今日から通学したので(暑かったケド)
今日から大学は実質的に動いている。まだ学生さんは多くはないが、院生室と図書館にはたくさんいた。うかうかしていられない。ダブン書きを専門としているんだから、資料にあたらないといかん...
今日から通学したので(暑かったケド)
今日から大学は実質的に動いている。まだ学生さんは多くはないが、院生室と図書館にはたくさんいた。うかうかしていられない。ダブン書きを専門としているんだから、資料にあたらないといかん...
ドクターの名言
退職してからじり、じりっと血圧が高くなっているので、8月の7日に病院に行っていた。その後、朝晩二回ずっと血圧手帳をつけていた。なかなか面倒だが、健康のためならやるっきゃない。それで、二週間たったから、今日の午前中に専門医のところに出かけた。
結果はクスリを呑むほどのことではないということであった。
しかし、これはいい機会である。毎日血圧を測って、血圧手帳に記録するってことが、いいのだ。つまり、オレ自身の健康に対する関心度が高まるってことだ。
オレの年で、常備薬をナンニモ飲んでいないというじじいが珍しいのだけれども。ジムの仲間たちと、いつも馬鹿話をしているが、その中にクスリ自慢をしているのがたくさんいて、そういう意味ではオレはじじいのクスリ愛好会から仲間外れにされているからだ(^0^)。
本当にオレはしぶといなと思う。そういう意味では。
ま、禿のクスリがあったらもらいたいくらいであるが、そんな禿げに効くクスリを発明したらノーベル賞ものだそうな。オレは自分の禿なんぞまったく気にしていないからどうでもいいけど。かえって、禿げていることで、随分得したなぁ。
女の子のいる飲み屋に行っても、全くモテナイから、一番モテたやつが今回は支払うことっていう賭けでも、オレは一度も負けたことがない。そのワケは、参加することすらできなかったからだよん。あははははは、ざまーみろだ。自称ドンファンを気取っていた、あのバカ、このあふぉ~には悪かったなぁと思っているけど。今更、カネを払えとは云わねぇだろうから。
ドクターといろいろと話をしていた。
「先生、退職前の現役時代は血圧はむしろ低かったんですがねぇ」
「そうでしょうね」
「なんでですか?」
「定年退職した方は、あれですよ、あれ。家庭内にいてもなにもすることがないから、ストレスで血圧が高くなるんですよ」
むぎゅーである。
このドクター、見た目はおわけーのに、なかなか世間のしがらみをよくご存じである。定年で退職したら、なるほど、家で古女房ドノとアサから晩までにらめっこしていたら、そらストレスですわなぁ。たまりにたまって爆発します。古女房ドノもおんなじですわな。家になんにもできねぇ古亭主がいたら、ハラが立ちますよん。殴りたくなるでしょうよ、古女房ドノたちは。それこそ、圧縮袋に布団をつめるのではなくて、古亭主をつめて捨てたくなるでしょうよん。
オレはあまりの名答に感動していた。
だから、実はオレ、61になりますが、現役の大学生であります、とは云えなくなってしまった。
やることぁたくさんあるんですが、と云おうと思ってはっとなった。
そうか、オレの場合、大学生であることも血圧が高くなる一因なのかもしれないと思ったのだ。なぜか。それは、クラスメイトたちが、楊貴妃とも見間違うほどの「美女」であるからである。これは困った。ま、いくら綺麗でも、気にしなければいいことであって、大したことではない。どうせオレなんか相手にされていないのだから、まったく無念無想でありたいもんだ。できねぇけど。あはははははは。
美女よりも、オレの場合は、あれだな。「駄文書き」が一番の理由だよ。アサまで書いていることもあるし、うんうん唸っていることも多い。能力ねぇからなぁ。表現ということを考えるようになってから余計そうだ。
つまり、睡眠時間が不足していたのだ。
毎日10時間くらいは寝ようってことだ。
さ、午後からは県立図書館に行って、computerとにらめっこだ。
そして、夕方にはジムに行って、鍛えてくる。
夜はかわいい孫と一緒に食事して、早く寝る。明日、孫が帰ってしまうから。残念だけど。泪が出るほど残念だけど。10月にまたくるからと云っていたけど、今から待ち遠しいですな。マジに。
(^_-)-☆
県立図書館から帰る予定。16:27になるから。寺院縁起を入力してからはかどる、はかどる。千葉氏と椎名氏、真言密教と中世、もう書くことが山ほどある。100ページを超えるのももうすぐだ。この分では。研究と読書とは違うっていうような指摘もありがたかったから。研究は表現である。#fb
