仕事にはプロの仕事と、アマチュアの仕事があります。一日の時間を一定に区切って、その時間だけやっているというのは、アマチュアの仕事でありまして、殆どの人がこれに該当しています。8時間くらい働いて、それでもって収入を得ているわけです。それで勘違いをしてしまうのが、アマチュアなのです。
その収入で食っているから、生活をしているから、オレはプロだと思ってはならないのです。
プロだという以上、「才能と運」がなければプロとはとても言えません。
今日はそのことを考えてみたいのです。
収入があって、それで食っているからというのでは、ニセ坊主と一緒であります。お経なんて、声を上げて読むだけなら誰でもできるわけで、それを利用していったのが、全国に跋扈しているニセ弘法大師であるとボクはにらんでいるんですが、これ以上書くと叱られそうですから、この辺りで。。。
公務員批判があそこでも、そこでも、誰でも言っておるというのも、そこのところに気がついているからでありましょう。アマチュアの公務員がいるのではないかという錯覚が、批判する側の前提としてあるわけです。さらに公務員批判をしていれば、票になるという自称代議士(代利士?)というグループも存在する。
そして、批判する側は、ご自分の仕事はプロとしてやっているから、アマチュアの公務員が許せないっていう論理の組み立てになっているわけです。果たして、本当にそうでしょうか?
あなたも(ボクも)真の意味でプロなんでしょうかねぇ。人のことを言えるんでしょうかねぇ。ボクはこのあたりの前提が、素人であるからこそ、生涯学習が必要だと思って大いなる素人芸を追求しているんですがねぇ。
だから、仕事をしているときに、退路を断って、やみくもに突っ込んでいかないほうがよろしい。切腹すりゃいいんだろ?とかやけのやんぱちで、やっちゃいけないのであります。
所詮、アマチュアなんだからこそ、改善点があるんです。そこんところに工夫が生ずるのです。一丁前に、オノレの才能や、実力をひけらかして自慢していると墓穴を掘るんですぞぉ・・・気をつけなはれや!
プロなんだから、プロとして当然の仕事をせよと上司や、管理職は言うんでしょう。しかしです。そういう上司や管理職だって、所詮素人芸を長い間やっていたから、えらくなっていったというだけではござんせんかねぇ。
教員の世界にもプロ教師の会というのがあって、愚鈍なるボクは、殆ど全部を買って勉強させていただきました。まだ新本が買えた時代ですから。はははははははは。
プロだからという前提は、言葉としてはなるほどと思いますが、じゃぁ、プロだという以上、ソクラテス以来の教育哲学全部をマスターして、しかも完全にマスターして言っているんだろうな?と、ボクは聞いてみたいんです。「完全に」ですよ。「まったきこと」としてですよ。まったく間違いのない知識として、手法としてマスターしておられるんですかということです。
マニュアルをマスターしているからプロなのではありません。教師というのはそのへんをよく分かっているから、自慢だけはしない。あるいは、研究者でもないし、学者でもないのだから、小中高校の教員は謙虚です。実践が主体だからです。日々生徒と接しているからです。なにも研究者になれなかったから、あるいは学者になれなかったから教員になったのではありません。子どもが好きだから、教育実践が好きだから、学校現場に身を置いたわけです。
そういう意味では、彼らはプロでありましょう。実践家としては。ただし、才能と運が無い。無くてもいい。否、社会的な成功とは違った意味で、才能と運は無い方がよろしい。ペスタロッチではないけれど、教員は、ある意味では隠者でもあります。名声も、名誉も、社会的な地位も全くない仕事ですから。それでいいのです。それで。
そういうところを漱石先生はじめ社会の方々は嘲笑されるんでしょう。世の中を知らないとか、実力も無いのに、なんだかなんとか。物笑いの種になっても、じっと黙って、子どもたちの未来のために実践に邁進しているわけです。しかも、そういう謙虚な教師は黙っておられる。決して自己の教育実践を自慢しない。これはエライことです。
「運」を拒否しているんです。最初から。運なんて要らないんです。だって、教育実践をしてナニカになろうとしているんではないからです。有名になって、印税を稼いで、御殿のような家を建てるために教育実践をしているんですか?
そうだとしたら、そんな奴らほど、教師の風上にも置けないと、ボクは考えてしまうのですが。
(^_-)-☆A