と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

1月5日(土)のつぶやき

2013年01月06日 04時23分26秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ふうううう。やっとできた。駄文の脚注。0:21、印刷してチェックしていたが、もう一回やらないといかんですねぇ。シロウトだから。


孫が帰って来ているんで、遊びながら、時間を盗みながらやるっきゃないので。いろいろ大変ですわぃ。孫のかわいさの方がウエイト大きいですけど。


明日もあるから、これくらいで寝ます。(^-^)/


教育というものが、なぜ広く議論され、社会全体の問題になっているのだろうか。 goo.gl/8mqS2


老犬がいよいよかも知れない。立ち上がれない。今日一日で30センチしか移動できていない。水も呑めない。餌もムリである。17歳。リッパである。最後まですっきり生きてきている。こういう老い方をしていきたいものである。武士のように。


これから抱きかかえて、玄関に入れる。マットを敷いて、周囲に粗相をした時のために新聞紙を敷く。あたたかくしてあげるつもりである。せめてそれくらいしかボクにはできない。17歳である。


私立高校入試直前対策講座があるから、夜はアルバイトである。気になる。老犬が。しかたなし。しかたなし。


ひとつの役割を終えるということを考える。まさに、役割でワンコもボクも生きているのだ。役割があるから、生きがいにも結びつくのである。番犬としては最強の紀州犬である。イノシシ狩りにも使うような猟犬でもある。いろいろ教えられことも多々あったから、感謝である。


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教育というものがなぜ広く議論され、社会全体の問題になっているのだろうか。

2013年01月05日 16時08分51秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

教育というものが、なぜ広く議論され、社会全体の問題になっているのだろうか。そういうことをふと思うことがある。

そして、それは医療問題の取り上げられ方と同じような傾向を持っていると感じるのである。

医療では、脳死と臓器移植やインフォームド・コンセプト(説明と同意)とか、多くの緊急の問題が急に浮かびあがっている。脳死と臓器移植は、教育と関わらないとしても、説明と同意というのは、教育にも当てはまるような気がするのである。

医療は臨床の世界である。教育もまた臨床の世界であるような気がするのである。多くの生徒たちは、誰一人として同一ではない。成績優秀者も、そうでないのも質的に同じなのではない。スポーツの得意な子もいるし、そうでないのもいる。屁理屈の好きなボクのような子もいるし、素直な子もいる。つまり、実態が違うのである。それぞれに個性がある。

医療関係者と同一レベルで仕事をしているとは言わない。レベルの差はわかっている。また、内容も異なっている。それを無理矢理同一だと言っては、ボクの頭の論理構造が破綻しているとしか言うことができない。

いくらなんでもそこまでは言わないし、言えない。

しかしながら、いろいろ議論されながら、医療も教育もどうして大多数の人々を納得させられるような回答を提供できないのであろうかと思うのである。

医療も教育も、近代文明の爛熟と発展によって、もの凄いスピードで発展をした。居住地にも超近代的な大病院がある。12階建てとか、およそこんな田舎でこれほどまで医療体制が整っているところは無いであろう。最先端の大病院なのである。こんな土地にある方が不思議なくらいである。新しいし、快適である。そういう時代であるからこそ、全国各地で医療問題がやかましく議論され、隠れていた多くの病気や、問題点が顕在化してきた。これは医療と教育の両者に共通している。情報公開ということが言われるようになったこともある。

医療と教育への関心が広く一般化したとも言うことができるだろう。それまでは、お任せという面が医療と教育にはあったのが、そうではなくなったのである。ま、このことについてはボクは必ずしも賛成ではない。

入院した時は、ドクターに任せるしかないし、あれこれインターネットで調べることはするが、根本的に自分で自分を手術することはできない。あるいは、教育においても、先生に学ぶことを拒否しては、なかなか学ぶことはできないのである。

手術したことが多少なりともあるが、麻酔をかけられているのに、自分で医師にあれこれ指示をしていたらマンガである。ははははである。

教育だって同じである。全部を自分で指導できるなら、おやりになった方がよろしい。しかし、現実的には不可能である。他者からの知的な文化的スクリプトを贈与されて、はじめて知識は身につくと思うのである。