今日から塾のアルバイトも始まる。夜だ。ちょっと早く行って数学の問題で気になっているのがあって、確認をしてから勤務する。これもまた楽し。専門外だけど。頭の活性化ですよ。(^-^)/ #fb
研究のじゃまになるのは、宴会と、異性とのおつきあいと、読書だって書いていた方があったが、読書はともかく、オレは前者のふたつとはまったくご縁がないから、これだけ没頭できるのだなぁ、感謝ですよ。醜男に産んでくれたおふくろさんに。あはははははは。#fb
今日は夏の高校野球史上初の休養日でした goo.gl/1SwSuQ 明日は初の決勝を目指す4校がぶつかります。準決勝2試合のみどころや、これまでの熱戦の写真特集などはこちらから→ goo.gl/jEKD6f
心理分析などというものは、どこまでやってもきりがありません。この世のはてまでも続けられます。深層心理を追っていってごらんなさい、いくらでも自分の中に奇妙なものが見つかる。 『エンデと語る』
いつもながら憎たらしいことを云うなぁスニフ君は@ ムーミン谷の名言bot @moomin_valley ぼくはここに座って、さびしいなあ、ともだちがほしいなあ、と思っていたところなんだ。 - スニフ #fb
憎しみのこころは毒素ですわい@瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。#fb
確か東北には古くから亡くなった霊が、山に帰るという考え方がある。山に帰った霊は、山の神になるんだったような。して、年の節目節目に子孫のいる里へと降りてくる。これ自然の信仰ととても密接に関わっていて、それが豊穣をもたらし、やがての子孫繁栄に繋がるというような考え方だったような。
盆提灯。今年は弟不在のため、先導を私が務めた。
「ご先祖様御一行~。皆様迷わずこの光について、家までおいで下さいまし。」との具合。 pic.twitter.com/AJ7MaeGdZd
ふるさとの「誰そ彼刻(たそがれどき)」日本の原風景です。
フィルターで画像加工せずとも、この美しさ。
「トワイライト」でも似合う風景かな。 pic.twitter.com/GQvrKPs1Pm
[戦争の秩序の中]では、力の試練こそが現実的なものの試練である。とはいえ暴力は、傷つけ無化することにあるのではない。むしろ人格の連続性を中断させ、そこに自分を見出すことがもはや不可能であるような役割を人々に演じさせることにある。-全体性と無限-
形式をもった遊びを続けようとするなら、それが音楽であれ、物語であれ、その遊びは、内的な構造を必要とします。私にとっては、そもそもこの構造の方が、同時に生まれる作中の人物よりも、ずっと重要に思えるのです。 『ファンタジー神話と現代』
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
劇はその本質に従えば、悲劇であろうが喜劇であろうが、儀式的なものです。そして、儀式的である限りにおいて、つまり心理学化されない限りにおいて、他の形式と交換できないのです。これはまたもや、儀式化された題材、つまり、神話、メルヒェン、超越的出来事を扱うことを前提しています。
私には本来イメージ物語を物語ることが重要なのです。なぜなら、イメージは概念よりずっと多くのことを語ると信じているからです。人間の根源的な言語はイメージ言語です。私たちの夢はイメージの中で行われます。そして、ある意味で、あらゆる人間は夢を見ているとき詩人なのです。
古典時代の思考にとって、有限性というものの内容は、ただ無限性の否定だけであった。ところが18世紀末に形成される思考は、有限性というものにポジティヴなものの力を賦与する。その時に出現する人間学的構造は、限界を設ける臨界的役割と、起源をつくる役割とを、同時に果たす。-臨床医学の誕生-
幼さと幼稚さとを区別しなければなりません。人間の中の幼さは、感動でき、自発的で、経験に開かれた、もっと進化する能力です。人間はこの幼さを本来決して「克服」すべきではありません。それに対して幼稚さは、大人に現れるとき、ちょうど停滞し、発展しない、硬直したハビトゥスです。
■「すべての暖かい夜 月光の下で眠れ その光を、一生をかけておまえの中に取り込むのだ おまえはやがて輝きはじめ いつの日か 月は思うだろう おまえこそが月なのだと」【クリーインディアンの詩】
