫に賢治の書物がある。それをいくつか引っ張りだして、ふんふんと読み始める。これまたいいものである。
・連休はまったく遊びには使っていないけれども、これでいいのだろう。これで。そして、それをどっかでまた「贈り物」として、お伝えさせていただければと思うだけである。
・さ、今晩は、どんな生き物が書庫の北側の窓辺に来てくれるんだろうか。楽しみ、楽しみ。