そろそろ問題点について述べたい。教育についてである。

教育もまた臨床の知であるならば、以下の3点について考えてみたい。
①教育への幻想
②教育への妄信
③教育の陥穽への無自覚
以上である。

①については、教育を受けると誰でも知者になれる、あるいは徳の高い人、さらに体力のあるアスリートになれるという幻想である。このことがいかに不可能なことであるかは、経験上だれでもわかっていることである。秀才や、天才が、真の意味で知者であるかというとそうではないことを我々はよく知っている。あるいは、自称秀才・天才が徳の高い人であるかというと、そうではないことの方が多いことを我々は知っているのである。しかしながら、努力をすれば誰でも天才になれるということを平気で教育は期待されるし、そう要求される方も多い。そうではなくて、相対的に自己調整機能にいかに優れているかということを、問題にしたい。つまり心身のバランスということである。健康でなくては、いかな天才といってもいかがなものかと巷間言われるのはそういうことであると思うのだ。

②についてはどうだろうか。医学も、教育も100%完全なのであろうか。治療をしたから、あるいは教育をしたから、100%完治したり、教育的成果が上がるのであろうか。そういう妄想を持って、我々は過ごしていないだろうか。だから進学校教育というのは、不安定なのである。進学数とか、進学率というのは相対的なものであり、少なくとも永遠不滅の数値ではない。妄信をしてはならない。神のようなものではないのである。絶対ではないのである。

③については、あまりにも科学的に特定の病因(医学的には)を、教育においても追求しすぎなのではないかということである。老化ということも、そうである。悪化した内蔵を切り取れば完治するわけではないだろう。老化ということは、身体的なシステム全体がうまく機能しなくなることであって、部分的な切り取り手術をしていれば、すべてがうまく機能して完治するというものではないはずである。科学的であるから、医療技術も、教育法方も間違っていないというのは「妄信」である。どこかで間違っていたらなんとするのだろうか。教育にも落とし穴はある。たくさんある。しかも現代の学校制度は、たかだか100年ちょっとである。そして、そういう落とし穴を見ようともしない。避けて通っているとしか思われない。

最後に言いたいことがある。

繰り返しになるが、教育というのは、システムとしての全体を言うのであって、部分的なことではないということである。テストの点とか、なんとかとかという問題ではない。

昔の人はいいことを我々に教えてくださったかもしれない。「知・徳・体」のバランスのとれた発達を言っている。これぞ究極の真理であると思うのだ。


※中村雄二郎著 「臨床の知とは何か」 1992年 岩波新書 を読んでの読書感想文

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1月4日(金)のつぶやき

2013年01月05日 04時22分54秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

おはようございます。10:00から新春特訓講座で塾へ。ははは。あと二ヶ月くらいしかできないから、全員の合格を祈りますなぁ・・・(^-^)/


こうやって民間は努力しているんですねぇ。いいことを体験させていただきましたよん。もうやらないけど。


退路を断たないこと(アマチュアとして生きて) goo.gl/EnNPy


凄い!100歳だって@[放送大学の大学生になってみました! + 学割のメリット + 日本一!100歳の大学生と会う。] imag035.exblog.jp/14731228/


100歳になっても、勉強なされるということに刺激があります。すばらしいことです。放送大学は。


まだまだボクなんかは、シロウトですねぇ。話になりません。まだガキですな。(^0^)/ウフフ


なにをやってもアマチュアですからねぇ。だから勉強するんでしょうけど。完成したって感じがまったくこれまでないんで。・・・当たり前かそんなことは。


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退路を断たないこと(アマチュアとして生きて)

2013年01月04日 14時37分44秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

仕事にはプロの仕事と、アマチュアの仕事があります。一日の時間を一定に区切って、その時間だけやっているというのは、アマチュアの仕事でありまして、殆どの人がこれに該当しています。8時間くらい働いて、それでもって収入を得ているわけです。それで勘違いをしてしまうのが、アマチュアなのです。