デモーニッシュなものを可視化し、命名することは、私たちに、それと対峙し、それを凝視し、それによって、すでにその本来的な危険性を取り去る可能性を与えるのです。闇と不安を秘密にする文学は、本当には治癒的に作用できない、言い繕いの文学でしょう。 『Magische Welten』
私たちは、まずまっ先に、時間のなかだけでも、空間のなかだけでも成り立たないような同時存在ということが、物質を通じて招来されることを知る。時間だけなら、並存ということを知らないし、空間だけなら、先、後、今の区別を知らない。
この「人」を「孫」と言い換えてもいい。
孫とは、いつか別れなければならない。何年後には、こっちが死んでしまう。ついこの間に、孫と初めて会... blog.goo.ne.jp/tym943/e/b8b25…
【造仏黎明期と鞍作止利】鞍作部は馬具を制作する渡来系の一族であったが、一族には仏教に精通するものも多く、蘇我氏との関係も深い止利が朝廷より造仏の命を受けたのは当然であった。模範となる仏像が存在しない上に、元来仏師ではない止利にとって、飛鳥時代の仏像造営はストラグルの時代であった。
芝居を見るという経験には、心を救う効果、つまり治療の効果がある。そういう経験の属する次元を変えない限り、それは人生に必要不可欠なものだ。ところが経験の成立するレベルを混同すると、経験は、人生に危険なもの、人生を破壊するものになる。
読者は本の中の黒インキの文字を読んで、心のなかでその情景を思い浮かべねばなりません。心の中で言葉を聞かねばならない。読みながら、本当はその言葉を一緒に話さなければならないのです。これは他のなにものにも代えがたいある親密さ、近密さなのです。 『MOE 1993年2月号』
普通のニュースをみているとそうでもないのですが、新幹線の中の一行ニュースを見ていると、この数ヶ月ファシズムが台頭して来ているような錯覚(じゃなかったりして…)を覚える。で、そんなときこそ哲学者の思考が冴える時なのである。そして御用哲学者とそうでない哲学者が分かれる時でもある。
歴史的に言えば、道徳が政治に対立し、賢慮の働きや美の基準を乗り越えて、無条件的で普遍的なものであることを主張するに至るのは、メシア的な平和についての終末論が、戦争をめぐる存在論の上位に置かれる場合であろう。哲学者たちは、けれども終末論を信じていない。-全体性と無限-
こう言えるんじゃないかな。私がファンタジーを生み出すかたちは常に舞台のシーン的なものに向かって考えられていると。だからこそ、私は対話体をたくさん使い、それを重要視しているのです。 『MOE 1993年2月号』
歴史が二十世紀に近づくにつれて、人間は内にも世界を持つことを忘れ、周りを取り囲む外の世界にだけ関心を集中するようになる。でも、この私たちの中にある、内なる世界も同じように実在するのです。 『MOE 1993年2月号』
深層の意識は単なる思考ではなく、絵を通じて語りかけます。それが語ることは夢や幻想的ヴィジョンの性質を帯びるのです。おとぎ話や神話というのは、そのどれもが夢想的ヴィジョンの性質を持っていますね。この夢想的なヴィジョンには意味が沢山ある。 『MOE 1993年2月号』
祈りとは、キリストにわたし自身を完全にゆだねること、キリストと完全に一つになること以外の何者でもありません。そしてこのことが、わたしたちを、この世のただ中において観想的にさせるのです。
主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。-M・フーコーとの対話-
高度に様式化された表現形式は自然主義的なことがらを表現できない。(内容としての)ことがら自体にも原ヴィジョン的な性質が必要になり、何らかのかたちで魔術的なものでなければなりません。 『MOE 1993年2月号』
■「命とはなにか。それは、夜の闇にまたたくホタルのきらめき。凍てつく冬の空気にバッファローの吐く白い息。草原を走りまわり日没とともに消えてしまう小さな影。」【インディアンの言葉】
瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。
今日の瀬戸内寂聴先生のTwitter botからのコピーである。瀬戸内寂聴先生のみならず、いろいろな方々からbotという形式で、Twitterで情報をいただいている。感謝である。そして、これをお題に、駄文を書き始める。なんだか、小論文指導の大家もこのやり方に興味を持ってくださっているらしく、いろいろと交流もある。それはそうかもしれない。
