大阪の高校の体罰問題が出てきた。いくらなんでもありゃないなぁ。結果が。かわいそうだ。禁止されていることはしないことだ。それくらいわかりそうなものだが。
しかし、禁止されているからやらないのだろうか?本当にそうだろうか。知らないで悪いことをしているのと、知っていて悪いことをしているのではどっちが悪いか?という問題設定がかつてあって、当然ボクは、知っていて悪いことをする方がいけない、悪であると回答したのだが。
それは違うのだそうだ。
知らないで悪いことをするのが、もっと悪いのだそうだ。へぇーーーと思ったことがあった。若い時にだ。道徳教育の研究で勤務していた中学校が全国発表をするというので、若造のボクはいろいろとあちこちの研修会で勉強をさせていただいていたんだっけ。そのときに、この既知であることと、未知であることの善悪判断論を教わったのである。今になって感謝ですよん。論文が書けるから。さらさらと。実践をしているんだから、こりゃ有利ですわな。
本来の人間というものは悪であるという立場からものを考えておられるのだ。そういう回答をするかたは。しかし、世にあまたある不祥事というものは、知っていて悪を行うのだと思ってきたが、知らないで悪いことをする、つまり生まれつきの悪党だからやっちまうっていうのはある意味暴論だと思ってきたが、どうもそうではないらしい。やめられないんである。人間の哀しい性なんである。そう思うとわかりやすい。
原罪論まではいかないんだろうけど。ま、ちょっと納得いかないが。
社会体育をながらくやらしていただいているので、あんまり勝敗に拘っている種目を見ると、ちょっといかがなものかなぁと思うことがある。成果を求めすぎではござんせんかと感じる。それでいいんですかね?って。
身体だけを追求していると、いつかはその身体がボロボロになる時がくる。勝負の世界を捨てるときが来るのである。
身体だけではない。精神もである。両方ともボロボロになったらどうするのか。そこまで考えたスポーツ種目はあるのかと思う。
素人だから、よくわかっていないんだけどね。
しかし、自殺にまで追い込むことはない。命と同じだけの価値があるのかね?その勝敗というものが。・・・あるのか・・・・剣術がそうか。昔の。これは直接的な命のやりとりであったからなぁ。死ぬかもしれないという極限で戦っていたことであるから。
されど、柳生石舟斉だって、上泉伊勢だって、あるいは宮本武蔵だって、晩年は勝敗を棄て、哲人になった。これをなんと思うか。老人になったと思うだけか。それとも、堕落したと思うか。
奴らはただのじじぃになっただけだと思うことはたやすい。そういう視点は、批判しているその方の視点が上から目線である。あんなじじぃに何がわかるか、ふん!っていう思い上がりである。
そういう輩は、自分を実にたいそうなもんだと思っている。学歴も一流だし、生まれも尊い方の末流であるとか、貯金も凄いとか、車も高そうなものに乗っているとか、自慢たらたらである。勘違いしないほうがいい。
先日、ご自分の出身校のことを聞かれて、「たまには自慢させてよ~」とか甘ったるいことをおさなごに自慢していたのがいたが、それとかわらぬ幼稚な発想である。
相対の発想であって、絶対的価値があるから自慢しているのではないのだ。わからねぇだろうなぁ、そういうことを考えるやつって。いくら言っても。自分の方が上だとか、下だとか、馬鹿なことしか考えられないのだからなぁ。
無明を生きてござるよ。
学校教育と生涯学習の区別もつかないのと一緒ですな。
なんだか世の中、騒がしくなってきたけど。教育問題では。