その収入で食っているから、生活をしているから、オレはプロだと思ってはならないのです。

プロだという以上、「才能と運」がなければプロとはとても言えません。

今日はそのことを考えてみたいのです。

収入があって、それで食っているからというのでは、ニセ坊主と一緒であります。お経なんて、声を上げて読むだけなら誰でもできるわけで、それを利用していったのが、全国に跋扈しているニセ弘法大師であるとボクはにらんでいるんですが、これ以上書くと叱られそうですから、この辺りで。。。

公務員批判があそこでも、そこでも、誰でも言っておるというのも、そこのところに気がついているからでありましょう。アマチュアの公務員がいるのではないかという錯覚が、批判する側の前提としてあるわけです。さらに公務員批判をしていれば、票になるという自称代議士(代利士?)というグループも存在する。

そして、批判する側は、ご自分の仕事はプロとしてやっているから、アマチュアの公務員が許せないっていう論理の組み立てになっているわけです。果たして、本当にそうでしょうか?

あなたも(ボクも)真の意味でプロなんでしょうかねぇ。人のことを言えるんでしょうかねぇ。ボクはこのあたりの前提が、素人であるからこそ、生涯学習が必要だと思って大いなる素人芸を追求しているんですがねぇ。

だから、仕事をしているときに、退路を断って、やみくもに突っ込んでいかないほうがよろしい。切腹すりゃいいんだろ?とかやけのやんぱちで、やっちゃいけないのであります。

所詮、アマチュアなんだからこそ、改善点があるんです。そこんところに工夫が生ずるのです。一丁前に、オノレの才能や、実力をひけらかして自慢していると墓穴を掘るんですぞぉ・・・気をつけなはれや!

プロなんだから、プロとして当然の仕事をせよと上司や、管理職は言うんでしょう。しかしです。そういう上司や管理職だって、所詮素人芸を長い間やっていたから、えらくなっていったというだけではござんせんかねぇ。

教員の世界にもプロ教師の会というのがあって、愚鈍なるボクは、殆ど全部を買って勉強させていただきました。まだ新本が買えた時代ですから。はははははははは。

プロだからという前提は、言葉としてはなるほどと思いますが、じゃぁ、プロだという以上、ソクラテス以来の教育哲学全部をマスターして、しかも完全にマスターして言っているんだろうな?と、ボクは聞いてみたいんです。「完全に」ですよ。「まったきこと」としてですよ。まったく間違いのない知識として、手法としてマスターしておられるんですかということです。

マニュアルをマスターしているからプロなのではありません。教師というのはそのへんをよく分かっているから、自慢だけはしない。あるいは、研究者でもないし、学者でもないのだから、小中高校の教員は謙虚です。実践が主体だからです。日々生徒と接しているからです。なにも研究者になれなかったから、あるいは学者になれなかったから教員になったのではありません。子どもが好きだから、教育実践が好きだから、学校現場に身を置いたわけです。

そういう意味では、彼らはプロでありましょう。実践家としては。ただし、才能と運が無い。無くてもいい。否、社会的な成功とは違った意味で、才能と運は無い方がよろしい。ペスタロッチではないけれど、教員は、ある意味では隠者でもあります。名声も、名誉も、社会的な地位も全くない仕事ですから。それでいいのです。それで。

そういうところを漱石先生はじめ社会の方々は嘲笑されるんでしょう。世の中を知らないとか、実力も無いのに、なんだかなんとか。物笑いの種になっても、じっと黙って、子どもたちの未来のために実践に邁進しているわけです。しかも、そういう謙虚な教師は黙っておられる。決して自己の教育実践を自慢しない。これはエライことです。

「運」を拒否しているんです。最初から。運なんて要らないんです。だって、教育実践をしてナニカになろうとしているんではないからです。有名になって、印税を稼いで、御殿のような家を建てるために教育実践をしているんですか?