① 与えられた限りある時間に、
② 思い残すことなく
③ 人をたっぷり愛しておかなければ
このTwitterは上記の三点が重要である。
なかなかのことが書いてある。
瀬戸内先生はかなりの高齢である。だから、こんなつぶやきをしたんだろうとは思わないことである。誰だって上記の①から③は当てはまるではないか。誰だって。
時間は全員どっかで無くなるのである。
死がそれを奪うのである。
そのことを常にワスレテはならないのである。まさかと思うが、オレは、ワタシは永遠のいのちを持っていると考えている人はいないだろう。でも、あれかな?仕事中毒の時期にあるときは、オノレの人生もそうだが、仕事も終わりがあって、有限であるとは思えないんでしょうなぁ。
だから、「思い残すことなく」なのである。
このことは自由奔放になにをやってもいいというのではない。ある程度の制限がないといけない。でないと破滅する。法律によって縛られていることをやっちゃぁいけないのだ。どーもそのあたりは、現代文学を読んでおるとそれもまたok、これもまたokと云われているようで胸くそが悪くなっちまうのだが(^0^)。
最後の「③人をたっぷり愛しておかなければ」というのも、真実であろう。
打算の無い心境でいることであるとオレは思う。闘争の人生を送っているつもりでも、そんな闘争者にも愛を持って接してくださる方はおられるんであるから。しかも、それはこっちからの積極的な行動のもとにあるというわけだ。なるほどなぁと思うのである。愛してくれるという受け身の姿勢でなくて、愛しておかなければという積極のこころであるのだ。これは尊いことを云ってくださっているものであるとオレは思うのだ。
この「人」を「孫」と言い換えてもいい。
孫とは、いつか別れなければならない。何年後かには、こっちが死んでしまう。ついこの間に、孫と初めて会ってから、まだ1年ちょっと。
もう縦横無尽に狭い茅屋を走り回っている。オレの書庫でも自由奔放に悪戯をしまくらちよこだ(^0^)。この孫が20歳の時に、オレは80歳。むむむ。。いのちは限られているのだ。むむむ。。なのだ。それを思うと、今が、限りなく愛おしい。無駄に過ごすことなかれである。無駄に。
そういう年になったっちゅうことだなぁと思うのだ。しみじみと。
今日も暑いのかなぁ。
こんな中でもオレは駄文を書き続ける。おそらく、城西国際を中退しても、この営みは永続していくのであろう。でないと、ただの暇人じーさまでおわっちまうから。
そうならないように頑張るしかないのだ。
「論文を書けない」と嘆く学生の行動を聞くと,概ね,「あたりまえだなぁ」と思う。「飲み会行き過ぎ」「学会出過ぎ」「本読み過ぎ」など,一見すると,研究しているのかと錯覚するが,殆どの場合,論文の阻害要因にしかならない。お勉強と研究は,関係しそうで,途中から無関係である。
そうなのかねぇ?@奥村泰之 @yachu93 「論文を書けない」と嘆く学生の行動を聞くと,概ね,「あたりまえだなぁ」と思う。「飲み会行き過ぎ」「学会出過ぎ」「本読み過ぎ」など,一見すると,研究しているのかと錯覚するが,殆どの場合,論文の阻害要因にしかならない。#fb
冷酷な現実(これは一箇の冗語法とも響く!)として、物事の過酷な教訓として、戦争は、純粋な存在をめぐる純粋な経験という形で生起する。しかも、幻想という覆いが燃え上がり、まさに閃光を放つその瞬間に生起するのである。-全体性と無限-
ある人が西暦元年に1マルク預金したとして、それを年5%の複利で計算すると、その人は現在、太陽と同じ大きさの金塊を四個分所有することになります。別の人が西暦元年から毎日8時間働き続けてきたとします。彼の財産はどの位になるのでしょうか。わずか1.5Mの金の延べ棒一本に過ぎないのです。
ロマン派の特徴の中に見る狂気の言語活動の特性は、狂気が、ぎりぎりの終末についての言語活動であり、しかも絶対的な再開についての言語活動であるという点だ。即ち、夜の中に崩れ落ちる人間の終末、そして、事物が自らの最初の開始を告げる光である一つの光の、この夜の果てでの発見。-狂気の歴史-
一つはシステムの変革で、これについて討議することはそれほど困難ではありません。もう一つの面はメンタリティの改革で、それが必要であるということです。外的な価値以外の者がとても大切であることを私たちは学ばなければなりません。このほうがシステムの変革より難しいだろうと私は思っています。
