と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

連休まったく無関係

2012年05月03日 21時38分11秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・ちょっと前までは、連休というと楽しみであったのだが、エブリディ・サンデーではまったくどこにも行くあてもなし。いく気にもならない。退屈なだけである。

・だんだんものの見方が皮肉っぽくなってきているのが、爺らしくて実に面白い。こんな爺になるとは、予想もしなかった。(半分くらいヨソウはしていたけど・・)

・普段から、そういう傾向にはある。だから、こんなふうに無事平安で生きていられるのであろうと思う。思うだけであるけど。ただし、忘れっぽいので、随分気をつけるようにしている。銀行に行ってカードをわすれたりしていては、いかんですからね。(これ戒めです・・)

・これで、生涯教育を志していなかったら、ほんとうにあたしゃアブナい。なんにもすることがなく、一日中、ひなたぼっこしていたんでは、危険である。

・良かったと思う。本学に入学させていただいて感謝である。こんなあたくしを入れていただいたということ、これがなにより嬉しいのである。城西国際大学は大英断をくだしてくださったのだ。ありがたいことである。

・生涯学習というのは、なにも他人に自慢したいからやっているのではない。自慢するなら、もっと別のやり方がある筈である。勉強って自慢するためにやっているっていう人がいたら、そいつは永遠の自慢地獄に陥るではないか。いわゆる進学校というのが、数値の争いにこだわるなら、自慢地獄をひた走るしかなくなる。危ない、危ない。

・あたしゃ、比較対象する相手もいないから、そんな気もないけど、なにを今更社会の中で、這い上がって行こうという気もない。まったくない。そんな娑婆っ気は消え失せた。もういいのである。もうごめん被る。どんな美人が来ても、まったくこころ動かされることもない。何故なら、あっちに無視されているからだ。(^0^)/ウフフ

・我が家の老犬を見ていると、しみじみいい境涯を生きているなぁと思う。17歳の老犬である。還暦の老人が、同じく老犬を散歩させているんだから、なかなかこれは絵になる。お互いにいたわりあいながら、とぼとぼと歩いているのだ。他者との共生である。もっとも、ワンコが他者になるかどうかはまた別問題ではあるが。

・ところがである。その共生相手が、一昨日散歩中に気絶した。前足を空中に泳がせて、失神したのである。あ、ついにくるべきものがきたかと覚悟した。心臓が弱っている。獣医の先生からお薬をもらっているのでそれは呑ませていた。しかしである。失禁までしていた。

・我が姿を見るようであった。いつ何時こうした状態から最期になるかわからないので、携帯を普段は持っているのだが、その日は持っていなかった。

・そばに私もうずくまって、よしよしと撫でていた。もう少ししたら、涙も出たかもしれなかった。

・しかしである。私の愛撫がきいたのかもしれない。よいしょと、よろよろではあったが、立ち上がったのである。直ったわけではないだろう。たまたま、倒れたのかもしれない。

・以来、元気に過ごしているのであるが、だんだんとこうやって元気がなくなっていくのであろうなと思った。しょぼしょぼと火が消えていくようにである。

・誰だって、そういう運命にある。100%である。死は平等にやってくるのである。それを忘れてはならない。

・刹那的に、今さえ良ければいいという生き方ではいかがなものか。

 

 

・往生要集を読んでいた。ノートも関連の書物をまとめてある。この書物が、ヒントになって、死生学にかかわるようになったからである。他にもいろいろ影響を受けたが、ケン・ウイルバーとか、岡野守也先生などには本当にお世話になっている。書物の上で。ウイルバー老師、岡野守也老師と申し上げたいくらいである。

・毎日、毎日深夜まで読書をしている。深夜にそうした世界に遊んでいると、宮澤賢治のような世界にはまり込みそうである。いいものである。書庫の小さな窓辺に夜ごと、いろいろな動物たちが遊びにきてくれそうな錯覚に陥りそうになる。来たら大歓迎である。セロ弾きのゴーシュみたいである。