そうだとしたら、そんな奴らほど、教師の風上にも置けないと、ボクは考えてしまうのですが。

 

(^_-)-☆A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1月3日(木)のつぶやき

2013年01月04日 04時21分48秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

NHKで放送されていた春日龍神を録画で見たです。


なかなかいいものですね。後半がちょっと騒ぎすぎだけど。ま、いいか。明恵上人もいいですねぇ。正月はこれだからたまらん。


能楽って、完全に趣味の世界でもあるけど、されど現代のばかばかしい世相にも通じるですなぁ。常に源流を意識して見ていると、そんなふうに思うんですが。ま、素人ですから許されよ。


今日はこれから孫が来る。楽しみ楽しみです。いつまで続くぞ、じーさま生活。永久にはムリだけどねぇ。終わりまでは、まっとうしたいっすね。(^-^)/


年賀状も今日4通いただいた。これで完全に確定した。来年からのが。ボクのようなあふぉ~にくださった方に感謝デスワイ。くださった方には、返事は出しましたので。マジにこれで確定。今年の住所録だけ保存して、後は削除します。もう要らないから。


葬送の問題と、死をどうとらえるのかといふこと blog.goo.ne.jp/tym943/e/a996a…


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葬送の問題と、死をどうとらえるのかといふこと

2013年01月03日 12時30分56秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

葬送を大げさにしたくないという家族が増えたという。密葬とか、家族葬というものである。高齢化が進み、70代の息子が、90代の親の葬式を出すことも珍しいことではなくなったということである。

社会を引退してからの期間が長いから、世間的な交際も減り、参列者も少なくなる。このことはある意味当たり前でもあろう。だからおおげさにしたくないという遺族が増えるわけである。特に、核家族となって葬儀についての行事関係について知る人がいなくなってしまっている。地域文化が継承されないのである。だから何をどうしたら良いかわからないのだ。

葬儀は規模がすべてではない。大規模だからいいのではない。むしろこじんまりとしたアットホームな家族葬もいくらでもある。ただし、「簡素化」だけが優先されるとなると、意味がまったく違ってしまう。

昔は、世間体もあって、あるいは遺族の見栄もあって、普通より相場を高く設定してくれというのが多かったという。ところが最近は、これが違っている。葬式なんかにカネをかけたって無駄だ、遺された方の生きる手段の方が大切だと言われてしまうのだそうだ。なんでもカネなのだ。こんなところにも、功利主義的な考え方が出てきてしまっている。カネが儲かるか、儲からないかという選択しかないのだから。

火葬する炉の前で僧侶が読経するだけの格安バーゲンもあるという。「炉前密葬」というものだそうである。

あるいは通夜のみで、すべてを済まそうという風潮もある。通夜の告別式化というのだそうである。本来は通夜というのはプライベートな性格があったのにもかかわらず、である。そのうち本葬とか、告別式が無くなってしまうではないのかと思うと心から寒くなってしまう。

喪主の側でも可能なかぎり、手間のかかる行事を拒否しているのだそうである。会食もなし、出棺の前に初七日をやるケースもある。香典も、辞退するケースがあるとのことである。特に都市生活者にとっては、老人がなくなったのだから、世間体を取り繕わなくてもいいという理由で、簡素化を目指すのであるとのことであった。

これ以上家族に迷惑をかけたくないという理由で、直葬を選ぶ老人も多いとのことである。田舎に住んでいても、先祖代々の墓は、子ども達が大都会に移っていってしまって、荒れ果てている。この先だれも管理してくれる人間もいないから、死んだらゴミと一緒だ、焼いてもらうだけでいいと言われる老人が増えているとのことだ。

自然サイクル保全事業協同組合という団体がある。火葬場に残ったお骨を骨粉になるまで処理する専門業者である。ある北陸のお寺に観音像があって、その裏手にコンテナが置いてある。そのコンテナの中には、残骨が埋葬されて永代供養されている。

遺族がまったくお参りにも訪れず、管理料も払っていなければ、「無縁墓」となる。法律も整備されていて、平成11年には「墓地、埋葬等に関する法律」が簡素化の方向で改正されている。