バビロンは売買してはいけないものが売買されていることと同義語なのです。ここで現代の世界を見渡せば、私たちはバビロンの真っ只中にいることに気づくでしょう。現代社会では宗教から芸術まで、売買の観点から見られていないものはひとつもありません。 『エンデの遺言』
イエスの祈りにまさるものはありません。そのイエスが、どのように祈ったらいいのかわからないわたしたちのために、わたしたちの内に聖霊を送り、そこで祈ってくださるのです。
〈生存の技法〉、〈自己の技術〉は、キリスト教によって牧人権力の行使の中に組み込まれ、さらに後には、教育や医療、心理学といった形態の営為に統合されることで、その重要性と自立性に関して一定の部分を失ってしまった。-快楽の活用-
大殿祭の日の明け方、神人たち群行(グンギヤウ)して延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫(ミカムコ)等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るのであつた
戦後40年の現代文学においては、作家は読者を啓蒙し、知られざる事実のあれこれを知らしめるものだ、とする考えが風靡してきました。いわば、作家は読者に教訓を垂れる教師だ、といったイメージです。が、私は、そんな創作態度を大いなる思い上がりだ、と断じます。
なるほどなぁ!やさしさというのは、そういうことでしたか!知らなかったですよん。実践あるのみ(^0^)@瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 妻は、やさしくされることを望んでいるだけではない。やさしい心で理解されることを望んでいる。 #fb
今日は、千葉市民会館に行く。郷土史の研究会役員会である。午後からである。案件が6つほどある。声をかけていただいただけでも幸運である。今年の研究誌「房総の郷土史」41号にも愚生の論文を出させてい... goo.gl/BlAlst
真実の言葉は、いつも困難を伴っていますねぇ RT@仏陀 ブッダ ことば 仏教@Buddha_Words 221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない(ダンマパダ) #fb
誰も万人向きのやり方で世を渡ってはいない、と言う事は、どんなによく出来ていても、万人向きのやり方では間に合わぬ、困難な暗い問題に、この世に暮していて出会わぬような人は、先ずいないという事だ。
(本居宣長補記Ⅰ)
御意@小林秀雄 botcast @hideKoba_bot 誰も万人向きのやり方で世を渡ってはいない、と言う事は、どんなによく出来ていても、万人向きのやり方では間に合わぬ、困難な暗い問題に、この世に暮していて出会わぬような人は、先ずいないという事だ。 (本居宣長補記Ⅰ)#fb
教室からいじめが消えた実例を、現役教員が報告!いじめ解消のメカニズムを解消する方法を発見した、佐藤康行の講演会です。 8/25(日) 佐藤康行・教育フォーラムin 京都 ow.ly/nUUIo
瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 妻は、やさしくされることを望んでいるだけではない。やさしい心で理解されることを望んでいる。
今朝の瀬戸内寂聴先生のTwitterからの引用。
なるほどなぁと思った。こころこそ大切であるということである。「理解」があってこそである。中途半端なやさしさではいかんともしがたい。そういうことである。しかしこのことはなかなかできないことだ。実践が、である。特に身近な人には困難である。云わなくてもわかるだろうという甘い期待があるからである。
このことは妻だけではないだろうと思う。他人もそうである。いろいろな社会的しがらみがあってこそ現役の仕事人間を演じていられるのだから。そのことだけはお忘れにならないほうがよろしい。退職したからまったくそう思う。仕事イコール自分と思いがちであったが、そう思う時期も大切だけれども、そうでもない時期も重要である。つまり、自分への投資の時期である。それをワスレテいると、退職してから思い知らされる。なにもすることが無くなってしまうからだ。あるいは再任用をしているからと云って、安心しないほうがいい。再任用だって、退職しなくてはならない時期が来るのだ。その時にジタバタしても始まらないのだ。
さぁ、どうなされますか?
生涯にわたる課題を持っておられますか?
