ボケないためにどうするのか?というのがボクの課題である。
ホンマに。
あるホンを見ていたら認知症患者が200万人以上おられるとのことである。凄い数字である。これは無視できない数字である。特に専門のドクターのホンが一番参考になる。
老犬を17才で喪った。つい今月のことである。5日であった。最後は、二つある自分の小屋に吠え、純粋な紀州犬であったからきれい好きで自分の縄張りを汚すことを極端に嫌っていたのが、そうではなくなった。白内障で目も見えなくなった。腰が駄目になって、まっすぐ歩けなくなった。
定年後にボケる男性も多い。仕事、仕事と一心不乱にやってきたのはいいが、定年後にすることが無くなってしまって、意味を失ってしまうととたんになる。配偶者がいれば邪魔にされる。たしかに、邪魔だ。男なんて仕事をして金を稼いでくるだけの存在でしかなかったのかと慚愧の思いでいることも、また否定はできない。
だから、ボクは、生涯学習をやっているとも言える。間違いなくそれもまた一つの要因である。配偶者の邪魔にならないようにということを、若いうちから「習慣化」していたのである。まったくしょうもないじじぃであるが。
こんなじじぃであるから、決してでかい面はしない。学生であるということは、自ら「50,60洟垂れ小僧」であると宣言したのと一緒である。謙虚に生きなくちゃならん。年下の教授先生に教えを乞うのであるから、年のことは忘れて「教えていただく」のである。このことは厳しく自分に言い聞かせている。
ある大学の大学院生で、たしか教職大学院の修士だそうである。これは現場の教職員が入るのが多い修士課程である。そして、それなりの業績を持って入学してくる。中には著書を持っている現職教員も修士課程で学んでおるそうで、ゼミをやると露骨に自慢するんだそうだ。教えてくださる教授も顔負けの弁論を披露して、得意になっている。
笑ったねぇ。どこまでも教師根性なんだねぇと思った、その話を知ってから。ウマシカじゃねぇかとも思った。じゃぁ、なんの為に院生になったんだ?って。
教えてもらうのであって、自分の能力がいかに優れているかということを披露しに来ているのではねぇだろうにと思うのである。
元に戻ろう。
脳を鍛えればボケないということで、いきなり計算ドリルをやってストレスをかかえている老人もいるという。あるドクターは、そうではなく「長年にわたって『脳の上手な使い方をする』ことを心がけなさい」と言われる。確かにそうである。この場合、長年にわたってというのがミソである。
アンチエージングということで、若返って見えることを志向する方が多い。おかしくないかと思うのである。年相応でいいではないか。長年にわたって、無理をしないで、生きることがいいと思っているからである。
地方公務員にこういう方がいるそうである。「大過なく」「つつがなく」定年まで仕事をしてきたものだから、退職すると刺激がない。堅い仕事をしてきたから、友人もいない。たまに呑むのは同じ穴の狢ばっかり。現役時代の思い出ばかりしか話すことがない。だから、ボクは退職してから現役時代になにをしたかなんて、誰にも話はしないし、ましてや酒の肴にもしない。酒の肴なら、他にいくらでもあるからである。今、じじぃ学生でやっていることだって、かなりおもしろおかしくしゃべることができるから。(^0^)
地方公務員A氏は、そんなわけで、元来元気で社交的な奥様がカルチャーセンターとか友人達とおしゃべりをしに行くのをお見送りして、昼食も奥様に作っていただいて、「カレーを炊いておいたからね、暖めれば食べられますからね」とかなんとか言われて、リビングでじっとしていたとのことだ。なにもすることが無いから、テレビにやたら詳しくなって、テレビの評論家になってしまった。
あるとき娘夫婦が訪問してきて、「どちら様ですか?」とやって、はじめて奥様と娘さんは決定的なことになったのに気がついたとのことである。
つまり「長年にわたって頭を上手に使ってこなかったツケ」がきたのである。「大過なく」「つつがなく」生きてきた人生というのは、それはそれですばらしいことだが、反面それは「頭を使わない」「刺激が少ない」人生とも言えるのである。マニュアルどおりにやっていればいい仕事であってはならないのである。前任者のやったとおりにやっていたのでは、話にならないのだ。「大過なく」「つつがなく」なんて退職の挨拶に書くのがいるが、あれだけはやっちゃいけないのだ。ボケます!って自己宣言しているようなものである。ボクはそれはやらなかった。これまでも波風ばかりだったし、これからもオレは波浪高し、暴風雨の人生を送るでしょうなぁ。
定年後もすることが無いのだから、結局なにもしない。運動不足で病気になるのと一緒である。これは生活習慣病である。まっしぐらに病になるコースである。長年そういうことをやってきたのだからしょうもない。
長い間の貧しい知的生活や、精神生活によって病気になるのである。だから、気をつけなはれ!と申し上げたい。
特に「学校の教師」が最も危険だという数字がある。
ボケる危険度80%である。
そんなことはない、学校教師は頭脳を使っているからと言われるかもしれない。しかし、ちょっと待ってくだされ。
学校の教師は頭脳を偏って使っている。目の前の生徒は変わるが、教えている教科は一生同じである。ベテランになればなるほど、なんでも知っている。これが頭脳の使い方としては一番よくない。むしろ、ベテランになったら、これまでの教え方を改善し、工夫して行かれた方がよろしい。
もっと書いてみよう。教科別にボケの確率を出したのがあるのだ。人文科学系が多くて、理系の教師がすくない。体育や芸術系もすくない。実際に認知症のドクターが書いているので、間違いはないのであろう。
元教員がボケで入院してくると病院は実に困るのだそうだ。これには笑った。実に笑った。とくに元校長というのが始末におえないのだそうである。しかも、元県の教育委員会にいたというのが最悪だそうだ。看護師やジム職員を、「おい!君、こっちにきなさい」と怒鳴りつけるのがいるのだそうである。病院職員を、教育委員会の職員と間違っているんだろうってドクターが怒っていた。地元でも、「先生」「センセ」って言われているから、舞い上がってしまうのだろうと、ドクターは言っておられる。そんなに教員が偉いのかね?ってはっきり書いてあるのだから、相当なもんである。
笑ったねぇ。ウマシカじゃねぇかと。ボクはそこまでウマシカではない。(^0^)
これを知った時から、もしかして今のオレの生活はある意味ボケ防止にはいいのかもしらんと思うようになったのだ。
社会と接点がありすぎて困るくらいであるし、電車にも毎日乗っている。クラスメートや修士の若い方々は、みんな意欲があって、論文書きを一生懸命やっていて、刺激がある。しかもボクの専門は国語・国文学系であるから、女性も多い。美人も多いから、目の保養になる。これまたいいもんである。そして、27日もまた千葉市で能楽「田村」を見に行く。これまた、目と頭脳の保養になる。次の週は古文書の講習会に出席する。
あははははははっははである。うらやましいと言われたことがあったが、まったくそのとおりである。
楽しきことのみ多かりし。