自分は将来無縁墓になるかもしれないという不安を抱えている人は、高齢者の25%であるという。法律の整備により、無縁墓は、納骨堂などで供養されるものの、官報への掲載と墓地内の看板に掲示(一年間)だけで、撤去できるようになった。遺骨は納骨堂で供養されるものの、墓地自体は転売可能となったのである。

供養する人がいなければ死者は忘れられる。

亡くなった方をどうするかということでは、「財産を減らしたくないから」という理由で葬儀を簡単にしてほしいと言われる遺族も増えているとのことである。

ゴミと一緒だからという理由だそうである。しかし、亡くなっていく方々は自分を本当にゴミだと思っているわけではない。人間の尊厳に関わる問題と、家族とのあり方をこの発言は示しているのである。自分をゴミだと言わなければならないという哀しい家族関係がそこにはあるからである。ある意味姥捨て山伝説よりも哀しい現代の風潮があるのだと思う。

散骨についてもふれたいが、このことはまたの機会にやってみたい。

葬儀を考えるということは、ある意味終末期医療のことであり、家族学のことであり、死生学を考えることである。誰にでも例外なく突きつけられたこの真摯なる問いが、我々には確実に迫っているのである。誰にでも、である。誰だって死ぬんだから。

誰も逃げる事ができない問題。

それが「死」の問題である。




※産経新聞大阪社会部  「死の教科書 なぜ人を殺してはいけないか」 (扶桑社) 2007年 を読んでの感想文

 

 

 

 

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老犬が騒いでいたから

2013年01月03日 06時04分41秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

老犬が6:04騒いでいたので目が覚めてしまった。ガレージでクルマに挟まっていた。クビが抜けないでいた。それで助けてくれぇというワケであった。困ったもんである。完全に、ぼけている。かわいそうである。まったく、まったく。わが身を見るようである。

それから拙ブログに記事を書いている。朝トレーニングである。文章の。指ならしである。何がこのぶっとい指先から出てくるのかはわからない。すべてお任せである。

他の方々の論文書きを拝見することがよくある。早い。早い。実に早い。アタマの中に全部文章が入っているから、早いのである。すばらしいことである。愚生は原典を明らかにしながら、根拠頁を打ち込みながらやっているから、けっこう時間がかかる。しょうがないでないか。コピーだけはいかんからねぇ。

ところで、県の生涯大学志願受付が終わっていることに気がついた。締め切りは、去年であった。しょうがない。でも、これも千葉市でやったり、銚子でやったり、けっこう交通費がかかるんですわ。かえって良かったんかな?

後は、居住地の社会人講座を聴くしかない。こっちは3月ころが締め切りだったと思ったけど。違ったかな?

老人クラブも検討している。地域に関わっていかないとこれからの時代、元教員様でございましたってお高くとまっていたら、相手にされない。教員なんて、それでなくても誰にも相手にされないからねぇ。ホントだよ。これって。たいしたことないのにねぇ。大したモンだって思っているのは自分だけ。退職したら、ただの人でありんすよん。勘違いしちゃいけまそん。このことは、大先輩達からうるさく言われたから、アタクシの戒律でございます。(^-^)/

ボク自身もそう思っているし。

地域と共に生きるって言っても、あんまり張り切って大活躍してそれで健康を損ねてもいかんです。ものにはほどほどというものがある。あんまりワサワサと力まない方がよろしいんです。力むと碌なことがない。力むということは、プッツンと折れることがあります。柔道で多く経験しているんです。手首を骨折したことがあったっけ。あれは、成田北という学校の教頭時代でしたな。左手手首だったからまだ助かったケド。

それに、柔道は健康に良くない。(^▽^)

あんまりいきむというか、力むというか、そういう無酸素運動は感心しない。立ち技が特にそうであります。瞬発力が要求される。あれはよくない。

要するに柔軟な対応力というものがどれだけ自分の身になっているかということが、大切なんですねぇ。それが生きるための、あるいは生き残るための実力でありまする。

エビだって、柔軟に伸びたり縮んだりしています。これが要なんですね。カナメ。原理原則と言ってもいい。それが大切です。あんまり固定的に凝り固まって、ガチガチになっていてはいかんです。