・宮澤賢治というのは、老年になってはじめてその世界が味わえるのではなかろうか。私は、20代のころは、なかなか賢治の世界はわからなかった。最近である。いいなぁと思うようになった。幸い、書庫に賢治の書物がある。それをいくつか引っ張りだして、ふんふんと読み始める。これまたいいものである。

・連休はまったく遊びには使っていないけれども、これでいいのだろう。これで。そして、それをどっかでまた「贈り物」として、お伝えさせていただければと思うだけである。

・さ、今晩は、どんな生き物が書庫の北側の窓辺に来てくれるんだろうか。楽しみ、楽しみ。

 

 

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5月2日(水)のつぶやき

2012年05月03日 03時51分42秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
08:37 from Tweet Button
東京女学館大:閉校へ- 毎日jp(毎日新聞) mainichi.jp/feature/news/2…

08:40 from Tweet Button
東京女学館大、閉校へ 来年度から募集停止(朝日新聞) - goo ニュース news.goo.ne.jp/article/asahi/… 視点がちがうとこうなるのか・・・朝日新聞から

08:43 from Tweet Button
東京女学館大学閉校は「権力の暴走」であり「詐欺」である。 agora-web.jp/archives/14526… これも視点が違うとこう書かれるのであろう

08:44 from Tweet Button
東京女学館大学閉校が物語るもの 学校経営のプロ登場待望論 agora-web.jp/archives/14525… ふむふむ・・・・・

14:49 from gooBlog production
痛むのは・・誰?・・ blog.goo.ne.jp/tym943/e/daa90…

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こころと膝の痛む日

2012年05月02日 14時02分05秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・私の旧ブログをほったらかしてある。つまり、そのままにしてある。新規の記事はまったく書かないことにしている。当たり前である。前職の時に、広報活動でやっていたからである。未練がましく、前校長の日記とやったら、これは現校長に悪いではないか。それほど恥さらしではないつもりでいる。

・ところが、まだアクセス数が高い。このと~ま君の還暦老学生日記よりもはるかに人気がある。なぜか?・・・これを考えていた。

・挨拶のデータベースになっているのかもしれない。実際に、前職の学校で話したことであるから。もっとも、ほとんどは基本形というものであって、変化させておしゃべりしていた。式でも、来賓が急遽こられなくなったら、アドリブで変化をさせていた。これは聴いている方に、わからないようにやっていた。

・ありがたいものである。本当にありがたいものである。

・他に考えられることは何か?・・・現在の在校生諸君がのぞいてくださっているのかもしれない。これはいけない。もし、生徒諸君が見ていたら止めましょう。私と関わりのある生徒たちは、この3月に卒業した生徒までである。これからは、新校長のもと、おおいにがんばっていただきたい。こちらは在校生は見ていないでしょうけど。

 

・閑話休題。

・今日は雨である。実は膝が痛い。おしりの両サイドも痛い(^0^)/ウフフ

・原因は柔道である。年々からだが堅くなってきている。実に恐ろしい現象である。武術を語ることはできないのだろう、もう。つまり確実に身体的には、老いたのだ。しかし、それ故にこそ、稽古が大切であるとも思っている。身体的な要素の大きい武術は、衰えがすぐくる。それでも、なおかついわゆる使える身体を維持するのが、私のこれからの義務である。

・下手な精神論をここで展開するつもりはない。

・それでも、古来の優れた武術人の精神的境涯には憧憬する。上泉伊勢、柳生石舟斎、宮本武蔵、嘉納治五郎等々の方々に、である。(沢庵和尚も)

・自分にはまったく無い、とうてい及びもつかない方々である。文献を探し出してきて、ふっとため息をつきながら眺めていると、また日頃やっている文献や論文読みに戻れるのである。

・私だって、なんのために生涯学習をやっているのかと問われれば、そのことの回答を見つけるためであるとしか答えようがない。迷いの多い、自分自身を知るためである。繰り返し言うが、なにかになってやろうという気はさらさらないのである。つまらないことに拘って生きてきた自分を分析してみたいだけである。