愚生は、ほんとうにそう思っているのである。それが生涯学習の核心であるから。生涯学習は確かに収入に直結はしないし、無意味だと云われる方も随分いる。半面の真実をついているとは思うこともある。収入の面ではまったくそうである。
ところが、ここが決断のしどころである。カネが優先するのか、そうではないのかということである。あるいは、在学させていただたいている大学とか、大学院とか、専門学校とかにどのような価値を求めて、それこそ「理解」するかである。世間体的には、みっともないことだとか云われることも愚生はたくさんある。在籍している城西国際だって、退学して今すぐ再就職してくれと随分云われた。そんなことをやっても、今更価値がないだろうというわけである。云っている方が、つまり愚生を説得している方が、世間体的に随分ととおりのいい大学、つまりエリート大学を出ているからそういう事を云うのである。価値というものは、自分の出た大学にあって、おめぇの(つまり愚生)やっていることなんか意味のないことだと云われるわけである。そうかなぁと愚生は、自分が愚たる存在であるからこそ、疑問に思って聞いていた。
カネのためだけで、自分を売り買いしたくはないのである。
それじゃぁあまりにも寂しい人生ではないか。
今日は、千葉市民会館に行く。郷土史の研究会役員会である。午後からである。案件が6つほどある。声をかけていただいただけでも幸運である。今年の研究誌「房総の郷土史」41号にも愚生の論文を出させていただいたし。「声のコスモロジー 鬼来迎源流考」である。愚生の人生にとってまことに記念となる刊行である。
師匠をはじめ、城西国際のゼミで教えていただいている先生等々、いろいろな人に差し上げたので足りなくなった。今日、10冊ほど買ってくる。一冊1000円だから、年金生活者にはかなりの出費である。でも、愚生にとっては価値ある試みなのである。あ、孫を連れてきたムコドノにも一冊差し上げた。オレが死んだら、じーさまはこんなことを趣味でやっていたのだよんと云ってくれと伝えてある。笑っていたが、マジにそう思っている。孫はまだ1歳をちょっと過ぎただけである。なんにもわかっちゃいない。だからこそである。
家庭内ではオレの書いた論文なんぞ、誰も見向きもしてくれない。収入に直結していないからである。出費だけが嵩むと云われてしまった。ああああああああああああ。まるで、オレなんかいないほうがよろしいんでしょうか?あはははっははである。
「理解」の境地には、まだまだのようである。
やさしい心で理解されることを望んでいるのは、「夫」のほうなのかもしれないのだよ-ん。
(^_-)-☆
たいていのことは「可能性はゼロではない」ので、「可能性がゼロではないものすべてについて警告する」人がいてもいいとは思いますが、特定の「可能性がゼロではないもの」だけを強く警告するのがいいことなのかどうかは、よく考えたほうがよく、おうおうにしてそれはむしろ有害だったり呪いだったり
出雲大社巡り
因佐神社(いなさのかみのやしろ)出雲大社 境外の摂社
ご祭神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)
石津 安信さんのページをシェアさせて戴きました。
石津さんの写真は下記でも、見れます。... fb.me/2gQpgHb2L
身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの〈知〉と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうる。この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名づけていいものを構成する。-監視と処罰-
また、私の聞いている所で、主は他の人々にこう言われた。「彼の後に従い街を巡って、撃て。お前達の眼は情け容赦してはならない。憐れんでもならない。老若男女問わず殺せ。抹殺せよ。しかし、徴を付された者には触れるな。まず、私の聖所から始めよ。」『エゼキエル書』9・5~6より
【フーコーの生権力論】生権力:ヒトという種における基本的な生物学上の特徴が、ある政治(政治的戦略、ある一般的な権力戦略)の内部に入り込めるようになるにあたって用いられる、様々な権力メカニズムからなる総体。-安全・領土・人口-
スマホに閉じ込められた男女。街でみんなが操作するスマホに合わせて展開するストーリー。ちょっぴりミステリアスな映像から何かが始まる。「PLAY SCREEN」→ kddi.eng.mg/f7308
夕感!:葦平“善友”へ幻の追悼文 福岡・柳川市出身の長谷健に送る 作家的力量問う記述も mainichi.jp/feature/news/2… 【筑紫女学園大の松下博文教授(日本近代文学)コメント有り】
戦争によって道徳は嗤うべきものとなってしまう。手立ての全てを尽くして戦争を予見し、戦争において勝利する技術、つまりは政治が、かくして、理性の働きにほかならないものとして理性に課せられることになる。哲学が素朴さに対置されるように、政治が道徳に対置されるのである。-全体性と無限-