 

 

困ったことが起きたですな。

年末は床屋さんが混んでいるからって行かなかったんです。年が明けたら行こうと思っていたら、明日の4日から営業となっている。これは(*_*) マイッタ

もっともボクのアタマは、髪の毛が無いから、あっというまに終わるんですがね。バリカンでバリバリとやるだけ。一番床屋さんがお慶びになるって言われたっけ。簡単だから。ハハハ

明日からアルバイトだし。塾の。きれいにしていきたいんだけど。これだけは限界がありますなぁ。

つまらんことです。

 

さ、これからまたまた駄文書きを始めなくてはなりません。

孫も帰ってくるし。

 

(^_-)-☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1月2日(水)のつぶやき

2013年01月03日 04時16分37秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

もうお昼か。。。。。


正月は予想どおり実に多忙です。年賀状は少なくなったんですが、なにしろなにしろやることが多くて参りますなぁ。


これで今年は酒を呑んでいないから、まだいいけど。


呑んでいたら、行動ができないっすねぇ。酒は呑むと酔うから嫌いです。(^-^)/


これから来客がある。横浜から来るから駅伝で混んでいるらしい。たいへんっすねぇ。選手も地元の人間も。


現役時代とは違う静かさ=就活不成功になりますよん goo.gl/tAWPz


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推敲をしなくちゃ

2013年01月02日 13時04分50秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

今年は、仕事というかアルバイトというか変えるつもりであるが、どうなりますやら。

別に働く気力もないし、論文書きの邪魔になることは極力やらないことにしているので。この冬季の休みでも、留学生である修士課程の院生たちは、アパートで論文書きを朝からずっとやるのだと言っていたし。実際、そのスピードたるやもの凄いので、こっちも実に刺激になります。これが通学制のいいところです。刺激があるからであります。

世の中、努力している人は、ゴマンとおられる。このことを絶対ワスレテはならないわけです。本当に、オレは自称秀才であるとか、うぬぼれておると世の中に置いてけぼりをくらっちまいますなぁ。

もっとも、最初からかなり引き離されておりますが。ボクちゃんの場合。
(^0^)

スタートが遅かったですしねぇ。

遅くても亀のように、ジワジワとやっていればよいものを、それができなんだ。ははははですわ。だから可能ならば計画的に人生は生きていかれた方がよろしい。まったく、まったく。反省と共にあります。

計画通りにできないことも多々ありますがね。世の中には。

そういふ時は仕方なし。嵐の治まるのを待つしかないであります。クビでもひっこめて。これこそ亀の如くであります。こういう時は亀さんに学ぶことであります。

何事も焦って一気呵成にばぁ~んとやっつけ仕事をしていたら、どっかに破綻がきます。長いサラリーマン生活をしてきて、このことだけは身に染みました。

一気呵成というのは、本来面倒くさがりだからやってしまうわけです。なるほど、一気にやってしまえば、自己満足はできます。オレはなんてやり手なんだろうとか思いながらできるのですから。

でも、それってなんだか逆に楽しくないですな。

多くのビジネス・エリートという方々からは嘲笑の対象になるんでしょうけどねぇ。じじいの戯言ですから。

 

自己啓発書というか、ビジネスマン向けの仕事情報誌とか書籍はまったく買わなくなりました。読む気もしない。これがリタイアする前と、後では違うんです。現役時代と、退職してからは問題意識が全く異なります。仕事そのものへの取り組みは、全く重要なことであって、それすらも情熱的に取り組めないようではいかがなものかと思っています。

就職活動でもそうです。真剣におやりなさいよと申しあげたい。絶対に、ボクのような心情ではいかんことです。ボクだって、頑張ってきたから、静寂な心境になれたんであって、最初からこんなひねくれじじぃ的なこころ構えでは採用はされません。間違いないです。