・誰かに教えたいとか、そういうつもりはない。ただし、このブログの背景のような居酒屋で、銘酒を含みながら雑談はしてみたいと思うが。ささやかな願いではある。

・だから私は専門というものが無いと言ってもいいのだろう。強いて言えば、雑学。(^0^)/ウフフ

・あるいは、本学に入学させていただいた時に申し上げたニヒリズムの快癒のために、とでも言うのだろうか。

・学部卒論では、ドストエフスキーと椎名麟三であったから、このタイトルだけでおわかいただけるのかもしれない。

 

・Twitterで東京女学館大学の撤退を知った。いくつか拾っておいたので、明日またこのブログには反映されるであろう。多くの識者の分析があった。興味深いものがあったが、いろいろと疑問に思うこともあった。

・専門的な経営者を導入すべきという意見もあった。

・それはそれで問題設定としては結構なことであろう。それでも私には違和感がある。はたしてそうであったのだろうかと。経営者の視点だけでいいのだろうかと、思うのである。

・福澤諭吉せんせいは、その点を熟知しておられたのではないだろうか。現在の慶應義塾大学の成功は、まさに福澤諭吉せんせいの「物語性」にあったのではないかと思うからである。その物語を福澤せんせいは、多くの場所で、手法で語られたのである。後から考えれば、戦略上見事なものであって、それこそ学校経営上の大専門家であろう。

・しかし、福澤先生を思想家と呼ぶ人はあっても、学校経営専門家とは言わない。

・このあたりに、奥義があるような気がしてならないのである。

 

・大学の募集停止ということに、こころ痛む日々である。(おまけに柔道の古傷の膝も・・)

 

 

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5月1日(火)のつぶやき

2012年05月02日 03時57分23秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

08:37 from Tweet Button
凄いことでした。震度5で場所まで特定されていたからです。千葉県で震度5弱 東北関東など広範囲で揺れ - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/region/news/12…

08:39 from web  [ 1 RT ]
各地の主な震度は次の通り。 震度5弱=旭南堀之内(千葉)▽震度4=鹿嶋、潮来、神栖溝口(茨城)成田、東金、旭、九十九里(千葉)▽

08:40 from web
科学は、ここまで特定できるんですね。知らなかったです。不勉強で。

08:43 from web
今日は連休の谷間。もっとも、エブリデーサンデーの愚生には、カンケイないですか。大学に行って、また図書館に閉じこもります。夕方まで。夜はちびっこ柔道教室がありますから、楽しみ、楽しみ。

16:18 from web
邪悪なものを鎮めるという言い方は、なかなかいい。院生室でそんなことを考えたのです。私だけかもしれないですが、なかなか煩悩がたくさんあって、聖人君子のように生きることができないからです。(当たり前か・・)

16:20 from web
マズローも言っています。一部開放でいいのだと。所詮煩悩はなくならない。もっとも、私は他人に認めてもらおうというような気はさらさらないんですけど。「場」もない。天下の素浪人ですからねぇ。

16:22 from web
唯識学と、マズローを比較しながら読書していました。今晩、柔道教室が終わったら、また整理してみます。

16:23 from web
もっとも、だからなんなのだ?と言われたら、ぎゃっふんですがね(^0^)/ウフフ

16:25 from web
岩波の能講座の第4巻を借りにこれから図書館へ。そして帰りましょう。あああ、今日も充実していましたなぁ。良かった、良かった。

23:55 from gooBlog production
柔道教室で幼児たちと稽古したからではないけど blog.goo.ne.jp/tym943/e/b2d3a…

by tym943 on Twitter

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幼児性について

2012年05月01日 23時02分35秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・西欧的幼児性と、アメリカ的幼児性とあって、だったら日本的な幼児性というのはなんであろうかと、ふと思った。ふと思ったというのだから、まったくふと・・である。突然である。前後の脈絡もなにもない。

・さらに言えば、大人になっても幼児性というものはある。時期的にそれがあらわれたりするのである。ガンガン仕事に集中できる時期というのは、こういう幼児性が発揮できている時期であるのかもしれない。認めてもらいたいというのは、誰にでもある欲望であろうから。