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
そのとき、賞賛も恥辱も関係ありません。自分のほんとうの姿を知っているのですから。あなたが侮辱されても、落胆することはありません。人があなたを聖人と呼んでも、うぬぼれることはないのです。ほんとうに自分を知る時、わたしたちは、ただひざまずくのです。
13世紀初頭における贖罪体系の組織化、そしてその宗教改革前夜に至るまでのキリスト教の展開は、極めて露骨な道徳的経験の〈法律化〉―極めて露骨な規範の〈条文化〉―を成し遂げた。宗教改革以前に繰り広げられた精神的・修練的運動の多くが戦ったのは、この法律化に対してであった。-快楽の活用-
現実に絶望してきた期間があまりにも長かったからというのが、ある意味真実なのであろうと思う。だから、オレは文学というものが自己救済の対象であったのだ。よって、文学を「研究」するという行為からは埒... goo.gl/7qbGpr
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結論をいえば、哲学というのは、できるだけ多くの話があわないひとと話してみる技術と意欲のことでしかないんだけど、そういう哲学書ってない。子ども向けの(と称する)哲学書ってたいてい「すべてを疑うのが哲学だ」とかばっかり書いてあって、しかも例はけっこうせこくて萎える。
真の思いやりがあればたくさんの言葉はいらない。
ネイティブアメリカンの名言 @Indianteachings 2時間
■「真の思いやりがあればたくさんの言葉はいらない。」【アラバホ族】
上記のようなTwitterがあったので、非常に気にいった。まったくそのとおりで、駄弁を弄して、ぺちゃくちゃしゃべる傾向がオレにはある。全部、相手に気に入られようとするところがあるからだ。それは、前提に、オレの表情が不快であるからというのがある。
昨日も云われてしまった。配偶者に。おっかねぇ顔をしているって。そうかなぁと反論したいのだが、相手がそう思っているということだけは事実なので、反論できない。受け取り方の問題であるからだ。そういう場合は、むしろ何も云わない方がいい。云うだけ無駄だということである。
目の前に美人がいるとする。
彼女に、知っている言葉や、文学修辞法の限りを尽くして「あなたは美しい」とか「ぼくは、好意を持っている」てなことを伝えてみたい場合がある。そうした時に、どう表現するか。それは大いなる大問題である。そこのところをずっとオレはオレなりに勉強してきただのだが、なにしろ相手がいない。否、美人がいないっていうことではなくて、興味をそそる相手がいない。だから実践としての行動に結びつかないのである。つまらないことだが。
そして考えることがある。なぜオレの顔はおっかねぇのかって。
現実に絶望してきた期間があまりにも長かったからというのが、ある意味真実なのであろうと思う。だから、オレは文学というものが自己救済の対象であったのだ。よって、文学を「研究」するという行為からは埒外となってしまったのだ。研究者とか学者先生というのは、こういう不純な動機でやっちゃいけない。オレの場合は、あまりにも自己限定すぎる。つまりてめぇのために、文学を読んでいるのだ。それでいいのかとずっと思ってきたが、もう手遅れである。60過ぎちゃったのだよーーーん。(^0^)
こういう傾向は、教育実践者に向いている。
自己への絶望とか、そんなことばかりを考えているのだから。自己不信とか、生きる事に苦悩しているとかということで悩んでいる若い衆にはいい教科書になるのだろうと思う。20代前半の頃に、オレはそういう生き方をすることに決めたのだった。ある事件があって。そのことは守秘義務があってここには書けない。
そういうことである。
だから言葉については、少なくとも教育実践者としてはかなりの注意を払ってきたつもりである。その分野に関してだけは。拙ブログは違うけどね。これはもう懺悔の物語みたいなもので、退職したから相当自由自在に書いているから。学生日記として書いているのだけれども、どうも内容はそこから大きく逸脱してしまっているし。もっとも、大学生活がまったくと云っていいほど出てこないのだし。クラスメイトたちのことも書いていないし。写真も全く出していないし、たぶん出させてもらえないだろうし。
完全なメモだな、これじゃ。
それもまたいいか。それも。
今日も、表情に気をつけて、やららかく生きていきまひょ。
(^_-)-☆
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
いいな、いいな、こんな旅いいな @kafkafbot 23分 十二月二十三日。幸福な、それでいてどこか疲れた汽車の旅。いろんなことを聞かされる。『八つ折り判ノート』 #fb