夕方になりました。

外は寒いですなぁ。

老犬も、熟睡しております。

ボクは、これから再度チャレンジ。推敲をしなくちゃ・・・・・

 

(^_-)-☆

 

 

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今年もよい年にいたしましょう

2013年01月02日 11時56分08秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

楽しいことがないと、ボクは拙ブログの記事は書かないことにしているので、元旦は書けなかったのです。

第一、せっかく初日の出を撮影しようとしても、お日様が恥ずかしがって出てこないんです。ボクのアタマがきらきら輝いていたんじゃかわいそうだと思ってくださったのかな?・・なんちゃって。

それと、平成25年1月2日(水)は午後から来客があるので、午前中のこの貴重な時間を使って、あっというまに記事を書いて、これから配偶者と買い物にも行かなくちゃならんのです。それと、年賀状のお返事を出してきます。

これで、こちらからは70枚出して、後からいただいたのが90枚なんですが、確定しましたね。なにがというと、退職したら年賀状を寄こさなくなる方が殆どだと聞いておりますので。だから、今年の方々は生涯のおつきあいということになります。ありがたいことであります。迷惑だと言われたりして。

(^0^)


ボクのような懶惰な、山賊まがいの乱暴狼藉大好き人間でも相手をしていただくのですから。感謝でありまするよん。

論文書きも、一段落ついてしまったのですが、なんと字数が大幅にオーバーしているんです。3万字近くなっておる。これじゃぁ査読に合格しないんです。かなり長いものでも、研究誌にはMAXで2万字でしょうから。これから削るしかないのです。(*_*) マイッタ

 


好きなことをして暮らしていけるんですから、ま、良しといたしましょう。自慢できるものなんてアタシャなんもないし、生涯学習をやっているだけですから。

こんなふうになるとは思いもよらなかったです。


箱根駅伝も見ながら、応援しているんです。生涯学習でお世話になっている現在の在籍校の兄弟校が出ているし、学部の時にお世話になった大学も出ています。修士の時の大学は出場していないですけど。

それで、思ったのが、オレは母校がいくつあるんだってこと(^0^)

放送大学も入れたら、中央仏教学院も入れたら、なんだか算数のできねぇボクはわからなくなっちまう。混乱の極みですなぁ。

さらに、今年は地元の老人大学にも通学しよう。
コンピュータ講座とか、郷土史の講座とか、面白そうだなぁ。あ、郷土史の講座の先生方は、ボクの所属している郷土史研究会のメンバーでしたが、ま、これもまたいいか。楽しみでやっているんだから。

 

普通、新年の挨拶は最初にやるんでしょうけど、あまのじゃくのとーまは最後に。

今年もよろしくお願い申しあげます。

 

(^_-)-☆


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12月31日(月)のつぶやき

2013年01月01日 04時40分06秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

21:10です。紅白を見ながらTabletでTwitterをやっています。さっきまで、道徳の駄文を書いてとうとう12000字に。それでもういいっかということで、テレビに来ました。


明日からは、別の文章書きをせにゃならんのです。ははははは・・・・これじゃ正月もなんもないですな。ま、いいか。どこにも出かけるわけじゃぁないし。


二日に来客あり、三日には孫が来るんで楽しみですがね。だから急いでいるんです。孫が来たら、べったりになるだろうから。


紅白を見ていて、びっくりしているのが、歌い手の顔と名前が、よくわからんのです。ベテランはわかるけど、若い人はまったくだめでござる。(^0^)


特に、48人も出ているグループの女の子たちは、まったくわからないのです。はれぇ~~というわけです。じじぃは、こういう芸能を楽しめないのですなぁ。


最後は、このグループ何人になったんですかね。100人くらいいたんですかね。よくわかりませんが。


それより、愚生は、新年になると「年神様」が来るという信仰の方がおもしろいと思っておるのです。


居住地の寺院とかちょこっと行ってみて、九十九里の浜から初日の出を拝みたいですなぁ。可能ならば、youtubeにアップして拙ブログでご紹介してみたいです。無理かな。朝まで起きていらんないだろうから。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/