・幼児性という事例で一番面白いのは、我が千葉県にあるミッキーマウスのいる場所である。

・実は私はあそこが苦手なのである。理由は・・・と書くと営業妨害になるから、書かない。

・好きな人にとっては、本当に夢とファンタジーの場所であって、大人になっても好きな人と一緒に行くのが定番であるそうな。私はごめんこうむる。(^0^)/

・もっとも一緒に行ってくれと言っても誰にも相手にされないだろうから、言わない。あ、孫なら一緒に行ってくれるかもしれないが。ただし、料金は全部爺である私が払うことが最低条件であろう。孫となら行ってもいいか・・・

・一人だったら、(二人でも)別に行きたくもないのだけれども。好きとか、嫌いだとかいうのではない。いつまでも子供のように、夢を追いかけていないで、しっかりしろと説教をたれるつもりもない。

・深層心理の中に、アメリカ的グローバル経済の中に飲み込まれている自分を(国家を)、嫌でも確認させられるのがぶるぶる震えるほど嫌なのである。

・大阪にある似たような施設にも前の職場の修学旅行で何度も行った。あそこも、同様である。いたたまれない。しかも、大規模である。退屈で、しかたなかった。どちらも。

・銀河鉄道の・・・という宮澤賢治の作品も、また夢とファンタジーにあふれている。しかし、あれは、死者の書である。宇宙を旅しているスリーナインという汽車は、多くの死者と共に宇宙をさまよっている。不気味な作品である。賢治の宗教が露骨にあらわれている。あまり言われないが、賢治は全体主義者の田中智学に私淑していたことからもわかるように、決してファンタジーオンリーの作品ばかり書いていたわけでない。死と生をしっかりと見つめていた作家でもある。

・だから夢とファンタジーの世界は、ある種の「物語」を構成し、われわれに語りかけてくることによって、なんらかの縛りをかけてきていると思う。なんの批判精神もなく、そのまま受け取って、やぁやぁ良かったと喜んでばかりもいられないと考えているのである。

・「物語」というのは、単一ではない筈である。人それぞれに物語りがあってしかるべきであり、複数あるのが当然なのである。

・だから大規模な物語を見せられると、私は吐き気がするのである。そして、もっと注目すべきことがある。物語とは、他人になりすますことができるのである。作家がそうではないか。いろいろな仮面をつけて、それこそ体験したこともないことを物語にして語ることができるのである。

・職業もそうであろう。なりすましができるのである。社長は社長なりになりすまし、社長の物語を構成することができるのである。それが、見方を変えればリーダーシップと言われ、成功すれば賞賛され、失敗すれば責任をとらされて永久追放を受ける。

・大人になるということは、その物語性をいかに自分なりに構築できるかということであろう。だから、生きる力が必要なのである。学歴ではないかもしれないが、しかし、勉強に絶対的な時間を割いて勉強しなかったモノには、こういう生きる力は訪れてこないであろう。(ボクにも来なかったケド・・・トホホ)

・物語を構築できるということは、世界にたった一人のすばらしい可能性を持った人間であるという自覚からは生まれない。あの流行歌のオンリーワン・・・・の世界である。世界は矛盾と比較に充ち満ちている。いつも誰かに比較されている。それが現実である。どうしたって、いろいろな人に踏みつけられ、バカにされ、つばを吐きかけられたり、引き下げの攻撃を受け、可能性を踏みにじられてみて、初めて人間の裏がわかるわけである。そこまでいかないと物語は語れない。

・だったらそういう体験を使って、自分なりの物語を作っていけばいいのである。

・後は時間をたくさん使って、実現のために努力すればいいだけの話である。その物語は、良い意味で、自分だけのオンリーワンの世界であるからである。

・夢の実現のためと言い換えてもいい。夢とは、物語を作ることでもあるからである。だったら、最初に申し上げた「幼児性」とどう違うんだい?と言われる方がいるかもしれない。

・ちょっと違うんです。それは物語は、自分なりに計算ができないと、作ること自体が難しくなるからであります。それだけです。それだけ。

 

 

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/