そうかも RT@M_Foucault_jp 1分 私がこれまで発表したもののどこを探しても、また、私の方法や、私が用いる概念のいずれをとってみても、遠まわしにでさえ構造主義を想起させるようなものは何も無い。私が構造主義者だと思い込んでいるのはピアジェくらいでしょう。#fb
みんなおはよう! キンキンキラキラ金曜日。今日は横芝光町の広済寺で仏教劇「鬼来迎(きらいごう)」が演じられるよ。鬼のお面が恐いんだよね~。((((;゜Д゜))))
さぁ、皆様そろそろ起きましょう。アサは一番力の入るときです。いつまでも起きている人は、もっと早く寝ましょう。そして、アサから働くのですよーん。#fb
いいお言葉ですねぇ@人間は、元々そんなに賢くありません。勉強して修行して、やっとまともになるのです。(by 瀬戸内寂聴)#fb
いい言葉である。まさに身に染みる。まったくオレのことを言っていただいているようだ。なんでか。オレは「バカ」だからだ。元々賢くないどころか、正真正銘「ウマシカ」である。ほんとうに慚愧の思いで生き... goo.gl/rTMr7I
「技法」とはある意味で本源的な受動性の否定である。しかしこの否定は、多様にそなわる堅固さに対しては作為として理解されうるし、そう理解されねばならない。-カントの人間学-
清水寺十一面千手観音菩薩像:江戸時代1633年の作で、33年に1度開帳される秘仏。紐の片方が仏の指に結ばれているので、もう片方を手に取りお参りする。twitpic.com/9ct157
卓れた芸術は、常に或る人の眸が心を貫くが如き現実性を持っているものだ。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)に過ぎない。 (様々なる意匠)
権力の諸関連は一辞一義的でなく、多数の対決点、不安定性の根源を規定する。その根源のそれぞれが、争いや戦いや力関係の少なくとも一時的な逆転等の危険を含んでいる。-監視と処罰-
「個体化の原理」を突き破って見ることは、それに必要な程度に行なわれるだけではなしに、さらに高度に行なわれて、積極的な好意や慈善へ、また人類愛へと人を駆り立てずにはおかない。
死について考えることこそ哲学だというのは、じつはハイデガーによって設定された20世紀実存哲学独特の偏向であってね。哲学とはもともとは「フィロソフィア」、つまり知(ソフィア)を愛する(フィロ)ことなんですよ。だから、好奇心いっぱいで、おしゃべりなひとこそ哲学者なの。
戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剥ぎ取られ、かくて無条件的な命法すら暫定的に無効となるのである。戦争状態がありうることで、人間の行為の上に予めその影が投げかけられている。-全体性と無限-
闘争と真理の間のこの関係は真剣かつ根本的なものだが、何世紀にもわたって哲学が展開されている次元であるこの関係は今、理論的な言説の内部での論争において、芝居がかり、肉を削がれ、意味や効果を失っている。したがって、このようなことにおいては、政治は絶対にやらない。-安全・領土・人口-
大殿祭の日の明け方、神人たち群行(グンギヤウ)して延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫(ミカムコ)等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るのであつた
あらゆることにおいて神を喜ばそうとし、神の求めることは何ひとつ拒絶しないことによって、神の愛がわたしたちの中でますます豊かになることに絶えず心を傾けることができますように。
白浜の無縁仏。昔、和歌山の警官に聞いた。ミナミの路上生活者が温暖を夢見て最後の銭で南下。和駅コインロッカーに荷物を置き、さらに南へ。しかし大阪ほど飯も仕事もなく亡くなるのだと。そして荷物が和駅に残る。サントリーCMの「雁」を思い出した okwave.jp/qa/q1107521.ht…
道徳的意識は、戦争の明証性が平和への確信によって乗り越えられる場合に限って、冷笑するような政治の視線に耐えることができる。そうした確信は、戦争と平和を対立させるただの反定立の戯れによって獲得されるものではない。戦争に由来する諸帝国の平和もまた、戦争に基づいている。-全体性と無限-
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。
■「わたしの後を歩くな。どこへ行くか分かっていないときもあるのだから。
わたしの前を歩くな。わたしが君についていかないこともあるのだから。
歩くときは横に並べ。さすればわれわれもひとつになれるかもしれない。」【ユテ族】
哲学者達も確かに終末論を利用して、やはり平和を告げる。とはいえ、哲学者達が最終的な平和を導き出すのは理性からである。ところが、理性なるものはかつても現在も、戦争の直中で働いてきたものなのだ。哲学者達は、こうして、政治の上に道徳を基礎づけることになる。-全体性と無限-